さらばえし黄昏

@shibachu

序夜 とこしえの冬

 太陽ソールマーニを喪った世界は闇に覆われ、明けることのない夜と冬とが訪れた。全能の父オーディン曰く、いよいよ巨人族との最終戦争ラグナロクが始まろうとしている。

 常は黄金色に輝く神々の宮殿ヴァルハラにも翳りが差し、住まう神々の麗しいかんばせも昏く濁っていた。

 狼たちが落ち着きなく廊下を徘徊し、しきりに鼻を鳴らしている。私の姿を認めた一頭が、幼子のように身をすり寄せてきた。その顎を撫でてやりながら訊ねる。

「ゲリ、お父様はどちらに?」

 彼は鼻先を自分の歩いてきた方角に向けた。身を翻した狼は足早に歩き出し、こちらを振り返る。

「お前は優しいわね」

 ウオン、と鳴いたゲリが尻尾を振った。

 中庭に出ると、凍てつく空気の壁が私の足を押し止めた。滅びの予感を孕んだ風が、肌を斬り裂かんばかりに吹き荒れている。

 山の巨人が築き上げた城壁をゲリは見上げていた。その視線の先、聳え立つ城壁の上に人影がある。羽衣を身に纏った私は白鳥に姿を変えた。冷たい風を乗り越えて、畏れ多くもいと尊き方の隣に降り立ち魔術を解く。

 偉大なる神々の王オーディンはいつもの黒いローブではなく、黄金色に輝く甲冑を身に纏っておられた。精悍なあご髭に雪と霜がこびりついているが、振り払おうともなさらない。これまでお見せにならなかった険しいお顔で、まんじりと彼方を見据えておられる。不動のお姿は、さながら芸術家が精魂を込めた彫刻を思わせた。

「ヘルフィヨトゥル」

 威厳に満ちたお声が私の名を呼ぶ。

神の勇士エインヘリャルたちはいかがしておる」

「はい。みな巨人たちとのいくさを心待ちにしており、備えは万全でございます」

 戦乙女ヴァルキューレ人間の世界ミズガルズの戦場という戦場を飛び回り、選りすぐったものたちはみな優れた戦士だ。戦うことに誇りをかけ、いくさの中で死ぬことを誉れとする。

 彼らの魂を神々の世界アースガルズに連れ帰り、神々の麾下に加えることが私たち戦乙女の使命。

 数多のいくさで鍛え上げられた勇者たちは、天上に至ってからも日々を戦いの中で過ごし、巨人たちとの戦いに備えてきたのだ。

「滅びの定めから逃れようと手を尽くしたが、すべては手遅れであった。今にして思えば、わしの足搔きですら大いなる運命の一部であったのやも知れぬ。もはや滅亡を逃れる術はなく、ただ徒らにお前たちに酷な運命を背負わせてしまった」

 先ほどまでの厳めしさは春の雪のように解けていた。とは言え雪解けの水はまだ冷たく、自嘲を含んだ口ぶりは他者を寄せ付けぬ響きがある。

 嗚呼、続く言葉の惨たらしさよ。

「お前ともこれが永の別れとなるだろう」

 私の受けた衝撃が分かるだろうか。あってはならないことだ。

 その場に跪いて誓願する。

「御身は幾人もの勇者がお守り致します。巨人や死者の軍勢が幾万の雁首を並べようと、いとも容易く蹴散らしてくれることでしょう」

 輝かしい威光の下に戦う我が勇者たちが、醜く穢らわしい巨人どもに遅れを取ろうはずがない。

 しかし、お父様はゆっくりとかぶりを振られた。

「かつて知恵者ヴァフスルーズニルが告げたのだ、わしは魔狼フェンリルに食い殺されると。それゆえ、あの狼を騙して岩棚に縛り付け、動けぬようにしておいた。軍神テュールの誉れ高き右腕を犠牲にしてまでな。ロキやフェンリルは我らを恨んでいるだろう。この身を引き裂くことに躊躇いを抱くまい。これは報いだ。死から逃れようとして、逆に引き寄せてしまったのだ」

「そんな……」

 全身の力が失せてしまったかのようだった。私は言葉すら忘れ、のろのろと視線をさまよわせていた。やがて周りの風景がぐにゃりと歪み傾ぐ。

「立ちなさい、泣き虫な我が娘よ。何も嘆くことはない。わしを始め、多くの神々が命を落とすが、神族は絶えぬ。古き世は破壊され、新たな世が生まれるだけのこと。再生した世界は、きっと今よりも栄えるだろう」

 お声は凪の海のように穏やかで、春の陽射しのように暖かい。

 だが、三度の冬に見舞われたこの世界よりも、私の心は冷えきっていた。

 果てなく零れ落ちる涙が、凍てつく風に晒され砕けて消えた。

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