風の舞う空

桜緋夕貴

それは来たりて

 蹄の音が聞こえた気がして、幸音シィンインは顔を上げた。

 朝からずっと下を向いての作業をしていたせいで腰が痛い。

 ついでとばかりに腰を伸ばして見通しの悪い森を見渡せば、20歩程離れた場所で薪拾いをしている妹は、東の方向に顔を向けていた。

 それを確認して、幸音も東へ耳を傾ける。遠くで、やはり蹄の音が聞こえる。

 それも、一つや二つではない。

華音フゥアイン、家に戻ろう」

 辺りに気を配りながら、妹に向かって声をかける。

 華音は抱えていた薪を一度手放して幸音の元へと駆け寄って。

「音が近いわ。多分軍馬」

 華音は幸音よりも耳がいい。軍馬は家畜の馬とは装備が違う。

 鉄の擦り合う音が聞こえたのだろう。

「家まで帰るより、茂みに隠れた方がいいわ」

 戻るまでに音の主に追いつかれるだろう。

 華音が音の方向を確認しつつ、進行方向から外れるように身を隠せば、程なく10騎ほどの軍馬がその場に躍り出てきた。

 1騎を、残りの騎馬が追っている。先頭を駆ける者と、その後ろを囲み込むように追う9騎。

 時折切り結びながら彼らは目の前を駆け抜ける。

 身につけているのは、追う側が筒袖鎧だが追われているのは明光鎧だ。

 その頭巾の赤が、やけに目に鮮やかに写った。

 息を潜めて隠れる2人の前を、軍馬は縺れるように走り去っていく。

「散り散りに逃げている将校かしら…」

 密やかに華音が溢す声に、幸音はこの辺りで誰が陣を張っていたかを考えた。

 少し前に、現在この国を実質治めている董卓を討つべく檄を飛ばしたという孫堅は、少し離れた場所に陣を張っていると聞いたことがある。

 応じた者の話までは把握していないが、打倒董卓を掲げている諸侯は付近には居なかったはずだ。

 陣を張っているという梁城は、軍馬でもこの場から1日はかかる距離のはずだった。

「つまり、あれは孫軍の将校か」

 流石に総大将が1人で逃げる羽目になるとは思わない。

 囮りとして逃げた一兵卒か、高位の将校か。

 明光鎧は、その強度の高さと手間のかかり具合に比例して高価で、一兵卒にまで支給されている軍はない。

 追う側が身につけている筒袖鎧が一兵卒には一般的なので、襲撃された場から逃げ出した将校と思しき相手を昼夜掛けて追って来たという事だ。

 追う側も、随分と深追いしたものだが、つまりそれ程の高位の将校−−−まさか総大将と言う事はないと思うが、それに次ぐような地位の人物なのかも知れない。

 幸音は少し首を傾げながら、護身用の腰の剣を抜いた。

「行くの?」

「まあ、助けるのが吉だろうな」

 華音がこてりと首を傾げて。

「どちらを?」

「戦争とは言え、一対多数の数にモノを言わせた殴り合いは嫌いだな」

 華音はにこりと笑って背に負った弓を手にする。

「私も、嫌いだわ」

 言うが早いか、彼女は一息に真上の木の枝に飛び乗ると、そのまま軍馬の走り去った方へと移動していく。

 毎度思うが、器用なモノだ。さして太くもない枝の上を自身の足のみで飛んで移動するなど、幸音には出来ない。

 自身も身軽とは言われるが、地面に足がついているのが前提だ。

 抜身のままの剣を携えて、幸音も妹の後を追った。

 半里も行かない所で小さな川の辺りに出る。

 そこで、とうとう馬の足を切られた将校が追手と切り結んでいて。

 上を向いて視線をやれば、華音は無言で矢をつがえ。

 ヒュッと、風を切る音のあと。

 ギャッという短い声と、一気に集まる視線。

 驚愕に見開かれたその視線を真っ向から受け止めて、幸音は右手の剣を振り抜いた。

 切っ先は真っ直ぐに追手の1人の首を掻き切る。

 華音が放った2本目の矢は、正確に別の1人の目を射抜いて。

 怒号に怯む事なく、筒袖鎧の男達だけに狙いを定める。

 華音の矢では致命傷を与える事はできないので、とどめを刺すのは幸音の剣だ。

 切り捨てる男を5人数えた頃、明光鎧の男も自失から立て直していた。

 強いな、と思う。

 立ち直ってからの男は一息の間に2人を倒し、追手の人数は更に減る。

 程なく追手は全員物言わぬ骸と化していた。

 血の匂いを川の清浄さが洗い流していく。

 男は今し方まで振るっていた刃毀れした剣を川の中に突き立てると、その柄に被っていた頭巾を載せた。

「そう言う小細工をしても、死体が転がっていてはあまり意味をなさないのでは?」

 木の上から降りて来た華音が弓を背負い直しながら問う。

 男はそれに小さく笑うと。

「場所を変えよう。命の恩人に死体の片付けまで頼みはしない」

 低い、落ち着いた声だった。

 年の頃は二十歳を超えた頃か。珍しくもない黒髪に、鋭い眼光。髭のない顔が幸音には好ましく映った。

 だが、やはり高位の称号には見えない。

 孫軍の総大将は三十路を超えているはずだし、将校も似たようなものだろう。

 では、彼は一兵卒でありながら大将の身代わりを買って出たのか。

 開けた場所ではなく、身を隠せる程度の茂みに入り込めば、男はすっと頭を下げた。

「−−−ん?」

 咄嗟に何をされているのかわからなかった。

 いくら助けたとは言え、男が女に頭を下げて謝意を示す習慣はない。

「ありがとう、助かった」

「いや、助けられたのなら良かった」

「私は祖伯元と言う。孫家の軍に従軍しているのだが…ここがどのあたりか聞いてもいいか」

 どうやら方角などお構いなしに逃げたらしい。

 祖伯元と言う名も、聞いた事はない。

 幸音はちらりと華音に視線をやってから東を指差した。

「ここから東に向かって1日半程で陽人がある。私も知りたいのだが、孫堅軍は敗走したのか?」

 祖伯元の顔が強張った

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