正当性を捨てられますか?

『一休さん』というとんち小僧のお話は、アニメでおなじみである。

(今どきの子は、そんな昔のものは知らないか……)

 アニメではかわいく描いてあるが、歴史上伝えられているリアル一休さん(一休宗純)は、かなりフケ顔のおっさんである。当時は当然、写真などというものがないので、自画像になる。絵師の実力のほどが分からないので、本物にどれだけ肉薄しているかは知らないが。



 大変失礼ながら、何ともすっとぼけたような顔である。

 まぁ、自画像を描かれた時に、たまたまご機嫌ななめだったのかもしれない。それかさっき食べた食事の食材が、痛んでいたのかもしれない。

 そんなことは、まぁどうでもいい。今回は一休さんのエピソードとして伝えられている話を、ひとつ紹介したい。



 一休さんが道を歩いていると、乞食がひとり座っていた。

 ちょっと可哀想に思い、食事ができる程度の小銭を置いた。

 その乞食は、うれしがる風でもなく、感謝の表情を浮かべるでもなく——

 無表情に、そんなものもらって当然、というような感じでお金を懐に収めたのだ。

 それを見た一休さんは、ちょっとムッとした。

 こっちは親切で与えてやったのに、あの態度は何だ。

 そう思ったので、一休さんは乞食にこう言った。

「あんたは、人からものをもらってうれしくないのか」

 すると、その乞食はこう答えたそうな。



●あんたこそ、人にものを与えることができてうれしくないのか



 今紹介したお話は、大事なことを私たちに教えてくれている。



●私たちは、あるがままの状況を見ることが下手である。

 何かの基準を作って、その基準との落差でものを見てしまう。



 今のお話でいくと——

 一休さんは、乞食を憐れんで、小銭をめぐんだ。

 本当の善意であれば、あげることこそが喜びで、見返りなどどうでもいいはずだ。

 義務感ではなく自分の意志で、喜びから与えるのなら素晴らしい。

 でも、あげた後の相手の反応まで気にするのは、どこかにエゴが潜んでいる証拠。

 この乞食は、一休さんの魂の成長段階をあぶり出す、リトマス試験紙だったのだ。

 言わば、一休さんにとっては迷惑な相手などではなく、天の使いのように有難い存在だ。きっとこの後、一休さんは謙虚に、自分のありようを認め受け止めのだろうと思いたい。



 よく話す例えだが、コップに水が半分あるとする。

 全部入っていることを当たり前、としてその基準で見てしまうと——



●コップに、半分しか水がない。

 


 つまり、基準である満杯の100%に対し、その差の50%分を不足と見て、そういう表現になる。この基準では、あるがままを喜べない。

 しかし。先ほどの基準を放棄して、ただ水があるということだけに着目したら?



●コップに水が半分もある!



 ゼロが基準となっているので、ゼロに対し入れ物全体の50%が加えられている分、50%のプラスとなる。つまり、半分もある! という感謝になるのである。

 コップに水が半分、という状況はまったく同じなのに、ただ視点が違うだけで片方は不満・片方は感謝という全然違う結果が引き出されるのである。

 一休さんも、乞食に与えて、与えることをただ喜びとして去ればよかった。それだと、ただ喜びだけをお土産に帰れた。

 しかし、何か見返りを求める心があり、相手の反応まで気にして観察してしまった。その結果、相手がニコニコして喜べばよかったのだろう。でも、それでは一休さんは何の学びもできないことになり、成長の機会を失っていただろう。

 ああいう乞食だったからこそ、逆に良かったのだ。

 大いなる気付きを与えてくれた乞食は、一休さんにしてみたら教師だ。



 私たちも、知らず知らずのうちに、一休さんがかかった罠に陥っていることがある。例えば、親切という行為。

 どう考えても、上位なのはこっちである。与えている側であるから。

 どう考えても、下位なのは相手である。だって、もらう側であるから。

 お礼の言葉や感謝する様子が相手にない場合、あげるほうはムッとする。一般的な感覚では、ムッとした側は何も悪くないと思える。だって、相手は助けてもらったのだから感謝されて当然だし、お礼も言わないなんて向こうの方が失礼、と考えるだろうから。

 感謝しない相手の方がどう考えたって間違っているのだから、たいていの人はそこで相手の問題ではなく自分の問題だ、という逆転の発想がなかなかできない。



 皆さん。

 自分が、どんなに正しくても、間違っていなくても。

 相手がどんなに間違っていても、悪くても礼儀知らずでも、心の平安を失いイヤな気分になるのなら、あなたのせいです。相手のせいにしてはなりません。

 このことを、心の片隅に思っていてください。

 だから、あなたが本当に成長できるカギとは——



●正当性を捨てられるかどうかです。



 自分は正しい。間違っちゃいない。ちゃんと、しきたりや常識にのっとっている。

 そういう矜持(自信)を捨てきれないから「それに引き換え、コイツは何だ? こんなヤツに、二度と親切にするもんか!」というふうに相手を裁き、結果あなたは自分が正しいという思いの強化と引き換えに、心の平安を失う。



 例えば、かつてあなたの友人が、自分の主催するパーティに誘ってくれたことがあるとする。あなたはその時、とても楽しい時間を過ごせた。

 そしてしばらくたったある日、その友人がまたパーティを開くという情報を知った。でも、今度はその友人からお誘いの声はかからなかった。

 そこであなたは、腹を立てるのである。



●あの時は誘ってくれたのに、なんで今回は誘ってくれないのだ?



 さて、ここで気を付けたいこと。

 あなたは、何の損もしてない、ということ。

 腹を立てるあなたは、勝手な判断基準を生み出してしまったのだ。

「前回誘ってくれたのだから、今回も誘ってくれていいはず」だという。

 実は、相手にそんな義務はない。相手の自由ではないか。

 それどころか、前回誘ってもらっていい思いをした分、あなたは得をしたのだ。ゼロを基準として、ありのままさえ見れば。

 じゃああなたは、同じ今回誘われなかったのなら、いっそのこと前回も誘われない方が良かったか?



 実質に損をしていないのに、あたかも損をしたような気にさせるのが、エゴの巧妙なすりかえ戦法である。

 本書内の『働かざる者、食べてちょーだい!』という記事でも紹介している話を、思い出してほしい。

 Aという男が、朝から晩まで働いて一万円の約束で働いた。

 夕方前、仕事がなくて途方に暮れている男を雇い主があわれに思って、数時間だけ働かせた。

 その男に、雇い主がAと同じ一万円をあげたのを見て、Aは腹を立てる。

 なぜ、アイツよりもっと働いたオレが、同じ額なんだ?

 Aは、何も損をしていない。

 ちゃんと一日一万円の約束で働いたのだから、雇い主は約束を守っている。

 そこが、罠なのだ。自分に与えられたありのままを感謝できなくさせるのは、「比較」である。



●新時代において、最短で幸せになれるのは——

 ものを見るのに、何かのものさしを当てないで、ありのままを見る人。

 あるいは、ものさしを当てながらも、当てているということを自覚している人。



 自分は正しい。どう考えても、おかしいのは相手だ。

 その気持ちは、よく分かります。

 でも、グッとこらえて。

 あるがままで喜べる状況は何か、落ち着いて探しませんか。

 落ち着かない気分に支配されるなら、自分の中にどんな「これで当たり前」の基準があるのか? を問うてください。

 相手ではなく、そこを見るようにしませんか。

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