第7話 紅倉の作戦
駅の構内から女性の悲鳴が聞こえ、表のバス停でバスを待つ列に並んでいた会社帰りのOLは、嫌だなあ、と思った。
何か事件かしら? 最近物騒だものね、気を付けなくちゃ。まさかこっちにとばっちりが来ないでしょうね?
フェンス越しに、線路をまたぐ通路へ上る階段を心配しながら見ていた彼女は、そこからもやもやした黒い煙みたいな物が下りてくるのを見て、火事?、と思った。
その一塊りの煙様の物は宙を飛んで、スーッと彼女に近づいてきて、もやもやした黒い中から、白い裸の女の胸と、右腕と、左脚を現した。
彼女は、あり得ない光景に目を丸くして凍り付いた。
カチカチカチ、と歯が鳴って、体がすくんで動けない。前後に並んでいた他の客たちはわあきゃあと悲鳴を上げて逃げ出した。
彼女は、一人だけ立ち尽くし、伸びてきた黒いもやもやに、左腕を包まれた。
「きゃあああああああっっ」
彼女は、痛みと恐怖で絶叫した。
紅倉は頭の中で女性の悲鳴を聞き、彼女が左腕を押さえ痛みに耐えかねて座り込む姿をまざまざと視ていた。
紅倉は、OLの左腕を奪い、視ている自分をあざ笑いながら黒い影が宙に消えていくのを怒りに充ちた赤い瞳で見ていた。
「やられた」
左腕の彼女ばかりではない、既にもう一人、駅のコンコースで、別の若いOLが痛みとショックで失神していた。スカートの下から伸びた、健康的で魅力的であるべき脚は、左脚が腐ったバナナのように黒い斑点を浮かべて茶色く鬱血していた。帰宅の途のお客たちは何か悪い病気ではないかと、駅員に介抱される女性を気味悪そうに遠巻きにして足早に通り過ぎた。
「二人も……」
紅倉はギラリと怒りに充ちた目を遠くの空へ向け、言った。
「お巡りさん。今、駅で二人、若い女性が謎の症状で救急車を呼ばれて病院に搬送されるはずです。救急センターに連絡して、二人を同じ病院、同じ病室に収容するよう要請してください。それから彼女を」
と、芙蓉を見て、
「二人の治療に当てるよう話を付けてください。病院がごねるようなら、◯◯病院に問い合わせれば、同じ患者さんがいます」
◯◯病院は自転車の少女が搬送された病院だ。
お巡りさんたちは訳が分からないながら、赤く目を光らせる紅倉の異様な迫力に呑まれ、
「わ、分かった」
と承知し、無線連絡してくれた。
紅倉は芙蓉に話した。
「というわけ。美貴ちゃんにはまた一晩被害者の手当をお願いします」
芙蓉は心配な顔で言った。
「それはいいですけど、……先生、怨霊の方は大丈夫ですか? また次の獲物を襲うのでは?」
紅倉は怖い顔で答えた。
「それは、わたしがさせないわ。なんとしても」
紅倉の決意の顔を見て芙蓉も頷かざるを得ず、
「無茶はしないでくださいね?」
とだけお願いした。
やがてやってきたパトカーに芙蓉は乗せてもらって、被害者二人の運ばれた病院へ連れていってもらうことにした。
こちらにも救急車が2台やってきて、意識を失い死んだように脈拍の弱い三人の漁師を運んでいった。
また新たにパトカーがやってきて、派手にぶち壊された紅倉芙蓉の愛車を中心に現場検証を始めた。
芙蓉のいなくなった紅倉は寂しく立ち尽くし、思い出したように等々力に言った。
「捕り物、お疲れさまでした。おかげで助かりました」
「いやいや、お役に立てて光栄です。先生こそ、ひどい目に遭われましたなあ」
漁師二人を捕縛したロープは様々な所へロケする等々力組のワゴン車の常備品だ。
「今回の奴は思いの外強敵ですなあ。こうして真っ正面から先生に闘いを挑んでくるなんて、大した恐ろしい奴ですなあ」
「ふうん…、真っ正面から、ねえ……」
紅倉は考え、気分を切り換えるように訊いた。
「カメラはどうしました? 迫力のアクションシーンは撮れましたか?」
等々力は苦笑いして言った。
「先生、嫌味を言っちゃあ困りますぜ。さすがにあの状況でのんきにカメラを回していられるほどわたしらも破廉恥じゃあございやせんぜ? ま、最初の方だけ、ちょろっと」
紅倉は笑い、言った。
「それじゃあ、助けていただいたお礼に、後ほどとびっきりのバトルシーンを撮らせてあげましょう」
「ほんとですかあ?」
等々力は目を丸くして喜んだ。紅倉はカリカリとこめかみを掻き、
「気は進まないんだけどねえー、仕方ない。あーあ、美貴ちゃん、怒るだろうけどなあ……」
と、フッと口の端に苦い笑いを浮かべ、真面目な目で等々力を見て言った。
「丘の上に神社、ありますよね? 連れていってくれます?」
「ああ、あります…か」
等々力は頷き、訊いた。
「そこで一晩怨霊を見張るわけですか?」
