北高生ロストドキュメント(前)

いしじまえいわ

その1/4

 この世には二種類の事象が厳然として存在するということは、この一年余りのけったいな高校生活を通じて身に染みて得ることとなった俺の人生における数少ない経験則の一つだ。それすなわち、一つはどんな苦労を背負い危険を冒してでも然るべき時然るべき場所で然るべき相手に対して明朗快活に口に出して伝えるべきことであり、もう一つは言わなくていいことである。

 では俺自身がこれまでいくつかあった致命的な局面で言うべきことを言うべき相手に正しく伝えられていたかというとそんな自信はこれっぽっちもなく、むしろふとその時のシチュエーションを思い出しては「あれでよかったのか?」「あの時なんと言うべきだったんだ?」と考えを巡らせたのち、まあいいやと匙を投げてしまうことがほとんどなのだが、今キミに伝えようとしている出来事は幸か不幸か後者に該当する事例だ。つまり、知っても知らなくてもどっちでもいいような事であり、なんだったら読み飛ばしてもらって一向に構わないし、俺としてはむしろ秘密のままにしておきたい、積極的に黙殺してほしい類のしょうもないエピソードなのである。

 一方で、もしキミがそういった些事にこそ万有引力に従って地表に吸い寄せられる赤い果実のように惹かれてしまうタイプの人物なのであれば――俺にはそういった人物に約一名心当たりがあるのだが――このままページをめくってもらってもいいのかもしれない。

 ただし、その結果時間を無駄にしただとか耐え難い苦痛を感じたとか、そういったクレームや非難の類をお寄せいただくのは一切ナシでお願いしたい。キミと俺だけの秘密の約束だぜ。

 というわけで(どういうわけなんだか)、準備はいいかな? お互い覚悟も決まったところで、ある日の教室に思いを馳せることとしよう。


 初夏も終わりを迎えようというある暑い日のことである。梅雨入りもそろそろという頃合いで登下校に傘の欠かせないシーズンになってきた……かと思いきや、気温と湿度が上がるばかりで五月雨の名にふさわしい雨の日はほとんどなく、ただただ蒸し暑いだけの日が続いていた。今月に入って衣替えがあったのは幸いだったが、それにしてもマラソンでも終えてひと汗流したわけでもないのにシャツが常に肌にまとわりつく感覚は不快以外の何物でもない。

 そういえば去年も梅雨らしい期間はごくわずかだった気がする。そして俺は来年のこの時期も雨はそんなに降らないんじゃないかと予想した。何故かといえば、俺の席の後ろには雨や水を司る神様も忖度して避けて通りそうな年中南中している太陽神の如き女がいて、俺が来年そいつとの縁から解き放たれているとは到底思えないからだ。

 まあ俺としては水神様だか竜神様だかよりはこの県立高校の全教室にエアコンを設置してくれそうな神様を崇め奉りたいとかねてから思っているんだがね。古今東西のどの神様に祈ればいいんだ? ネーミング的に『機械仕掛けの神様』って奴か?

 俺はなんとなく髪の短い西洋人形風のマリオネットが教室の壁に穴を穿ってえっちらおっちらエアコンの設置工事をしているさまを思い浮かべた。頼むぜ神様、俺を名状し難い暑さから救ってくれ。

 それはさておき。今日は一学期中間試験の最終日で、つい十分ほど前に最後の科目の解答用紙を教壇に提出し終えたところだ。そのため俺は三日ぶりの、いや、試験期間に入るずっと前からハルヒの一方的決断により再開された放課後試験対策個人講座期間も含めれば一週間以上ぶりの開放的な時間を満喫している。

 はずであった。本来であれば。

 実際は試験を終えたはずのクラスメイトらは今なお着席したまま机上の紙に視線と筆記用具を走らせている。俺の目前にももちろんクラスメイトと同じマークシート式の解答用紙と設問集があり、この無数の穴を黒く塗りつぶす作業を余儀なくされているというわけだ。


 担任岡部によると俺たちが今やらされているのは選択回答式の自己診断テストなるものだそうだ。なんでも生徒らが各自の長所や短所を客観的に把握するのに役立つもので、学力向上や就職率進学率アップに効果的という触れ込みで北高だけで実施されることが決まったものらしい。おそらく校長がライバル校との差別化を図って採用したんだろう。

 そのため俺たち北高生諸氏は試験最終日のホームルーム時間を丸々使って試験の延長のようなものをやっている、という次第である。

 俺の手によって机の上で開きっぱなしにされた設問集には、一問目としてこのように記されている。


問1:あなたは慎重な方か?


 さてどうだろうね。そうといえばそうだろうし違うといえば違う気もする。状況の深刻度合いによっても誰から見るかによっても答えは変わるだろう。どっちとも断定し難いし、逆にどちらも正答だともいえる。ということは、どっちでもいいんじゃないか?

