批判と観察

 本書のふたつ前の記事 『カンチガイサン』 を読んだ方の中に、私が「批判」をしている、と受け取った方がいらっしゃった。

 私に何か言う、という行動を起こしたのはわずかな人数だが、思っても何も言わない水面下の方も考えたら、もっといらっしゃるのではないかと思う。

 ……ということで、今回は「批判とは何か」について考えてみたい。



 批判とは何か。辞書で意味をひいてみる。



① 物事に検討を加えて、判定・評価すること。

② 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。


(大辞泉)



 ①だったら、問題なくはないです?

 価値判断はこの二元性の世界に生きながら、しないではいられないことですから。

 これしないってことは、ゲームそのものをしない、という立場に近い。だから確信犯的に「価値判断をしていると分かっていながら、あえてする」のだ。その背景は、「それでもすべてはOK」だという信頼と安心に支えられている。

 問題となるのは、②。

 皆さんが「批判はやめましょう!」と言う時の批判は、②の意味である。

 言わせてもらえば、私は①の意味での批判しかしていない。

 確かに、言葉遣いもテキトーに言いたい放題言っているので、真面目な方の印象を悪くしている部分はあるかもしれないが、絶対に②はない。

 皆さんは、学習したパターンによって無意識にこう考えさせられている。



●欠点や間違いを指摘された → あ、お前はダメだ、って言われているんだ!



 そういう、短絡的な論理的飛躍が、皆さんの中で起こる。

 被害妄想、というやつだ。相手はただ、事実を言ったに過ぎないのに。勝手な感情ドラマストーリーをでっちあげてしまう。

 責められている気になる。お前はダメだ、ここを直せ! と言われている気になってしまう。

 実際に責められる場合も、相手が本気であなたをけなしている場合もあるだろう。でも、ただ相手が何の悪意もなく事実を指摘したにすぎないことさえも、「批判である (②の意味で)」と勝手に受け取ってしまう。

 冒頭で触れた私へのコメントの例も、それに当たる。皆さん、批判という言葉をだいたい②の意味で使っていらっしゃるので、以後①の意味は無視してお話をすすめます。



『神との対話』という本の中に、こういう一節があった。


 

●批判はよくないが、観察ならよい。

 批判と観察は違う。

 観察とは、「~は~だ」と言うことだ。

 批判とは、「~は~だ。だから、~なんだ」と言うことである。



 つまり、白い(と思ったこと)を白い、黒を黒だというのは、観察。

 観察された事実(宿命的に主観が混じるのは仕方がない)を言ってるだけで、何も問題はない。

 ただ、「だからダメなんだよ」とか 「サイテー」とか、観察された事実を越える「感情的評価」がくっつくと、それは「批判」に変身するのだ。きわどい書き方をしていることは認めるが、本書でしているのは批判ではない。

 百歩譲って私の言っていることが 批判だったとしても。それでも私はしたいことをし、言いたいことを言う。

「批判をやめなきゃ!」って言って「難しい。できない! こんな私ってまだまだなの? 頑張らなきゃ!」と苦しんでいる人よりは、百倍快適に生きている。



 筆者はこの人間世界を「神意識が仕掛けたゲーム」だと表現してきた。それには、「解釈ゲーム」だという一側面もある。

 確固とした真実や真理などない。そこまで言い切る私が認める唯一の誰にとっても間違いのない真実はたたつ。「自由」と「真理などないという真理」のふたつのみ。

 だから、みんな違っていい。

 私は「観察」をしたまでだが、一部の人は「批判」と受け取った。もちろん、他人が私の言葉をどう受け取ろうが、それは自由だ。しかし、今回私に苦言を呈した方には一言アドバイスをあげたい。

 相手を変えようとしたくなったら、次の言葉を思い出すようにすればいい。

『己を知り、相手を知れば百戦危うからず』。孫子の兵法である。

 でないと、熱心な宗教伝道者のように「自分は人のため、良かれと思ってやっているのに、結果として相手には不快な思いをさせる」というちぐはぐな結果となる。

 ある教えや考え方にハマり、それを定規にして他を変えようとするのは、駅前や街頭で人をつかまえての宗教伝道と同じ。家に訪問してきて「聖書に興味ありませんか?」と言ってくる団体と同じ。

 スピリチュアルやるような方には釈迦に説法かもしれませんが、世界を良くしたいならここへきて何か言うより、あなたが変わる方がもっと早いですよ?

 ついでに、おせっかいコメントを寄こすような方に、もう一言。



●よその家に上がる時には、靴を脱ぎましょう。

 外国に行く時には、外国でのマナーや文化をちょっとは心得ておきましょう。

 日常会話くらいマスターしておけたら、なおいっそう旅が楽しめるでしょう。



 だから、これからも私は「観察」を続けていくつもりである。

 根がコメディアンなので、茶化すこともあるだろうし、きわどい書き方をすることもあるだろう。それを批判と受け取られる可能性を知りつつも、私は今の執筆スタイルを崩す気はない。それは意固地なのではなく、ただ「そうしたいから」「楽しいから」という、もうちょっとサラッとした理由からである。

 毎日フランス料理食べてたら、いくら高級料理でも飽きる。やはりラーメンとか焼肉、時にはコーラやポテチなども食べたくなるだろう。

 見たところ、スピリチュアルって分野は「きれいどころ」や「お上品さん」「おめかしさん」が多いので、私のようなスタイルも需要があると思っている。

 先日、「スピリチュアル発信者それぞれの、色々な切り口を楽しめるからいい」という感想を寄こしてくださった方がいた。そういう大人な見方、大歓迎である。

 ここは、そういう紳士淑女の集うところです。

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