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それは、とある雨の降る日のこと。
午前中に掃除を済ました私は、午後には本を読んで過ごすつもりだった。両手で頬杖をつきながら窓の外を眺めるべにばらは、きっと良からぬ妄想に耽っている。
近頃は彼女が面倒を起こしそうになると、気配で分かるようになった。あと数刻のうちに何か言い出すに違いない。
本の上から顔を覗かせ、後ろ姿を眺めていると、彼女は突然こちらを振り返った。これでもかというほどに瞳を輝かせ、「お散歩に行きましょう!」と言い出したのだ。
「えぇ、今日はずっと雨だよ? 濡れるし、汚れちゃうよ」
私が冷ややかにそう答えると、彼女は小さな両の拳を腰に当てながら、「なに言ってるの、レインコートは雨の日にしか着れないのよ!」と声を上げた。
「こんなチャンス、めったにないじゃない」
「それはチャンスというか、備えでしょ。それに――」
「足元は長靴があるから汚れないし、大丈夫だよね」
私の言葉を遮った彼女は、続けて勢いよく手を叩き、「あれを履いたしらゆきはきっと可愛いわ、だからぜったいに履くべきよ!」と独自の理論を述べ始めた。
そんなわけで、結局根負けした私は雨散歩に連れ出された。
表に出ると思いのほか雨足が強く、吹き付ける強風が子供の身体にはひどく堪えた。私たちはレインコートを着たうえに傘まで握り締め、散歩に臨んだ。散歩とは元来、気晴らしや健康のために軽い気持ちで始めるものだろう。絶対に間違っている。
べにばらはいつにも増してご機嫌で、傘を持ったまま身体を回転させると辺りに飛んだ水しぶきを面白おかしく眺めていた。蛙を見て騒ぎ、風に向かって叫び、蝸牛を見ては何度も主を殻の中へ追いやった。
あまりにもはしゃぎまわる彼女は、ポケットから家の鍵を落としたことにすら気づいていないようだった。
少し離れた場所から彼女を見守っていた私は、気づかれぬようにそっと鍵を拾い上げ、それを自分のポケットに収めた。
「やっぱり私たちといえば、散歩よね!」と、べにばらはこちらを振り返って言った。
彼女のその言葉は、とても懐かしく私の胸に響いた。
幼少期に姉妹だけで観た年末の音楽番組が、ふと思い出される。それは私がまだ小学六年生の頃で、姉は中学三年生だった。
深夜番組に限っては、リビングでなく子供部屋の小さなテレビでこっそりと観ていた記憶がある。あの頃はちょっとした夜更かしにも興奮し、胸が高鳴ったものだ。
思春期を迎えた姉は音楽に没頭しており、足繁くレンタルショップに通っていた。その夜は年越しということもあり、彼女は我ら姉妹の年越しに相応しいイメージソングを決めようと、熱心に音楽番組を眺めていた。
テレビでは流行りのアイドルソングが流れ、歌謡曲が流れ、演歌が流れ、とうとう姉の気に入る曲は見つからぬままサブちゃんや和田アキ子の出番が回ってきた。
赤白の決着がつくのを見届ける前にチャンネルを切り替えた姉は、続けて男性アイドルの集う年越し番組を眺めていた。そこではきらきらした男の子たちがメドレーソングを歌っている。
『つまんないね』
姉は典型的な中学生女子とは異なり、アイドルに全く関心を示さなかった。彼女は年越しのカウントダウンライブもそっちのけで自身のCDラックを漁ると、そこからお気に入りのものを何枚か抜き出し、ミニコンポで流し始めた。
『やっぱり私たちといえば、ロックよね!』
聴こえてきたのは間の抜けた英語の歌声に、激しいバンド演奏。重低音が心地よく響いた楽曲で、小学生の私にとってはカルチャーショックとも言える代物だった。
なぜそのバンドが選ばれたのか、なぜ私たちにはロックが似合うと彼女が判断したのか、それは分からない。けれど私は、彼女の流した曲を聞いた瞬間から、すぐに気に入ることができた。
『かっこいいね』と私が答えると、姉は満面の笑みを浮かべ、『今度から年が明けたら、この曲を流すことにしましょう』と言った。
姉妹のイメージソングは、その年の始まりと共に決定したのだった。
だが翌年以降、私たちが共に年越しを迎えることはなかった。何か致命的な揉め事を起こしたとか、二人の仲が深刻な状態にあったわけではない。中学に上がった私に、外での付き合いというものが生まれたからだった。
大晦日には夜な夜なクラスメイトの部屋に集まってアイドル鑑賞に付き合い、深夜の初詣に赴き、除夜の鐘を聴き、そのまま寝不足の重たい瞼で初日の出を見に行った。
深夜帯の神社は人でごった返し、睡眠不足で身体も重いなか、辛いだけの催し事だったけれど、私はお誘いを断るのがとても苦手で、それから毎年付き合いに参加していた。
姉は私の外での私の付き合いを喜び、「どうだった?」、「楽しかった?」などと出かける度に尋ねてくれたが、私たちは気がつくと小さなすれ違いを重ね、いつしか平凡で淡白な姉妹関係に成り果てていた。
べにばらと過ごしていると、時おり私の胸は針で刺されたように小さな痛みを感じる。
チクチク。チクチク。
些細な痛みだがその痛みは確かに存在しており、着実に蓄積を繰り返していく。
「……あれ? あれれ?」
散歩を切り上げて帰宅したべにばらは、扉の前まで来て鍵を失くしたことにようやく気がついたようだ。慌てた様子でポケットを弄り、今にも泣き出しそうな顔を浮かべている。
私がゆらゆらと鍵をかざしてみせると、彼女は瞳に薄っすらと浮かべながら意味不明な叫び声を上げ、力強く私に抱きついた。
姉から頼りにされる存在というのも、たまには悪くないものだ。
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