 ということで「はい」に丸。シャーペンで楕円を黒く塗りつぶす。

 次の質問。


問2:あなたは伝統や歴史を重んじる方か?


 わざわざ軽視する奴がいるんだろうか。確かにハルヒなら千年続く伝統よりもその場で二秒くらいで思いついたことの方を優先することがしばしばありそうだが、そういうことを聞いてるのか? 対象とする被験者が特殊すぎやしないか?

 いまいち設問の趣旨が分からないまま「はい」の欄をチェック。


 冊子の厚さから察するにこんな調子の砂を噛むような質問が三百問くらいみっちりと俺たちの前に立ち塞がっているようだ。

 これは苦行か?

 それとも精神修行か何かの一種で「真面目にやり遂げられたあなたならきっと希望校にも合格できます! おめでとう!」なんてふざけたフィードバックが後日返ってくるんじゃないだろうな。何だって試験が終わったこの良き日に、くそ暑い教室に残ってこんな懲罰刑の如き作業に勤しまなきゃならんのだ。

 やめだ、やめ。

 俺は早々に設問一つ一つの意義を読み解くことを放棄し、読んだそばから適当に楕円を塗りつぶしていく方針に切り替えた。それにしたって数が数だ、手が疲れることこの上ない。何なんだコンチクショウめ。

 約三十分ほどで全ての項目に回答し終え、自分より先に何人かが壇上に紙を出したのを確認してから、氏名が見えないよう回答シートを裏返しにして提出した。試験監督役の岡部教諭は教壇の横で椅子に座って腕を組んだまま少し俯いている。頭が舟を漕いでいるから多分眠りかけなんだろう。

 そりゃ教師も余計な仕事が増えて大変だよな。ご苦労さん。


 この試験は終わった者から帰っていいことになっていたので、俺は筆箱を鞄に放り込んでいつでも教室を離れられる準備を済ませた。さらに数名が提出を終えて静かだった教室がざわめき交じりになってきた頃、ハルヒはいつ紙を出すつもりなのかを確認すべく後ろの席に目を向けた。

 いつになく集中した眼差しで回答シートを睨みつけるハルヒの視線の先の進捗具合を見て仰天したね。まだ十問くらいしかマークしていない。おいおい、お前寝てたのか? こんな作業適当にちゃちゃっと終わらせて早く行こうぜ。

「適当に、ですって?」

 ゆらりと顏を上げたハルヒは、四十六億年間年中無休で熱核融合を続ける恒星の如き瞳で俺をギロリと睨みつけた。暑苦しい奴である。

「あたしはいつだって本気よ。適当なんて許されないわ。しかもそれが自分自身に課された試験だってんならなおのことよ」

 そういやこいつにはいかなる冗談も通じないんだったな。この試験だか何だかは冗談みたいなものなのでおそらく相性が悪いのであろう。

「一体何にそんなに時間をかけてるんだ?」

「問われてるシチュエーションの理解によ。たとえば問1」

 と言ってハルヒは設問集の該当箇所に、ゴンと机が鳴るくらいの強さで指先を落とす。

「あたしが慎重かどうかなんて状況次第なんだから一概に言えるわけないじゃない」

 まあ、それは俺もそう思う。

「でもね、世の中には陰と陽とか男と女とかガルガンチュワとパンタグリュエルとか、二つに一つのどっちかってものがあるわけ。それだって本当は真ん中やそれ以外って事も往々にしてあるわけだけど、現実問題として今あたしの目の前にあるこの紙には回答欄が二つしかないんだから、答えられるのはイエスかノーかどっちかしかないの。その事実に対してあたしがどう対応するか。それはあたしとは一体どうあるべきかという自分自身への問いかけと同じなのよ!」

 言っている意味はよく分らんが、どっちかに決めかねてるんなら両方塗りつぶすとか欄と欄の間を真っ黒にしてやるとかすればいいんじゃないか? 普段のお前ならそのくらいしそうなもんだが。それにお前、試験なんてのは出題者の意図が分かれば回答は簡単だ、って言ってなかったっけ?

「普段の試験ならその通りよ。でもこれは自己診断テストなのよ? 出題者なんかこの際どうでもいいわ」

 どうでもいいのか。

「あたしはあたしに対してどう考えてるのかってことが問題なのよ。それなのにそんな逃げた回答をするなんてのは論外も論外だわ」

 そっすか。じゃあ俺腹減ったし、先に部室に行ってていいか? ちょっと話を聞きたい相手もいるんでな。

「勝手にしなさい」

 ハルヒはプイと顔を横にそむけると、またすぐに設問集と回答用紙を凝視し始めた。そして目をそこから離さないまま、

「みんなにはちょい遅れるからって言っておいて」

 はいはい。ということで俺は一人部室へと足を運んだ。


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