第1話「不思議な出会い」
1話「不思議な出会い」
何故、こんな所に来てしまったのだろう。
緋色は笑顔のまま、心の中では溜め息をつき、後悔していた。
緋色が今居るのは、高級日本料理の料亭「冷泉」の一室だった。
広い畳の部屋には、木の机が置かれ、そこには色鮮やかな料理が並んでいた。
けれど、その料理にはほとんど口をつけておらず、緋色は相手と会話を交わすばかりだった。「勿体ないな。」と、思いながらも向かい側に座る男性の話しに、相槌をうちながら笑顔で聞き役に徹していた。
緋色は、真っ黒で艶のあるまっすぐな髪を綺麗に纏めて、簪で止めていた。アップヘアはあまり好きではなかったけれど、着物を着ている時は、仕方がないと思っていた。
淡いうぐいす色の生地に、裾と袖だけに綺麗な色とりどりの花が描かれている着物を着ていた。緋色は、昔から着物を着ているため、着付けや振る舞いには慣れている。着物は着るだけで背筋が伸び、おしとやかにもなれるから不思議だ。最近では着る機会も少ないが、着るときは楽しみにしていたのだ。
けれど、今日は違った。
いくらお気に入りの着物に身を包んでいても、全く楽しくなかった。
それもそのはず。
緋色は、父親が用意したお見合いに付き合わされているのだ。30歳を超えてしまった緋色が恋人もいない事から、縁談を持ってきたようだった。
けれど、父親は小さな会社の社長でもある。きっと、会社のためのお見合いでもあると思うと、父親に一言文句を言いたくぐらいだった。
それに、緋色は父親が嫌いだった。
母親を亡くした後、緋色を育ててくれた事には感謝していたけれど、大学を卒業した後すぐに家を出たのだ。
「………男なんて、みんな信用できないわ。」
「………え…………。」
聞き役だった緋色が、突然小さな声で何か呟いたので、向かい側に座っていた男性は、驚いた表情で緋色を見つめていた。
緋色はハッとして、「すみません。何でもありません。お話しの続きを聞かせてくれませんか?」と、表情を笑顔に戻し、また男の話しを聞く役に徹した。
父親に「今回は断れない縁談だ。」と言われた相手。それは、緋色の父親の会社よりも何倍も大きな会社社長の息子だった。緋色の父とその社長は仲が良いらしく、息子に緋色の写真を見せたところ、「ぜひ紹介してほしい。」と言われたらしい。迷惑な話しだ。
縁談相手である男は、緋色と同じ年で、真面目そうな人だった。縁なしのメガネをして、髪をかっちりとまとめている。そして、先程から自分の自慢話しかしないのだ。学生の頃の成績やら仕事での実績など、ずっと喋り続けている。
確かに彼が努力してきた事であり、話しを聞いていると、優秀な事も多かった。
けれど、写真を見て気になってくれたのならば、緋色の話しを聞いてみたいとは思わないのかな、と考えてしまった。
たった1時間でその人をわかるとは思わない。
けれど、この人と結婚して、笑顔で過ごせる姿を想像することは出来なかった。
緋色は、すっと静かにその場から立ち上がる。
「どうしましたか、緋色さん。」
「…………私、和食よりイタリアンが好きなんです。そして、甘いケーキも大好きなんです。」
「え…………。」
「好きなものを一緒に美味しいねって食べたり、楽しい事を声を出して笑って楽しめる人と結婚したいんです。………だから、ごめんなさい。」
「あ…………緋色さん!?」
緋色は深く頭を下げた後、逃げるように部屋から飛び出した。
目の前の料理よりも、仕事が大事なのかもしれない。それも、大切なことなのだろう。
けれど、緋色は折角作られた料理が冷めていくのも、自分の考えを聞いてくれないのも、嫌だなと思った。
お見合いは結婚相手を探すためのもの。
だったら、今回は断ろう。
