傍点があまりに適当
「私、アレが足りないと思うんです。アレ」
私は思わずゴクリと生唾を飲む。
「ど、どれのことを言っているんだい」
彼女が店のアルバイトになってから半年、客足は四倍になっていた。
採用して一ヶ月くらい経った頃だろうか。店の雰囲気にも慣れてきた様子の彼女と店裏で面談をしたのがことの発端だった。
大人向けのカフェなんだから店員も「大人にふさわしい制服」を着るべきだとアイデアを出してくれた彼女にウェイトレスの制服を刷新させてみたところ、なんともセクシーな露出の多いエプロン姿を提案され、「大人ってそういう意味なのかい?」と指摘はしてみたものの、いざ実践してみると客足は倍増した。
私は大人の男に向けてハードボイルドなメニューを出すカフェバーを運営していた。
コーヒーは注文を受ければ生豆を煎るところから始めるし、ウイスキーは標準で十五年以上のスコッチを提供していた。ハンバーガーのミートパティは低温熟成させた牛肉をごろっごろの粗挽き肉にし、あえてビーフジャーキーのような噛みごたえで焼いて旨味たっぷりで提供していたし、テーブルに置く胡椒はわざわざ原産地のインドネシアまでまで買付けに行っていた。客が望めば食後に葉巻だって出した。
おかげで客はすべて男のひとり客だったけれど、こだわりが強くて金のある客層が寄り付いてくれた。カフェバーにしては驚くような高単価(ちょっとしたレストランで新作のコース料理を食べるくらいの額だ)でも、彼らは気にせず気前よく支払いをしてくれた。たぶん見栄もあるのだろうが、昨今、客に媚びてばかりの店が増えたなか、静かで簡潔でくぐもった環境とソリッドな食事が、硬派を求める彼らに刺さったのだと思う。「こういう店、なかなかなくてね」ある客は言った。
だからこそ、だ。男相手だからってセクシー衣装はないだろうと思っていた。硬派を求める彼らからしたら胸元をはだけたり、脚をめいっぱい見せびらかしたり、ややもすれば下着と勘違いしそうなエプロン姿を見せるなど、不快さすら感じかねない。下手をすればクレームがついて客足が遠のくのではないかと危惧していた。
しかし彼女は店長である私の顎ひげを、人差し指の腹でするりと撫で、「こないだ、試しに自由にやらせてくれるって言いましたよね?」とこともなげに言った。店柄もあって礼儀を重んじる私だったが、不思議なことにその指先に勝てなかった。沈黙に耐えかねて一週間の期限をつけ、彼女のアイデアを採用してしまった。
結果、客足は倍増。
私の心配は杞憂だった。
しかし意外だった。あんなに硬派な雰囲気を愛している男性客たちが、ひらひらとしたピンク色の(こんなことを言うのは私が偏った思考の人間だからに違いないが)ややもすれば低俗さすら感じる服装の従業員を好んで来店するとは。
彼らはウェイトレスの制服が変わったからといって特に何か態度を変えることはなかった。注文されるメニューも変わらなかった。
いつも通り静かに店のドアを開けては、それぞれがだいたいルーティンのように決まったメニューを注文した。あるものはエルサルバドル産のコーヒーを浅煎りで飲み、あるものはベーコンレタスサンド(ベーコンは店の外で柿の葉を使って燻製している)をギネスビールで流し込み、あるものは葉巻を燻らせながらグレンファークラスの二十五年ものを嗜んだ。
店はあくまで静かだった。
ただただ客の人数だけが増え、静謐なくぐもった店内を、ピンク色の肌を露出したウェイトレスたちだけが、意味ありげな雰囲気で闊歩していた。とても不思議な気分だった。
アルバイトのウェイトレスは全員が女性で、制服のアイデアを出した彼女を含め四人いた。露出の多い制服などみんな嫌がるだろうと思っていたが、事前に彼女が時給を三百円ほど上げる条件をつけて提案したところあっさりと受け入れられた。従業員によっては「こっちのがアガる」とよくわからない感想をいっていた。
