第12話「後ろめたい感情」
12話「後ろめたい感情」
どうして彼は自分の事を知っているのだろうか?
名前を知っていた事。好きな動物や好きな食べ物を知っていたし、趣味は同じだとも断言した。
緋色の気持ちに気づくのも早く、緋色がどんな風に感じているのかを、彼はすでにわかってくれているようだった。
もし緋色の事を知っているとしたら、泉は緋色に隠している事になる。どうして秘密にしているのかはわからない。
本当は聞かない方がいいのかもしれない。
けれど、緋色は知りたかった。
昔の自分の事を少しでも知りたいと思っていたのだ。
緋色の問い掛けの言葉を聞いて、泉は動揺をして瞳や表情が歪んだ。
それを見ただけでも、緋色はわかってしまった。彼は昔の自分を知っているのだと。
けれど、その表情はすぐに変わる。
「………知らないよ。………ごめん………。」
その言葉の中には、彼の「話せない。」「話したくない。」そんな意味が含まれているのが緋色にはわかった。
彼は切ない声でそういうと、泣きそうな表情のまま視線を下げた。
きっとこれ以上は、何も答えてくれないだろう。
緋色はそう思って、「そっか………。」と返事をした。
その後は、少しぎくしゃくした雰囲気になったけれど、彼の書斎や書庫でいろいろな本を見ているうちに、元の雰囲気に戻っていた。彼の言った通り本当に趣味は合っていた。本屋に立ち寄った時も感じた事だが、本棚にずらりと並ぶものは、緋色が読んだものや、気になるものばかりだった。
「緋色ちゃん、そろそろ帰った方がいいかもしれないね。」
「え………あ、もうこんな時間なんだ。」
泉に言われて時計を見ると、結構な時間が過ぎていた。
「ごめんね、夕飯も食べないでここに居て。」
「ううん。楽しかったから大丈夫だよ。今日は誘ってくれて、ありがとう。」
「いいえ。次はいつかな。………早くここに来て欲しいよ。」
そういうと、泉は緋色の頭をポンポンと撫でた。
きっと、ここに住むまではあっという間の事だろう。そして、彼の夫婦になるのも。
「遅いから送っていくよ。」
「近いから大丈夫だよ。」
「…………っっ………ダメだっ!!」
緋色が椅子に置いてあったバックを取ろうとした。その手とは反対の手を、泉に強く掴まれ緋色は体がぐらついてよろけてしまいそうになった。それを泉が支えてはくれたけれど、そのまま彼の腕の中にすっぽりと入ってしまう。そして、苦しいほどに強く抱きしめられた。緋色を逃がさないというほどに、力強く押さえつえている。
「泉くん………苦しい………。」
「だめだ………行っちゃダメなんだ………。」
「………行かない………行かないから…………。泉くんっ!」
「っっ………あ、ごめんっ………。」
緋色の大きな声が静かな部屋に響いた。
それに驚き、虚ろだった彼の瞳がやっとこちらに向けられた。
強く抱きしめていた事に気づいたのか、泉は力を弱めて緋色から離れた。
「泉くん………?」
「ごめん………。なんか、心配なって………。」
「……………。」
「緋色ちゃんが事故に遭ったって話しを楪さんにも聞いたから。だから………心配になってたんだ。だから、帰りは俺が送っていきたいんだ。いいかな?」
「う、うん………ありがとう。」
心配そうに緋色の顔色を伺う泉に、緋色が返事をすると、彼はホッとした表情で微笑んだ。
経った数分の距離だが、泉は車を出してくれた。
有名人である泉の事を考えると、車の方が彼にとってもいいのかもしれない。
けれど、どうしてあんなにも緋色を1人で帰すのを怖がっていたのか。それはよくわからない。けれど、事故に遭ったときに泉に悲しい思いをさせてしまったのかもしれないと緋色は考えた。
彼と緋色が、本当に記憶を失くす前に会っていればの話しだが………。
「緋色ちゃん、今度は結婚指輪を見に行きたいね。婚約指輪は俺が緋色ちゃんに似合いそうなのを選んだけど、結婚指輪は2人で選びたいなって。」
「結婚指輪…………。」
緋色の左薬指につけてある、豪華な宝石がついた婚約指輪。結婚してからは、この指には彼とお揃いの指輪になるのだ。
今の指輪も大切にしていきたいけれど、そのお揃いの指輪はいつも着けていたいな、と思った。
「そうだよ。俺、毎日つけるから。もし太った時に外せなくなるぐらいにずっとね。」
「そんなにずっと?」
「うん。緋色ちゃんは仕事の時とか外したい?」
「ううん。泉くんと一緒。つけていたいなって思ってる。」
「そっか………。」
緋色がそう答えると、ゆっくりと嬉しそうに泉はそう言った。話しをしているうちに、あっという間に緋色のマンションの前だった。
「今日はありがとう。家まで送ってくれて。」
「いいんだよ。これからも君の事はしっかりと守っていくから。」
「ありがとう、じゃあ。」
「……………結婚指輪って言ったらさ、結婚式だよね?」
「…………え…………?」
緋色が車のドアを開けようとした時に、泉がそんな事を言ったので、ドキッとしながら、彼の方を振り向いた。
すると、泉の手が緋色の片方の頬に触れた。
そして、そのまま彼が近づいてきたのだ。
「あ…………。」と、思った時には、泉にキスをされていた。
温かくて、そしてふんわりとした感触だった。
泉はそのまま緋色を自分の胸に押し当てるようにして、後頭部を支えた。
「…………結婚式の練習。少しはしておかなきゃだめだろ?」
「…………う、うん…………。」
「あ、でも緋色ちゃんが嫌だったら無理にはしないから。」
そう言いながらも、彼は頭を離してはくれない。
彼の甘い香りと一緒に、早くなっている鼓動を感じた。泉もキスをして緊張しているのだ。
それがわかった瞬間に、緋色は硬くなっていた体が少しだけ軽くなったような気がした。
「…………私も、練習しておきたい………かな。」
「………え、本当に?」
「………うん。」
「じゃあ、もう1回………だけ。」
泉に顎を持ち上げられ、彼の事を見上げる。彼の少し恥ずかしそうに見つめる視線を感じながら、緋色は彼の瞳をジッと見つめた。
先程より、少し長いけれど軽いキスが落ちてくる。
それを感じながら緋色は彼の全てを感じようとゆっくりと目を閉じた。
★★★
泉は緋色の姿見がマンションのエントランスに消えていくのを見送ると、ハーッと大きく息を吐いた。
「本当にこんな日がくるなんて………。」
緋色との結婚。
そして、一緒に生活していく事。
先程のキス。
それを思い出しては、泉は幸せな感情に浸ってしまう。
けれど、それと同時に押し寄せてくる別の感情がある。
それは、「後ろめたさ」だった。
「俺はあと何回、彼女に嘘をつかなきゃいけないんだろうか………。」
そう小さく呟いた言葉は、静かな車の中に消えていく。彼女には伝えられない言葉。
「…………お願いだから、思い出さないでくれ………。ずっと忘れたままでいいから………。」
泉の想いはただそれだけだった。
それが、きっと幸せであるための形なのだから。
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