『リキサクなんだから!』

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 待ちに待った春が訪れ、彩り鮮やかな花々が周囲に咲き乱れ始めた頃、熊は約束通り我が家から旅立っていった。


 べにばらはその日から、夜な夜なベッドに潜り込むと密かに泣いていた。


 声を立てず、肩を揺らさず、僅かに鼻を啜る音だけが暗闇の中で聞こえてきた。涙は徐々に枕を濡らし、シーツを濡らし、彼女の湿り気を背中に感じながらいよいよ涙が枯れてしまうのではないかと心配になりかけた頃、彼女は泣きつかれて眠ってしまった。


 振り返ると、彼女は心地よい寝顔を浮かべながら枕を強く抱きしめていた。


 その日の晩、私は珍しく寝つきが悪かった。最近では滅多にそういうことはなかったのだが、今夜はどこか身体の芯が眠りを拒むように強張っている。


 こういう夜は、決まって幼少期の体験を回想しながら過ごしていた。


 姉に誘われて近所のお友達とかくれんぼや鬼ごっこをした記憶。


 神社の境内でボール遊びをした記憶。


 男子たちが作る秘密基地を見に行った記憶。


 夕方になって彼女のお友達とようやく打ち解け始めた私が帰りたくないと駄々をこねると、姉は私をたしなめながら困った弱った表情を浮かべていた。


 家族でホラー映画を観た夜は尿意を催すと彼女を起こし、一緒にトイレに行ってもらった。


 部屋の角の真っ暗闇を眺めると何かが蠢いている感覚に襲われ、身動きを取るのがふと恐ろしくなった。


 しかしながら、それもほんの少しの勇気を振り絞ることで解消できる事象であることを、今の私は心得ている。指先を僅かに動かすことから始め、次に視界を左右に振り、首を動かす頃には恐怖心も和らぎ始めていた。


 あれもこれも、思い返せば多くのことを私は姉から教わった。


 暗闇の中で身体に叩き込まれたルーティンを終えた私は、ベッドから立ち上がって部屋の隅を確認する。


 そこにはやはり何者も存在しない。


 恐怖心から生み出される幻覚は、本人の心の持ちようで自由に消すことが出来るのだ。


 雲に遮られていた月の光が薄らと部屋に差し込むと、私は光に導かれるように窓から外を眺めた。


 静かに窓を開くと夜風が仄かに冷たくはあるものの、もはや刺すような痛みはなく、すっかり春の空気だった。


 梟の鳴き声がそこかしこに響いているものの、姿は見当たらない。耳を澄ませながら庭先を眺めると、月は再び雲の中に姿を隠し、庭先の暗闇に距離感が麻痺してくるのを感じた。


 闇が徐々に私の視界を覆い、まるで目の前に大きな壁となって迫って来るようだった。


 果たしてどこを眺めているのかさえ分からなくなりかけた頃、庭先で突然何かが視野を横切った。


 兎……。それとも狐か。


 およそ小動物のようにも感じられたが、それにしては気配が妙に平板だった。


 消えた先に視線を遣ると、いつの間にか納屋の扉から微かに光が漏れ出ている。それは見覚えのある暖色の光だった。


 私は急いで――けれど、決して音を立てないように注意を払いつつ――梯子を伝い、階下へ降りた。


 すでに母も就寝しており、熊のいない空間はそこだけすっぽりと穴が開いたようだった。


 私は玄関の扉を開き、庭へ飛び出した。


 納屋の鍵が外されていた。僅かに開いた扉の隙間から中を覗くと、先日の夢にも登場したスカイブルーのカーテンが目に入った。


 納屋の中は本棚の奥とまるっきり同じ空間に繋がっているようだった。


 扉を開くと、中には誰も居ない。引っ越しの際に運び込んだベッドに、彼女が手際よく組み立てたスチールの机。


 これはやはり、姉が暮らす部屋だ。


 部屋の中央には、一冊のノートが置かれていた。


 拾い上げると、それはあの日ジャンから預かったはずの赤いノートだった。


 私は周囲を一度見回してから、恐る恐るページを開いた。



 七月九日。


 薄暗い路地裏、生ごみを漁る烏。


 無言の大衆、地下通路に響き渡る足音。


 薄暗闇のなか、ずたずたに切り裂かれ、放置された何か。


 饐えた臭い。汗を纏う変質者、泣き喚く赤子、責任を放棄した管理者。


 不条理な現実に、無責任な群衆。


 そして、無意識のハラスメント。


 近頃、見たくもないものばかりに目を奪われてしまいます。


胸の内に蠢く何かは私へ向け、伝言を送り続ける。


 潤いを失い、枯れ果てた生花のごとく無残な敗走兵。


 行き着く場所、着地点をすっかり失った者は何を口にしても味を感じられず、色味を感じられず、ただただ惨めな思いを繰り返す日々を送っています。


 あなたに贈るべきメッセージは中空を舞い、分裂し、崩壊し、謂わば私は宇宙の廃棄物とでも呼ぶに相応しい代物となり果て、周回を軌道するおじゃま虫でしかありません。


 どちらを眺めても否応なく後方へ導かれ、私の進むべき道はすでに残されておりません。同じ地点をぐるぐると回り続けるメリーゴーラウンドなのでしょう。


 この痛みは、いつの日か果てるでしょうか。

 四肢をもがれ、頭部を切り落とされ、再起不能な身体に成り果ててもなお、この道は続くのでしょうか。


 終わりにしようと思います。


 これ以上の幸福、これ以上の痛みはもはや訪れることもないでしょう。


 あなたが今後も自己を愛し続け、新たな苗木へ水をやり、それでも健やかな日々が続くことを心からお祈り致します。


 いいえ、祈れるように努めて参ります。


 終わりです。さようなら。

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