「ええ。これ以上被害者を増やして美貴ちゃんに負担を掛けるわけにはいきませんから」
「それじゃ」
等々力はひげ面をいやらしく笑わせて言った。
「わたしらも一晩先生を取材させてもらってかまいませんか?」
紅倉は等々力を睨むようにして笑った。
「ま、かまいませんけれど。今日はもう面白い画は撮れませんよ?」
「いやいや、先生のお美しい横顔をたっぷり撮られるだけでけっこうですよ」
等々力はニンマリ笑い、紅倉をワゴン車の後部座席にエスコートした。
その日の月の出は午後8時で、月齢は17であったが、東の空に赤く大きく現れた月は、上っていくに連れ小さく白銀に眩しく輝いていくはずであったが、この日の月はどうしたことか晴天にも関わらず赤く大きなままで、夜中天頂にあってもその姿は変わらず、アマチュア天文家はこれはどういう現象か?と国立天文台に問い合わせたりした。
この現象はどうやらこの狭い範囲の地域にだけ観測されたもので、見上げるこの地域の人々はその不気味な姿に何か天変地異の前触れではないかと恐れた。
しかしその赤く巨大な月を、霊感の強い人間が見たならば、あるいは、それが大きな赤い瞳であるように見えたかも知れない。
不気味な月が西の地平線に消え、やがて東の空が明るくなってくると、紅倉は等々力に送られてホテルの自室に帰ってきて、やがて芙蓉も帰ってきた。
二人はお互いの疲れ切った顔を見て、可笑しそうに笑い、また二人でシャワーを浴び、ルームサービスのサンドイッチを食べると、
「寝ますよー」
と当然のように同じベッドに入った。芙蓉はまた後ろから紅倉を抱き、
「これくらいのご褒美いいですよね?」
と、クー……、と疲れ切ったように眠ってしまった。
「あー、もう、暑苦しいなあ」
紅倉は文句を言いながらも微笑み、安心して疲労のため息をつくと、スー……、と深い眠りに落ちていった。
昼を過ぎると紅倉は目を覚まし、いつもとは逆に芙蓉を起こした。
まだ眠そうな芙蓉を起き上がらせて、紅倉はまっすぐ向かい合って言った。
「今夜、敵と決着を付けます」
芙蓉の目もぱっちり覚めた。
「ついては美貴ちゃんに相談があるの。
……おとりになるかわいい女の子を紹介してくれない?……」
芙蓉は眉をひそめて紅倉を見つめた。
「わたしがおとりでは駄目ですか?」
「そりゃあ美貴ちゃんの霊媒はさぞや美味しいでしょうけれど、あっちは美貴ちゃんの実力も十分知っていますからね、警戒されておとりにはならないわ」
芙蓉はため息をついた。
「困りましたねえ。……おとりの彼女は、傷つくことはないんでしょうね?」
「おとりの彼女は、ね」
芙蓉は怪しんで紅倉の顔を覗き込んだ。紅倉は視線を逸らして言った。
「美貴ちゃんにはもう一人、手当をお願いすることになっちゃうと思う……」
「どういうことです?」
「敵にもう一本、右脚をくれてあげる。それでわたしに対抗できる力を付けたと思わせて、残りの腰の部分、おとりを餌に呼び出して、わたしが退治します」
「一人、女の子を見殺しにするんですか?」
「脚だから死にはしないけど………………」
まさかとは思いつつ、病院で苦しむ被害者たちを治療してきた芙蓉は紅倉が彼女たちの苦しみに鈍感になっているのでは?と怪しみ、つい批判的な目で見てしまった。
紅倉は芙蓉に頭を下げた。
「ごめんなさい。他にいい手が浮かびません。腰の霊体を取られたら、その人は死ぬか、死なないでも、女性の大切な器官を駄目にされてしまうでしょう。それだけは、絶対に、阻止しなくちゃ」
紅倉の絶対に失敗の許されない厳しい顔に、芙蓉も頷き、訊いた。
「敵が先に腰の部分を襲うことは?」
「まずないわね。敵は美味しい物を最後に食べる性格よ。一番美味しい腰は最後に取っておくはずだわ」
「犠牲になる女性も、近くにいた方がいいでしょうね」
「そりゃあそうだけど……、犠牲になる人を選ぶわけにはいかないわ」
「そうですね。治療の方はわたしに任せてください」
芙蓉はベッドを下り、顔を洗ってくると、バリッとした黒のジャケットを着て、
「出かけてきます」
と部屋を出ていった。
紅倉はベッドの上で膝を抱え、
「やっぱり怒っちゃったなあ……」
と寂しく言い、コロンと横に転がって、タオルケットを被ってふて寝してしまった。
5時を過ぎて、紅倉の携帯電話に芙蓉が掛けてきて、下のホールの喫茶店に下りてくるよう言った。紅倉の携帯電話は小学生仕様で芙蓉からしか掛けられないよう設定されている。
「迎えに来てくれないの〜?」
と訊くと、
『子どもじゃないんだから、一人でいらっしゃい』
と、切られてしまった。
部屋を出るのはカードキーなしでも出られる。出たらオートロックが掛かってしまうが。