なんだか狐に摘まれたような気分だった。
客足が増えたおかげで店内レイアウトを考え直す必要が出てきた。もともと独り時間を満喫するため客と客のあいだを離していたのだが、客足が二倍に増えて臨時の席数が増えた結果、人同士が近くなってしまった。これではせっかくの空間が台無しになってしまう。
内装デザイナーを呼び、パソコンと睨めっこしながら、ああでもないこうでもないと悩んでいたところ、例の彼女がやってきて「距離など取らなくていいから、ロフト型の二階建て構造にして、個室で二人がぎりぎり座れる程度の対面席を作ってくれ」と奇抜なアイデアを出した。
半個室の対面席? 独りの時間を楽しみに来る客が連れ合いと来るわけがない。それとも相席でもさせるのか? そんな馬鹿な。疑問ばかりが頭に浮かんだ。内装デザイナーは面倒な仕事から解放される言わんとばかりに「いいですね、それだと今の四倍から五倍はお客さんが入ります」とニコニコしていた。
二人きりの時に彼女にわけを聞くと今度も理由は教えてくれず、顎ひげを撫でられながら「こないだの、うまくいったでしょう」とだけ言われてしまった。私はやはり今度も彼女の提案に逆らうことができなかった。
そして結果でいえば店の客足は当初の四倍になった。
ウェイトレスが足りずに新たに四人採用した。キッチンスタッフとバーテンもひとりずつ追加した。店は変わらず静かで、来る客も硬派なひとり客ばかりだった。しかし人数は増えた。金払いよくこだわりの強いメニューを頼み、静かに葉巻をくゆらせる男たちが四倍。そこの間を静かに闊歩するセクシーなウェイトレスたち。
売上はどんどん上がり、従業員にボーナスを出しても利益が余った。そこまでの商売を想像していなかった自分に金が余るほど回ってきた。どうしていいかわからなかった。店のイメージも自分が想像していたものと違うような気がしてきた。
だんだんと自分はいったい何を運営しているのだろうかと考える日が増えてきた。彼女がアルバイトに来てから、自分でも店の実態がうまく掴めなくなってきていた。
再び彼女と二人きりになったタイミングで私は我慢できずに言った。
「君が来てから客足も増えて、売上も大きく伸びた。それはわかる」
「嬉しいでしょう? いろいろと」
「あぁ、感謝している。でもわからないんだ。なぜあんなことで客が増えるのか。いや、あんなことという言い方は君に失礼なことはわかっている。君はきっと鋭い観察力で客のニーズを掴んだのだろう。制服の件も、店のレイアウトもバッチリ客の心を掴んだようだ。しかし私にはさっぱりなんだ。なぜ制服があんなひらひらしたややもすれば低俗とも取れるもので良いのか、なぜ独りを好んでいた客たちが寿司詰めのような対面席になっても大人しく座っているのか。まったくわからない」
「店長だって本当はわかっていますよ」と彼女はうふふと笑う。
「いやわからない。どうしてなんだ。正直にいえば、最近は自分の店をやっているんだか、君の店をやっているんだか、わからないときがある。確かに店の雰囲気も客層も以前と変わっていないように思う。しかし一方で決定的に違ってしまったようにも感じる。客たちの心が掴めていない。全く別の店なんじゃないかと感じることもある。ややもすれば俺がアルバイトなんじゃないかとすら感じる時もある」
彼女は薄く笑いを浮かべたままピンク色の制服姿のまま私の体に密着してくる。
私は再び喉をごくりと言わせる。
「頼む……。教えてくれないか?」
「簡単ですよ。今、この状況が答えです」
「どういうことだ?」
彼女はふふと笑う。
そして耳元に吐息を吹きかけるようにして、こう囁いた。
「みんな、むっつりってことです」
