逆さ天使の嘘

宮森 悠一

逆さ天使の嘘

 耳鳴りが鳴る。

 それを鳴り止ませるのは、融ける吐息と、喘ぎにも似た苦しげな美声。エアコンが吐き出す冷風が、私の熱を覚ますようにそっと頬を撫でていた。額から汗が吹き出し、首のところを流れていく。

「痛い、痛いって言ってんだろうが。抜くんじゃねえ、おい」

 ぶちりと心地の良い音がする。今にも消え入りそうな命を思わせる少年のか細く掠れた声が、部屋に物音一つ立てずに吸い込まれていった。時計の淡々とした狂いのない音が、ヒステリックで異様な今を、より浮き立たせているようだ。あまりにも長い間これに耳を傾けていると、もうやめろと一定に声をかけられているようにも聞こえてくる。私はこの部屋の時計と仲良くなりすぎたのだろう。最早親友の域だ。

 真っ白な残り僅かの羽を指先でさらりと触れる。ここに連れてきた当初の、ふさふさとした柔らかさは見る影もない。骨ばった両翼は赤ん坊が手を広げるようにたどたどしく動いていた。しかしほどなくして、養分をなくして萎びた葉のように縮こまっていく。

 もう動かなくなりつつある少年――いや、「天使」と名乗る存在に、私は少しばかりイライラしてきていた。少年は私を力無く罵る。非道なやつだと。彼の手足をくくるカーテンの締まる音が、ギリギリと耳に残った。窓に残るもう一枚の薄いレースカーテンでしか日の光は遮られず、目を向けると少し眩しかった。



 会社の経営状況が最近あまりよろしくない。頭皮からまた一本、ぷつっと髪を抜く。また抜いて、抜いて、ぬいて。

 ストレスが溜まると、髪を抜く癖があった。それが日課のようになってしまったのは、思い出すと中学の受験時期だっただろうか。思い悩んでクラスの担任へ相談したところ、受験勉強に追い詰められた生徒が、稀に癖として定着してしまうストレス発散法の一つらしかった。受験が終われば直るだろうと、私は鉛筆を持たない片方の手を尻と椅子の間に挟み込みながら、受験に集中した。

 しかしながら、私は受験が終わっても、その癖が直ることはなかった。友人関係、家族とのごたごた。何かしらと蟠りが溜まると、無意識のうちに手が頭上へと伸びていた。最初は将来の頭皮のことも考えて止めようとも思ったが、気がつけば黒く太い元気な髪でも、痩せ細った白髪でもお構いなしだった。ハゲになりたくはない。とは言っても、やめられない。せめて何本もの束を弔うようにゴミ箱に捨てる。おかげで今では頭のとっぺんが、短い髪の毛だらけであった。髪のまとまり具合が日増しに悪くなり、気になってしょうがない。そうしてまた塵が積もるようにストレスが溜まっていき、今日も一本、毛根からおさらば、である。

 大学卒業の頃、会社に就職し慣れ始める時には、髪を抜き続けていたら頭皮から血が滲み出るようになっていた。

 流石にまずいと危機感覚えて考え出した解決策は、草木の花弁や葉っぱ、芽などを毟ることだった。試しに何本か花を買ってみるかと近所の花屋を巡る。まさか自分が毟られるために買われていくとは思ってもいない花たちは、大した見た目もしていないのに値が高かった。店頭に上品に並ぶ小奇麗なドレスを纏った姫君様方。王子に自分が選ばれるのを待ち望んでいたが、あまり魅力的に感じることはなく、舞踏会から連れ出したい華々しいものはいなかった。私は一瞥して、懐の事情も含めて買うのは諦める。仕方なく野花の元気っ子を根っこごと引き抜き、家で花びらを千切って試してみたが、結局草花ではストレスは発散されなかった。次第に草の根ではなく、また髪の根を抜き始めることが増えた。

 次に思いついた案は、虫の羽を抜くこと。蜻蛉や蝉、蝶に鈴虫。カブト虫やカマキリまで。羽を抜いて、ぬいて、抜いて。強制的に退化させられ、転がされて、衰弱していく芋虫たちのことは気にもしなかった。いずれはこのことに関して病院に通いつめるかもしれないことを思うと、気にする余裕が私にはなかったのだ。それでも虫が捕まらない日には、自らの髪を何十本もブチブチと抜き去っていた。