廊下に出た紅倉は、
美貴ちゃんの意地悪〜〜、
と芙蓉を恨みながら、おっかなびっくりエレベーターを呼び出して下へ下りた。
何度か迷子になりながら喫茶店にたどり着くと、芙蓉に呼ばれ、テーブルに着いた。
紅倉は芙蓉と並んで座り、向かいには2人の若い女性が座っていた。芙蓉が紹介する。
「こちらが岩崎玲緒奈さん。わたしの大学の先輩です。
こちらが入山渚子(いりやまなぎこ)さん。地元の高校2年生です。
玲緒奈さん、入山さん、こちらが紅倉美姫先生です」
両者はお互いにこんにちはと挨拶した。紅倉が芙蓉に気まずそうに訊く。
「あのー、それでお二人はどういう?……」
「入山さんにおとりの餌に、玲緒奈さんに犠牲者になってもらいます」
紅倉はうっと胸を突かれ、正面の岩崎玲緒奈を見た。紅倉の目にはぼんやりとした影にしか見えないが。
玲緒奈のことは芙蓉からよく聞いていた。とてもよくしてくれる先輩だと。芙蓉が最近ちょっとおしゃれになってきたのは玲緒奈が先生になって色々教えているからだった。
玲緒奈の方も芙蓉からよく聞いていた紅倉の実物に好奇心の塊になっていた。
よりにもよって最も身近な他人を怨霊の生け贄に選んでくるとは、紅倉は芙蓉の残酷な仕打ちを恨みながら玲緒奈に訊いた。
「あなたは何を頼まれたか分かっているの? 分かっていて、承知したの?」
「はい」
と玲緒奈ははっきりした発声で答えた。
「どうしても一人犠牲にならなくちゃならないんですよね? それなら仕方ありません。芙蓉さんが必ず助けてくれるって約束してくれましたし、危険な悪霊を退治するお役に立てるなら、この身を捧げます! ……その怨霊って、美人しか狙わないんでしょう? わたし、脚が一番の自慢なんです!」
紅倉はまた横の芙蓉を睨んだ。芙蓉はツーンと知らんぷりしている。
ええかっこしいしていた玲緒奈が、ぺろっと舌を出して本音を吐いた。
「実は魅力的なギャランティーに引かれまして」
「ギャランティー?」
紅倉は首をひねって芙蓉に訊いた。
「三津木さんに掛け合ってバラエティー番組のアシスタントを約束してもらいました。それに、どうせ等々力さんが撮影して番組にするんでしょう?」
紅倉はうーん…と困って、玲緒奈に訊いた。
「それで、いいの? すっごく怖い、痛い目に遭うのよ?」
「何事も経験です」
玲緒奈はファイト!というように両拳をぎゅっと握りしめた。
「やっぱり将来的には女優を目指したいですから」
具体的に芸能界への道が開けて、すっかりその気になってしまっているようだ。
それならそれでいいか、と紅倉は納得することにした。紅倉にとっては都合がいい。
「あの、わたしは……」
となりの入山が申し訳なさそうに小さく手を上げて発言した。
「とてもそんな怖いとか痛いとかいうのは耐えられませんが、わたしは、ただいればいいんですよね? わたしは芙蓉さん、紅倉先生に守ってもらえるんですよね?」
「あなたもギャラに釣られて?」
「いえ、わたしは優勝したからいいんですけど、芙蓉さんに頼まれて」
「優勝?」
と紅倉は入山を指さして芙蓉に訊いた。
「『ミスグラビアクイーンコンテスト』グランプリです。玲緒奈さんが審査員特別賞」
「ああー、ミス・グラビア。それは、適任ねえ」
入山もさぞや魅力的な脚や腰をしているのだろう。
「それに、入山さんは今道綾乃さんの同級生なんです」
「へ? どなた?」
「自転車に乗っていて、右腕をやられた彼女です。たまたま、入山さんと同じ学校の同級生だったんです」
うっ、とまた紅倉は胸を突かれた。入山が慌てたように手を振って言った。
「あ、でも、同じクラスになったことないし、ちょっと怖い感じの人なんで、特に話もしたことないんですけど……すみません、岩崎さんみたいに積極的になれなくて……」
「おとりを引き受けてくれただけでもご立派です」
芙蓉が褒めて、入山が謙遜して、紅倉はますます肩身が狭くなった。
入山は、今はこんな状況なのでおどおどして元気がないが、本来は明るくはつらつとしたかわいらしい子で、さすがグランプリを獲るだけあって全体的にくっきりクリアな線をしている。
こうして二人並ぶと、やっぱり入山の方がグランプリかなあ……と納得してしまい、玲緒奈はそれもあってライバル心を燃やし、より危険な方を引き受けたのだろう。
頑張ります!と熱くアピールしてくる玲緒奈の視線に、
恨まれたくないなあ……
と、紅倉は非常にいたたまれない思いを強くしていった。
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