私の頭に衝撃が走った。むっつり? むっつりってどういうことだ? むっつりの意味を理解するのにしばらく時間がかかった。韓国の酒のことかと一瞬だけ考えてしまい「いやそれマッコリやろがーい」と心の中でひとりごとを唱えてしまった。青天の霹靂。あまりに突然の言葉に自分の思考が割れたガラスみたいにあちこちに飛び散ってしまったようだった。
むっつり。
むっつり。
むっつり。
むっつり。
むっつり。
頭の中でむっつりが反芻された。
しばらくものをうまく考えることができなかった。
「む、む、むっつりって、どういうことだい?」
「言ったまんまですよ」
「客たちが……私の店の客たちが……全員、むっつりってことなのかい?」
「全員ではないです。来なくなってしまったお客さまも何人かはいましたもの。でもそれ以上にお客さまが増えました。それは結局、そういうことなのではないでしょうか?」
「そ、そういうことって……」
「だってあの制服。わかりやすいでしょう? お店のレイアウトを対面席にしたのは通路を狭めて、店員が目の前に近付かないと注文できないようにしたからです。二階建て構造で個室にしたのは店員をジロジロ見ているなんてこと、他のお客さんにはバレないようにするため。どうです? 良いアイデアでしょう?」
「そ、そんなふざけたこと……」
彼女は笑う。「ふざけたこと? ふざけていませんよ。お客さん、増えているじゃないですか。みんな喜んでいますよ。静かに。そして店長だって」といって顔を近づける。「わかりますよ。私は女だから。あなたたちの視線がどこに向かっているのかなんて、すぐ」彼女がにっこりと笑う。私は彼女から顔をそらすことができない。
そして彼女は続ける。
「私、アレが足りないと思うんです。アレ」
何を指しているのかさっぱり分からない。私は恐る恐る「どれのことを言っているんだい」と聞いた。彼女は私に体を密着させ、またしても指の腹で私の顎ひげを撫でだした。これだ。これをされると、もう彼女のいうことを拒否できない。もうダメだ。
私は判断を投げ出して彼女の言葉を待った。もういい。下着でも水着でもキスでもハグでも裸でも、もうなんでもこいだ。あいつらはむっつりだ。私もむっつりなんだ。こだわりのコーヒーを飲もうが、二十五年もののスコッチを嗜もうが、女の体をバレないように覗いてはほくそ笑んでいる低俗な連中なんだ。もうなんでもいい。どうだっていい。気持ちを投げ出すと自分の手がちゃっかり彼女の腕のあたりを掴みだしていたことに気づく。本当にむっつりだ。しょうもない人間なんだ、自分は。
「アレですよ。アレ」
そう言って彼女はポケットからスマートフォンを取り出して画面を見せた。そこにはジョン・コルトレーンのレコードジャケットが写っていた。
「ジョン・コルトレーン?」
「音楽ですよ。お・ん・が・く」
「音楽? 裸ではなく?」
「は? ぶん殴りますよ?」
「そこは厳しいんだ」
彼女は「だってここ、あまりにも静かすぎて」といって私をみる「どうですか? きっと今度もうまくいきますよ」とウインクをする。私はもう力がヘナヘナと抜けてしまい、もはや何がなんだかわからない。彼女に言われるがままに店内でBGMを流すことにした。
するとどうだろう。今度は客足がびっくりするほど遠のき始めるではないか。私のところに「うるさい」だとか「格好つけて勘違いした音楽を流すな」だとか厳しいクレームがひっきりなしに届くようになり、あっという間に私の店には閑古鳥が泣き出した。当の彼女は客足が遠のく気配を感じた瞬間に無断で店を辞めた。結局、勘で適当にやっていたのだ。
ガラガラの店内でだるそうに待機するセクシーなウェイトレスたちを片目で追いながら、私は頬杖をついて思った。
「えぇー。アイツら本当にむっつりやん……」
完
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