聖女様は残業手当をご所望です ~王子はいらん、金をくれ~
山崎 響
第1部 聖女様は残業手当をご所望です(聖女の日常編)
第00話 これはまだココがただのココだった時の話
誰かに呼ばれた気がして、ココは空を見上げた。
しばらく空を見ていたけど、僅かに雲が浮いた青空は特に変わりはない。周りを見回してみても、気になるものは何もなかった。
(誰もいないよな……)
一応警戒はするけど、気のせいみたいだ。
ココは身体を洗っていたドブ川からあがると、一枚しか持っていない服で全身を拭く。一緒に洗ったワンピースもじっとり湿っているけど、一回これで身体の水気を拭き取った方が自然に乾くのを待つよりだいぶマシだ。
もう一回絞った服を濡れたまま着ると、ココは風通しのいい日向で寝転んだ。
ココが家と家族を無くしてから、そろそろ二回目の春が来る。
元々一日二回食事がとれるか判らない生活をしていたので、親が帰って来なくなって路上で暮らし始めてもそんなに落ち込みはしなかった。物心ついてからアテにならない親ばかり見て来たので、“来るべきものが来たな”と思っただけだ。
知り合った浮浪児の先輩には「おまえ醒めてるな」と言われた。そういうものだろうか。
見よう見まねで屋台の食べ物をくすねる技術を覚え、食べ残しや廃棄食品が出るゴミ捨て場を
「腹に溜まるものが喰いたいなあ……」
まだまだ陽が高い。今ゴミ箱を漁ったって今日はまだ残飯は無いだろう。やっぱり市場へ行って万引きするしかない。
ココが全身丸洗いをしていたのは、市場に紛れ込むためだ。何日も身体を洗っていない姿で行けば、あっという間に捕まって放り出されてしまう。多少は小綺麗にしていかないと、市場の混雑の中でも浮浪児とすぐに勘づかれる。
「……そう言えば、もう随分ピロシキを食べてないな」
ダメだ。ピロシキが頭に浮かんだら、余計に腹が空いて……。
あの味を思い出したら、居てもたってもいられなくなってきた。
ココはガバッと起き上がると、小屋の屋根から裸足で飛び降りる。今はちょうど昼前の一番混雑する時。人気の店を狙うにはちょうどいい時間帯だ。
ココはピロシキ確保を心に誓うと、市場めがけて走り始めた。
◆
……なんか、嫌な予感がする。
ココは買い物客で賑わう市場に着いてすぐに、何か市場全体に嫌な空気を感じた。ピリピリする……とでも言えばいいのか。見た目は普段とそんなに変わらないのに、どこか空気に緊張感が滲んでいるような感じがする。
今まで感じたことの無い異様な雰囲気に、ココは危険な香りを感じた。本当は今すぐ逃げたいけど、今日食べ逃せば明日かっぱらって逃走できるだけの体力が残るか判らない。
ココはちょっと悩んだ末、ピロシキは涙を飲んで諦めて普通の丸パンを狙うことにした。あれなら店数も多いし、警戒が薄いからかっぱらいじゃなくて万引きでイケるはず。
そこまで計算がついたココが顔を上げた時……視界の端で、どこかの商店主が思い切りココを指さして怒鳴っているのを聞いた。
「アイツです! あそこの灰色の髪のチビがココですよ、ダンナ!」
その瞬間、周囲に一気に殺気が高まった。続いて多数の人間が目標を探す声。兵士があちこちの隙間からワッと現れた時には、すでにココは走り出していた。
「今日は何だって言うんだ、いったい!?」
ココは屋台の裏手を駆け抜けながら、しつこい追っ手にうんざりした。
ココは市場じゃ結構名の知られたかっぱらい犯なので、今までも商店主や自警団から目の敵にされた事は何度もある。
だけど今日のはそんな物じゃない。どこまでも追いかけて来る。どこにでも追手がいる。積み上げた荷物の陰に隠れ、隙間に身を潜ませようと……しらみつぶしに荷物をどかし、隠れる可能性のある物はすべてひっくり返して覗いている。
「なんだこいつら……百人はいるんじゃないか!?」
どうにもおかしい。いくら何でも、頭数が多すぎる。
いつもなら自警団が集まって来たって十人かそこらなのに、今日の連中は隙間なく線になって包囲網を狭めてくる。おまけにさっきから、どこから取り寄せたのか投網や捕縛用の引っ掛けが付いた木槍まで追加で持ち出してきた。絶対にココを捕まえるという気迫が感じられる。
一瞬脳裏に閃光が光り、前進の毛穴がブワッと開く。
最大級の危険を告げる自分の勘を信じ、咄嗟にココは掴まっていた建物の外壁を突き飛ばして自ら空中へ躍り出た。
直後に大人の拳ぐらいの青白い光が二つ、ココの張り付いていた建物の壁に着弾。大きくはないけど当たったら痛そうな火花が散る。
「今のを避けた!?」
「あのガキ、相当に勘がいいぞ!」
空中を木の葉のように舞いながら、ココが下から聞こえた驚愕の叫びを頼りに地上を探すと……追っ手の中に、腕をこちらに向けた黒いワンピース姿の男が何人か見える。
あの格好、見覚えがある……確か。
「クソッ、アイツら教会とか言うところの魔物狩りじゃないか!? 私はオークやゴブリンじゃないっての!」
自分の質の悪さを自覚していないココはそう吐き捨て、屋台の天幕に落ちて落下の衝撃を殺すとワンバウンドで地面に降りた。
「あーあ、やっぱり狙うのは明日にすればよかった!」
再び走り始めながら、ココはぼやいた。
◆
ココを載せた荷馬車が、石造りの豪勢な門をくぐった。
荷台に載せられた檻の中から、ココは鉄格子を掴んで外を見上げる。空が半分隠れるぐらい、石やレンガで作られた大きな建物が林立している。
「ここ、どこだよ……」
今日は半日も凄い数の兵士たちに追われたと思ったら、馬車に載せられて広い街の全然見た事も無い辺りまで連れて来られた。
ココが知っている街は下町の中のごく一部。王都の中心部になんか来た事さえない。この場所が大陸最多の信者数を誇るゴートランド教団の本山、ゴートランド大聖堂だということを知るのは、ココが中の人間になってからだ。
こんな所へ連れ込まれ、いったい自分の身に何が起こっているのかココには全く判らない。
あんまり盗みを繰り返すと高い所から吊るされると聞いていたけど、やたらと豪華でいかめしいこの場所がそうなのだろうか?
