自殺の連鎖――一人が切腹してみんな自殺していく切腹小説――
@pip-erekiban
青木善右衛門の切腹
温厚君子然とした青木善右衛門は田地の測量に従事した泥だらけの足を自邸の玄関で払った。出迎えたのは、妻と十四の嫡男であった。
「お帰りなさいませ」
と型どおりに出迎えた後、善右衛門の妻は善右衛門の顔をしげしげと眺めながら
「検地が始まってから随分とお疲れのご様子でしたが、今日はなんだかすっきりしたお顔に見えます」
と言った。
「左様か……」
善右衛門は素っ気ない返事をしたが、やはり妻が指摘したようにその表情はすっきりと晴れやかであり、どこかにこやかでさえあった。
時代は泰平の世を謳歌していた。農耕技術の進展や新田開発に伴って、石高の上昇はめざましいものがあった。検地はその変化を把握する目的でおこなわれる国家事業であった。前回までの検地では
生来の気質として真面目一辺倒、几帳面を絵に描いたらこのような男に仕上がるのだと余人をして思わせる青木善右衛門はその性質を見込まれたゆえか、検地奉行佐藤十左衛門の預かりとされて検地に従事することとなった。いうまでもなく検地は恒常的にではなく必要に応じて随時おこなわれる事業であったから、奉行は検地を実施するごとに指定された。佐藤十左衛門は今回の検地で奉行に任じられ、青木善右衛門もまた佐藤十左衛門と同じく今回の検地で急遽その与力に付されたのである。普段は勘定方に属していた青木善右衛門は、勘定方の名誉に賭けて遺漏なく検地事業に精励するつもりであった。
ここに
同心衆のうんざりした表情にも顔をしかめる百姓の表情にも、善右衛門は気付かぬふりをした。気付かぬふりをしたが、自分が誰からも歓迎されていないことなど善右衛門をして百も承知だったことだろう。人から嫌われる役は、生来温厚だった善右衛門の如き性質には殊更辛い業務だったかもしれない。だが勘定方を代表して検地に従事していた青木善右衛門が田地の測量に際していい加減な取扱いをすることは断じて許されることではなかった。少なくとも善右衛門自身は固くそのように信じていた。
善右衛門は朝早くから日没を迎えて検地結果を記す野帳が見えなくなる時間まで検地に従事した。このような勤務が連日続いた。善右衛門の妻が指摘したように、検地が始まって以来善右衛門はみるみるうちにやつれて、次第に疲弊を隠せなくなっていった。
青木善右衛門が自邸において切腹したのは、妻が善右衛門の表情を、なんだかすっきりして見えると指摘した日の真夜中のことであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます