最期に食べたいものは
密(ひそか)
最期に食べたいものは
「あーっ、やっと終わったよ」
私のおばあちゃんは、そう言うと目の前に出されたお茶を飲んだ。ここはおばあちゃん家で、おばあちゃんも私も私の母親も親戚の叔母さんも、ここにいる人はみんな喪服を着ていた。ちょっと前に、おじいちゃんの四十九日を済ませたばかりだった。
孫の私が言うのもあれなのだが、おじいちゃんは人付き合いが下手な人だった。おじいちゃんは時代が時代だったから親の決めた人と一緒になった。前の職場では給料日になると、すり寄ってくる先輩や同僚にたかられていた。しかし、おじいちゃんはそれを喜んで受け入れ、毎月の給料袋は給料日に開けられ馴染みの居酒屋へと納められていた。当然、家は火の車でおばあちゃんが内職をして、5人の子供を育て上げた。毎晩、針仕事をして、そのおばあちゃんの横で煙草を吹かす、おじいちゃん……。
「しかし、意外と最期は
おばあちゃんは机の上に置かれたバナナを見た。
「じぃちゃん、バナナが好きだったね」
私はそう言った。
おばあちゃんはムッとして、
「私は嫌いだね。……あんな貧乏臭い食べ物のどこがいいんだろう?」
と言った。
おばあちゃんが「貧乏が嫌い」とこだわるのには理由があった。前にも話した通り、おばあちゃん家は、おばあちゃんの内職で支えられていたからだ。
戦後まもなくの頃、日本の土地は先に占拠した者の所有物となった。まだ、土地の登記がなかった頃の話である。誰も手を付けていない土地の四隅に、そこら辺に落ちていた木の棒でも打ち込んで、どこからか拾ってきたロープで囲んでしまえば、それが自分の土地となった。おばあちゃん家は土地持ちであったが、現金がほぼないような状態だったのだ。
また、おばあちゃん家がある場所は日本の高級住宅街の一つとして有名なところだった。当然、近所に住む人もお金持ちばかりだった。外面をいたく気にする、おばあちゃんは近所付き合いも愛想よく欠かさず行っていた。しかし、いつも家では近所と自分の家の収入の格差をぼやいていた。
○○さん家の旦那さんは有名企業に勤めているんだって、✕✕さん家は海外旅行に行くんだって……。
最後に、いつも続く台詞がある。
「あの人が働かないから、
そう言った時に聞いたことがある。
「じゃあ、何で離婚しないの?」
「お前は馬鹿だね」
おばあちゃんは、お前は何にも分かってないね、という顔をした。
「むかしは離婚する方が少なかったんだよ。離婚したら、みっともないじゃないか」
お金の話になる度に、子供や孫に旦那の収入の少なさを愚痴る方がみっともないだろう。
さすがの私でも、それは言えなかった。
それから、まもなくのこと、おばあちゃんは体の調子が悪いと言って、病院で検査を受けた。病名は肺ガンだった。
当時は本人に病気を告知する時代ではなく、親族だけに病名を知らされる時代だった。急遽、親族会議が開かれ、おばあちゃんの家の一番近くに住んでいた、娘である叔母さんがおばあちゃんの主治医に言った。
「気の弱い人なんです。本人には絶対に病名を言わないで下さい」
当時、ガンをテーマにした連続ドラマが流行っていた。今までにガンをテーマにしたドラマがなかったことと、そのドラマは妙に現実味を帯びているという高評価を受けて、週刊誌がドラマのことを掻き立てるほどの社会ブームにまでなっていた。
御多分に漏れず、おばあちゃんもそのドラマを見ていた。
主人公の夫の母親がガンになり、回を追うごとにだんだんと体の不調が出始める。何か思うところがあったのだろう、おばあちゃんは私に聞いてきた。
「お前、あのドラマ知ってるかい?」
「うん、毎週見てるよ」
おばあちゃんは神妙な面持ちで、私に聞いた。
「私はガンなんだろう? お前は知っているんだろう?」
「……。いや、ガンかどうかなんて私は知らない。仮に、ばぁちゃんがガンだったとしても母親が私に言うはずないじゃん」
おばあちゃんは、私の言葉を聞いて、
「ああ、そうだね」
とうなづいた。
それでも、おばあちゃんは腑に落ちないような顔をしていた。
「いや、参ったよ」
数日後、遠くに住んでいる母親から電話があった。
「何が?」
私は聞いた。
「おばあちゃんから電話があって、お父さんに代わってくれって言われてさ。代わったら、お父さんがおばあちゃんに『私はガンなのか?』って何度も聞かれたんだって」
……そっちに行ったか。
「しかし、何で、実の娘の私じゃなくて、お父さんに聞いたんだろう?」
「うちのお父さんは正直者だから、すぐに口を割ると思ったんでしょ」
「あぁ、そうか」
受話器から失笑が漏れる。
「そうそう」
母親が真面目な声になった。
「あんたも聞かれても、ガンだってこと言っちゃダメだよ」
「もう聞かれたよ」
「……えっ?」