「もっと大人になってからかと思っていたけど……市場のおっちゃんたち、相当に恨んでたみたいだな」
それならそれで仕方ない。散々盗み食いをしてきた自覚はある。ただ、欲を言わせてもらえれば……。
ココは大事にしまっていた全財産、二枚の銅貨を取り出した。
「金払うから、死ぬ前に何か食わせてくれないかな」
そう思ったけど、見る限りこの場所に食べ物を売っている店はなさそうだった。
見上げるような門を何度も通り抜け、神出鬼没のココでさえ逃走を諦めるような奥まった場所へ連れて来られた。そこに待っていたのは、下町じゃ見たことも無いほど豪華なワンピース(後日法衣というのだと教えられた)を着た数十人のおっさんや爺さんたち。
到着したココを見て、彼らは口々に囁き始めた。
「これが、本当に神託にあった娘か?」
「若過ぎるというか、幼過ぎないか? これで幾つだ?」
「庶民というより、貧民ではないか……」
ココには判らないと思っているのか、ほぼ悪口がそのまま聞こえて来てイラっとするけど……そんなことより今は、この連中が何の用でココを連行したのかを知りたい。見た感じ、泥棒していることを裁かれる様子ではない。
何を言っていいのかもわからず、ココが黙ってみていると。皆が静まったタイミングを見計らって、中央の一番偉そうな爺さんが進み出てきた。
「おぬしが西の門の市場で暮らすココという娘か?」
自分が直に聞かれているらしいと判断したココはこっくり頷く。西の門がどこだか知らないけど、確かに自分は市場の周りに住んでいるココだ。
豊かな純白の顎髭を蓄えた老人は周囲の者と二言三言交わすと、もう一度ココを正面から見た。
「
と言われても、ココには偉いんだろうなぐらいしか判らない。金がかかってそうな服を見ると、もしかしたら市場のギルド長より偉いのかもしれない。
よく判らないけど曖昧に頷いておく。向こうも何か反応を期待していたわけではないみたいで、ココの前にすぐに机と何やら書かれた紙が持って来られた。
「おぬしの手をその誓詞の上に置きなさい」
大した労力でもないので、(言うとおりにしてたら、何かメシ奢ってくれないかな)などと考えながらココは手を置いてやった。
「うん?」
紙が、なにか……。
紙に書かれた文字の色が変わった。
手を置いた下から全文へ、黒だった文字が目の覚めるような青へ。
そしてその文字が煌めきだしたかと思うと紙がいきなり燃え出したみたいに、青白い炎のような光が天井に向かって吹き上がった。だけどその中心にある、机に置いたココの手は熱くもなんともない。
仕掛けがよく判らないけど面白いな。そうココが思っていたら、周囲の人々にも予想外だったようで一斉に騒めき出した。
「おおっ!?」
「なんだ……なんだ、この大きさは!」
よくある光景ではなかったらしい。その中で教皇とその周囲の人々だけが、特に驚きもせずに話し合っている。
「凄まじい聖心力だな」
「女神様の神託が慣例と違ったのは、これほど例外的な逸材がいたからということか」
「出自に問題はあるが、才能という点ではこれほどの者は歴代聖女でもそうはいまい。神託はやはり正しかった」
重鎮たちの意見がまとまったらしく、頷きあった彼らの中心にいた教皇が再びココに顔を向けた。
「娘、ココよ」
教皇は片手を掲げ、ココの頭上に何か振りかけるようなしぐさを見せた。それがゴートランド教で神の恩寵を祝福する手印だというのを知るのは、ずっと後の話になる。
「おぬしを女神ライラ様が神託に下された、第三十四代聖女として認定する」
たぶん何か有難いのだろう御託宣を老人から受けたけど。
(そんなことより……奢ってくれなんて言わないから、パンを売ってる所を教えてくれないかな)
聞いていないココは空腹に耐えかねて、ただそれだけをぼんやり考えていた。
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