 そんなストレス解消法に不安を抱えていたある日のことである。唐突だった。「彼」を捕まえることができたのは。

 いつもの通勤路の途中。幼稚園児が送迎バスを母親と待つ公園の前を過ぎる時間帯。日差しに強い夏の始めだったこともあり、近所の家の軒下に吊るされた風鈴が、チリンと揺れたのかと思った。助けてと、清涼な硝子の声が聞こえたと思ったのだ。

 それは公園の隅。ゴミ捨て場のような雰囲気を醸し出している鬱蒼とした茂みからだった。そこを覗き込むと、青い瞳が特徴的な少年が、傷だらけになって倒れこんでいた。

 ……いや、それよりもだ。彼の背中から伸びる壊れかけの翼が、私の意識全てを奪って離そうとしなかった。はたはたと涙をこぼすように羽がそこら中に抜け落ちている。

 直感的に思ってしまったのだ。この羽を抜きたいと。抜き心地を確かめたいと。それはどんなに清々しく気持ちの良いものなのだろうと。考え、想像してしまったのだ。

 私は会社に行くことも忘れて、少年を家へ連れ帰った。昨日そういえば雨が降っていたか。気のふれた私の焦る顔が、目をかっぴらき期待に満ちた表情が水溜りに映り、自らの足でぐしゃぐしゃにした。



 彼は少年の見た目をしていたが、華奢な見た目にそぐわず大変大きな翼が背中に二つ、生えている。絆創膏を頬に貼るなどすると、ぱさぱさと動いていた。

手当が終わり、彼が怖がって逃げないためにフックから外したカーテンで両手首を縛る。羽が抜きやすいように壁際の洋服掛けに吊り下げた。少年の身長が足りず、少々足が浮く。せっかくの抜き心地のよさそうなものをそう簡単には手放さない。縛る加減は肉に食い込むぐらいが丁度いい。

 少年はいつのまにかこぼれんばかりに目を開けていた。ここはどこ。なんで吊り下げられているの。そんなことを言いたげな、好奇心を抱えた悩ましい表情。

「君のその背中のものに興味があってねえ。少しばかり抜かせてほしいんだ」

 少年は翼を少し広げてみせた。ところどころ羽が抜け落ちていて、少し振るだけでも二、三枚のそれが舞い落ちる。怪我故にと言えど、嗚呼、勿体無い。

「これ? 抜いていいよ。ぼく死にたいし。寧ろ抜いてほしいかな」

 聞くところ、少年は「天使」という存在らしい。翼の羽がすべて抜け落ちてしまったら、彼らは死んでしまうという。

 お偉い方の命令を聞くのが嫌になって飛び出し、その辺をうろうろしていたら、カラスに襲われて動けなくなっていた。そこに私が通りがかったのだ。要するに子供の家出じゃないか。

 理由はともかく、「抜いてほしい」と本人からのお申し出だ。こちらからも土下座をして地面に額を擦りつけながらお願いしたいところだったのだから、喜ばしいにもほどがある。

「じゃあ、遠慮なく」

 私は少年の肩を掴んで、背中をこちらに向けさせた。また二、三枚落ちる羽。骨ばった少年の体に不釣り合いな大きさの翼が、立派で実に重たげである。

 天使という存在が私や他のものにどう影響するのか、少年の不健康そうな死体など、自分には関係のないことだ。自らの髪以上に抜き心地の良いものが、「天使の羽」であるかどうか。それだけが知りたいのだ。

 窓の桟に積もる柔らかな雪を思わせる、ふんわりとした羽毛。生えている向きに逆らって撫でる。もう一度撫でる。なでる。ゆっくり指先で混ぜて、じっくり手の甲で押し潰して、飽きるくらい見つめる。いいや、飽きることはないだろうけれども。

 天使は羽を触られているという感触はあるのだろうか。特別くすぐったがるような素振りはない。ただ呼吸のために胸を上下させて、ピエロの白塗り顔を想起させるような笑みを浮かべながら、ちょっと手首が痛いかな、と言い吊り下げられていた。