そう思ったのだ。
「着物は走りにくいわ。」
緋色は後ろから慌てて追いかけてくる男から必死に逃げようと走っていた。
料亭で走るなど、マナーがなっていないなと思いながらも、男と話しをするのも嫌で、必死を足を進めていた。
今回は、お互いの親などは来ないで本人だけの食事の場だったので、それだけはよかったと思い、緋色はやっとの思いで料亭の玄関から飛び出した。草履が見当たらなかったので、足袋のままだが、仕方がない。
玄関を抜けると小さな庭があった。土の感触が足袋越しに伝わってくる。多少の不快感も我慢しなければいけない。
道路に出たら、タクシーに乗ればいいのだ。
そう思って、料亭の門をくぐり左へ曲がろうとした時だった。
「………ぁ………。」
「………わぁっっ!!」
まさか、店先に誰かが立っているとは思わず、緋色は思いきりそこに立っていた人とぶつかってしまった。
ぶつかった反動で、緋色は後ろに倒れてしまいそうになる。自分では体勢を変えることは出来ず、転んでしまうと思った緋色は咄嗟に目をキツく瞑った。
けれど、強い力で腕と背中に腕を回され、そのまま体がふわりと戻った。
そして、トンっと温かさを感じる所へと顔が当たった。そして、そこからは綿菓子のような甘い香りがしたのだ。
「大丈夫ですか、緋色さん。」
「え…………。」
名前を呼ばれて、その人の顔を見上げた。
そこには、緋色より背が高く、ふわふわとした癖っ毛の茶色い髪に、大きな瞳で可愛らしさを感じる男がいた。
けれど、緋色はその男に見覚えは全くなかった。
「ごめんなさい。急にぶつかってしまって。怪我はありませんか?」
「あぁ、俺は大丈夫です。」
「………よかった。あ、あなたの眼鏡は?」
「え、あぁ………そういえば………落ちてしまったようで。」
緋色はその言葉を聞いて、地面を見るとそこには彼が読んでいた単行本と、眼鏡が落ちていた。
緋色が2つを拾い上げる。本は大丈夫だったが、眼鏡のレンズには落ちた時についたのだろう、傷がついているのがわかった。
「ごめんない。傷がついているわ。………弁償させてください。」
「そ、そんな!いいですよ。本を読む時だけかけてるので。」
「いえ、私のせいなので………。」
そこまで話した時だった。
「緋色さーんっっ!」
お見合い相手の男の声が、すぐ後ろから聞こえたのだ。
緋色は体をビクッとさせて、少し固まってしまう。逃げたいけれど、目の前の彼に謝罪をしなければいけない。
けれど………。
そう、迷っていると目の前の男が、緋色の顔を覗き込んだ。
「逃げているんですか?」
「え………。」
「あなたは、今逃げたいんですか?」
緋色の様子を見て、焦っているのを察知してくれたのかもしれない。真剣な表情で聞いてくる男に、ドキッとしてしまう。
緋色は迷いながらも、後ろからの足音が大きくなるのに気づき、思わず「………はい。」と返事をしてしまった。
すると、目の前の彼は何故か安心した顔を見せ、嬉しそうに微笑んだ。
「わかりました。」
そういうと、緋色の手を握りしめて一気に走り出した。
グンッと腕を引かれ、緋色も走り始める。
彼はとても素早く走り、緋色はついていくのがやっとだった。
足袋だけの足の裏は、とても痛んだ。
けれど、手を握ってくれる名前も知らない彼の背中を見つめ、緋色は胸が高鳴るのを感じたのだ。
だけど、不思議な事もあった。
彼は何故自分の名前を知っていたのか。
そして、どうして彼が眼鏡をかけていると緋色がわかったのか。
その謎が頭を過ったけれど、彼が繋ぐ手の温かさと、不思議な出会いに、緋色は囚われてしまっていた。
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