「だから、私が知らないって言ったから正直者で口を割りそうな、お父さんに電話したんだよ」
その後も、母親は「絶対にガンのことは言っちゃダメ」だと口をすっぱくして、電話を切った。
その後、おばあちゃんの病状は急に悪化した。おばあちゃんは、ついに病院へ入院した。
誰も言わないけれど、私はガンなんだ。
そう思ったかどうかは分からないが、おばあちゃんは、こんな言葉を見舞い客に投げかけるようになった。
「……教えておくれ。私はガンなんだろう?」
見舞いに行った親族が、自分もそう聞かれたと次々に困った顔をした。
私も見舞いに行った時に同じ質問を聞かれたので、答えた。
「何で、ガンだと思うの?」
「ドラマの、あの人の状態と似てるから」
「……そんな深刻でもないでしょ?」
「でも……」
おばあちゃんは、私を睨み付けた。
「凄く辛くて苦しくて痛くて……お前には私の気持ちなんか分からないんだよ!」
「……じゃあ、治そうよ」
しばらく、沈黙が続いた。おばあちゃんが口を開く。
「……えっ?」
「病気が嫌なら治すしかないでしょ?」
おばあちゃんは再び黙ってしまった。数日後、手術の承諾書におばあちゃんがサインをしたと、母親から聞いた。
ガンというものは手術をした後に
「すっかり、よくなったよ」
駅ビルに入っている飲食店で親族が集まって、おばあちゃんの退院祝いを行った。
「あんまり無理をしないでくださいね」
私の父親がおばあちゃんに言うと、笑顔で答えた。
「この頃、体の調子がいいんだ」
帰り際に大はしゃぎで手を降る、おばあちゃん。その手は急激に痩せたので、皮にしわが寄っていた。
「ガンって怖いね」
おばあちゃんたちと別れ、下に降りるエスカレーターに乗っている時に父親がぽつりと呟いた。
「あんなに腕が痩せ衰えて痛々しい......」
もうじき死ぬ人間の夢の中に、すでに亡くなっている人間が現れることがある。それは、かつて生きていた人間が初めて足を踏み入れる異世界から来た先導者であるとも言われている。その人との生前の関係がどんなだったにせよ、懐かしく思うことは間違いない。
「また、夢の中に花江さんが現れたよ」
おばあちゃんは言った。
花江さんというのは、おばあちゃんと年が近い女性だった。「だった」というのは、もう亡くなってしまったからだ。私は会ったことがないが、花江さんの名前は何度も聞いたことがある。おばあちゃんと仲が良かったわけではなく、どちらかといえば張り合うような間柄だったらしい。
「あの世においでおいで、してるのかな......」
おばあちゃんは事も無げに言った。
このところ、おばあちゃんは家で寝ていることが多かった。
「でも、まだ、あの世には行きたくないんでしょ?」
「そりゃそうだよ。……お前はおかしなことを言うね」
私はゲラゲラと笑った。
今のところは、まだ大丈夫。精神的には、まだしっかりしてる。
数ヶ月後、おばあちゃんは病院に再入院した。
母親から電話があった。内容はおばあちゃんの話だった。
「もう、ダメかもしれないから一緒にお見舞いに行こう」
「うん」
母親はためらいがちに言葉を発した。
「おばあちゃんはだいぶ弱ってしまったから……その……見て、ショックを受けないようにね」
久しぶりに私はおばあちゃんに会いに行った。
古めかしい病院のこれまた古めかしい病室に入って見たのは、細い腕にいくつもチューブの刺さったおばあちゃんだった。鼻にも酸素用のチューブが刺さっていた。
おばあちゃんはベットで寝ていた。
元々、小柄な人だったけれど、ベットの上では、さらに小さく見えた。
「あら、来てくれたの?」
親戚の叔母さんが、後から病室に入ってきた。
その声で目を覚ます、おばあちゃん。じっと、私と私の母親を見た。
「ねぇ、何か食べたいものはある?」
母親がおばあちゃんに聞いた。
「ケーキでもお寿司でも何でもいいよ。食べたいもの買ってきてあげるよ!」
おばあちゃんは、宙を見つめたままだった。
「何か、食べたい物はないの?」
私はゆっくりと聞いてみた。
絞り出すような声で、おばあちゃんは私を見て言った。
「……バ…ナナ」
驚いた顔をして、母親と叔母さんは見つめ合った。
おばあちゃんはそう言うと、目を閉じて、また寝てしまった。
それから昏睡状態が続き、数週間後、おばあちゃんは帰らぬ人となった。
おばあちゃんを最期に迎えに来たのは誰だったのかは分からない。
お通夜では満面の笑みを浮かべる、おばあちゃんの大きな写真の前に一房のバナナが供えられていた。
きっと、天国で喧嘩でもしながら、二人で食べているのかもしれなかった。
最期に食べたいものは 密(ひそか) @hisoka_m
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