 特別逆立ったと感じた一本を、他の羽を連れてこないよう丁寧に人差し指で起こす。根元まで辿る。指の腹でつまんで、ぷつり、と抜いた。良い音がして、瞳孔が開くのを感じた。それからは何かに憑りつかれたように一心不乱に抜いて、抜いて、ぬいた。毛羽立った荒いものを探したり、波打ってクセのあるものを撫で続けたり。生えている方向に素早く抜いたり、羽の流れに逆らってあっさり抜いたり。持ち上がる薄皮から剝がれる一瞬を、からからのオアシスで湧き上がる水を今か今かと待ち望むように、凝視しては呆気なく抜けてしまう喪失感を楽しみ続けた。左翼の羽が全て無くなるころには、少年は更に痩せこけてしまったように見えた。

「君を逆さまにしてもいいかな。抜き方の気分を変えたい」

「わかった、いいよ」

 少年の手首からカーテンを解いて、そっと床に座らせた。鬱血していた手首をさすりながら少年は自分の両翼を見比べたが、何も言わなかった。

 気がつけば、私は全身に滝のような汗をかいていた。手汗のせいで羽の一部がお互いにくっつき合い、離しにくくなっている。

まずい、抜き心地が悪くなる。

私は夢から覚めることを恐れる子供のように、そそくさとエアコンを起動させて戻った。

 彼の足に巻き付けたカーテンを、また洋服掛けに引っ掛けて吊り上げる。すると、先ほどまでは水を失い息を切らせた魚のように、なされるがまま何も喋らなかった少年が、低く唸り始めた。一方で私は既に彼の翼に虜になっていて、残ったもう片方の翼の羽を抜くことしか頭になかった。

 これまでに味わったことのない抜き心地の良さが、私の手を止めようとはさせてくれなかった。引っ張っては離し、選り好みをする。途中で切れるのにも構わずぶちぶちとわざと音を立てて抜いたり、毛穴を確かめるように、ねっとりと時間をかけて抜いたりしていた。

「痛い、痛いって言ってんだろうが。抜くなよ、おい」

 バチンと音を立てて抜きかけの羽と共に私の手を払い退けたのは、威嚇する猫と同じ目をした少年の手だった。私はイラつきを覚える。

「触んな。俺はまだ死にたくねえ」

「羽を抜かせてくれると言ったじゃないか」

「うっせえ。とにかくこれを解けよ、血が止まって仕方がねえ」

 変わらず風鈴が鳴るような声だが、その反面、泥を固めた飴玉をいくつも飲み込んだのだと思わせられる言葉遣いに、開いた口が塞がらなかった。けれども私は羽を抜く。

「これ以上抜いたら俺は死ぬ。死ぬんだぞ。この人殺し、天使殺し」

 血管が幾筋もの道をつくる彼の青白い両腕が伸びてくる。振り回してくるが、弱った少年の力では掴まれようがひっかかれようがこれっぽっちも痛いとは思わず、鬱陶しいだけだった。適当に払って放っておく。

 ぶち、ぶつぶつ。ぷちり。今までに感じたことのない高揚感が怒涛の波のように押し寄せてきて、自分をなぎ倒してしまいそうだ。今にも気絶するんじゃないかと思うくらい、どうしようもなくたまらない。線香花火の終盤、大きな赤い塊が落ちるのを見届けるようだ。鷲掴んだ胸元の服を引っ張り上げて、額の汗を拭う。

「やだ、死にたくない。まだ生きたい。ごめんなさい。抜かないで。抜くなよ。俺死ぬよ? 死んじまうぜ? いいと思ってんのかよ、駄目だろうがよ。この殺し屋め」

 その言葉を最後に、彼の腕から一切の力が抜けた。だらりと垂れた腕がぶらんぶらんと揺れて、壁に音を立ててぶつかる。彼にとって最後の羽を抜いてしまったのだ。先ほどまで羽をばたつかせ動いていた天使がそこにいる。それなのに、瞬きする間に死体と化したそれが気持ち悪くて、私は手洗い場へ駆け込んだ。



 吐き出すだけ吐き出して、顔を上げる。目の前にあったのは、剛毛と言われた自分の髪があるべき場所。その剛毛が見る影もない、薄い頭皮。

 部屋に駆け戻ると天使と名乗った存在はなく、引きちぎられたボロボロのカーテンと、黒い毛だまりが部屋中にあるだけだった。つけたエアコンが、こうこうと音を立てている。

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