最も合理的な世界最強のテンプレート
倉田日高
第1話
部屋の小さな窓は、カーテンで締め切られている。電灯に光はなく、ぼんやりと投げかけられたPCスクリーンの色彩が室内の家具を浮かび上がらせている。
とはいえ、僕の部屋にはほとんど物がない。パソコンからの光で照らされるのは、ベッド、中身のない本棚と僕自身だった。
画面に表示されているのは小説サイト。連載当初から追いかけてきた小説の展開が、雲行き怪しくなってきたところだった。
一話からの相棒キャラの裏切りで、主人公は深手を負って倒れ、ヒロインがさらわれる。追い打ちを掛けるように主人公たちは指名手配を受け――
彼は、これからたった一人で、自分の周り全ての世界と戦わなければいけないのだろうか。僕のように。
主人公の落涙に、読み進めるのが辛かった。
ベッドに体を投げ出し、天井を見つめる。埃の積もった電灯に気がつき、眉をひそめた。
カーテンの隙間から外を覗くと、毒々しいほどに眩い夏の日差しが僕の目を焼いた。
そうだ。
愛読する小説、先ほどとは別の一作が更新される時間になっていた。
誰から見ても人類最弱の俺は、実は世界最強の救世主でした。そんなブックマークをクリックする。
現実世界で苦汁をなめさせられた主人公が、死後異世界へ生まれ変わる。彼に授けられた一見貧相な能力は、その実誰しも敵わないような力を秘めていた。
「いいな、無属性魔法」
主人公の特技、他の誰も使えない秘術の名を口の中で呟く。意味もなく虚空に突きだした掌には、当然炎も雷も、僕が望むものは現れず、ただ薄闇の中で灰色の手の甲だけが見えていた。
「マゼンタが再登場? 学園編は伏線か……どうせ次話で負けるでしょ」
呟きながら画面をスクロールし、最新話を読み終え、またベッドに寝転がる。
高校生という身分は、その時間割から学校を剥奪してしまえば何も残らないほど身軽なものだった。
適当に何か読んで時間を潰そう。枕元の本棚に手を伸ばし、表紙を見ずに引きずり出したのは、間の悪いことに数学の教科書。
学校に置き去りにした他の教科書や消えた体育館シューズ、河原崎の嘲笑が頭をよぎり、思わず枕に頭を突っ込んだ。
慌ててスマホを引き寄せ、イヤホンを耳に押し込む。暴力的な音量のポップスが頭の中の雑音をすり潰し、メロディーの中に押し流す。
三曲ほどを聴き終えて、僕はようやく一息ついた。
スリッパの足音がする。その音は、僕が学校に出なくなってから日に日に重くなっているようだった。
母親が階段を降りるのを聞いてから、廊下に置かれていた食事を受け取る。
「いただきます」
呟いただけの挨拶は、母に向けたものではない。ただの惰性の後にはスマホを睨みながら片手間で食べる。
砂を噛むように半分だけを飲み込んで、食器類を再び廊下に出し、またベッドに寝転がった。
することは何もなかった。
僕がもっと強ければ良かったんだろうか。
夕食後は最も危険だった。止めどなく浮かんでくる思いが僕の魂を蝕む。
小説の主人公のように、世界最強の存在であったなら。いや、そんな高みは望まない。せめて、学校、クラスの中で生き抜けるだけの強さがあったなら。
人と上手く付き合うコミュニケーション力、他人に自分を認めさせるだけの運動能力や学力、あるいは他人の視線を意に介さない精神力。
学級に僕が留まるためには、同級生たちが誇るいずれも足りていなかった。
布団を頭から被り、イヤホンを耳に押し込む。
むやみに騒がしく明るい歌詞を聴きながら目をつぶる。二重の闇に包まれ、僕は眠る。
―――
目を覚ました瞬間に、最初に気づいたのは静寂だった。
デジタル時計は朝方を示している。今頃外は出勤する人々であふれているはずで、車の音一つ聞こえない状況は何かがおかしい。
イヤホンを着けっぱなしで寝たせいで、耳の調子が悪いのかも知れない。カーテンの隙間から、外の様子を確認する。
耳がおかしくなったのかな。その考えは、僕にとっては切実な問題ではあったけれど、目の前の現実と比べればはるかに気楽なものだった。
いつも車の行き交っている通りが、斜めに停まった車で塞がれている。そこかしこで衝突した車が煙を上げているが、事故現場のそばの人影は立ったまま動かない。
「なんだこれ……?」
玉突き事故にしては、騒ぎが小さすぎた。
遠くに目をやれば、ところどころから煙が上がっている。その半面町は静まりかえっていて、消防車のサイレンも聞こえない。
両親はもう仕事に出ているはずだ。外に出なければ状況は分からない。
親に尋ねるにせよ、心の準備は必要だったが。
「……通報しよう」
目の前の事故を通報し、ついでにやってきた警官に状況を聞けば良い。
電話を掛けるのは随分久しぶりで、発信ボタンを押すのに十五秒ほど躊躇って、ようやく押す。唾を飲みながらコール音に耳を澄ます。
いくら経っても、警察が応答する様子はなかった。
僕は再びカーテンの隙間から外をのぞき見る。もしかすると、よほど回線が混み合っているのか。だが、時間を停められたような町には車が走るエンジン音すらない。
その時、家の前に立ち尽くす人影に気がついた。
俯きがちな輪郭は、僕が知っているものだった。
クラスメイトの山内。通学路がこの道で、僕が登校をやめてからしばらくの間、家を訪れてきた。一回も僕が出なかったから、やがて来なくなったが。
彼が家の前にいるようでは、僕は玄関から出ることはできない。
随分久しぶりに服を着替え――といってもジャージだが、裏口に向かう。少し様子を見るだけ、と必死に自分に言い聞かせて。
―――
サンダルが音を鳴らさぬよう慎重に足を運んで、敷地を隔てる塀からそっと顔を覗かせる。
家の裏手の道には、人っ子一人いない。元から交通量が少ない道だから当たり前かも知れない。
胸程度の高さの塀を乗り越え、表通りを窺おうと顔を出した瞬間、目の前に人影があって慌てて引き返す。だが、足音も聞こえず、いっこうに動く気配がない。
恐る恐る顔を出すと、すぐ目の前に石像が建っていた。
通勤中のサラリーマンを模したのか、片手にビジネスバッグをもち、足を踏み出そうとしている瞬間を切り取ったものだ。だが、あまりにもできがいい。
一本一本作り込まれた髪。怪訝そうに眉根を寄せて振り返るその瞳には何が映っていたのか、覗き込めばその鏡像すら見えそうだった。
半開きの唇までを見て確信する。
この石像の顔は、隣家に住む平崎家の父親だ。
ただの一般人をかたどったものが道端に放置されているはずがない。
「石に……?」
気がつけば、道の随所に立ち尽くしていると思っていた人影は、全て石の像だった。
「ひっ……」
すぐ足元に転がっている石の欠片。二つの関節で曲がったそれは、紛れもなくかつて人の指であったものだ。
目の前の石像の手には、指が一本欠けている。
こみ上げてくる吐き気をこらえ、僕は人を探すため駆け出す。
―――
大通りを走り続け、一際大きい交差点にたどり着いたところで足を止める。痛みを訴える脇腹を押さえ、体をくの字に曲げて息を整える。
数百メートルの道の上に、生きた人間は一人もいなかった。全てが石像だった。
誰かの悪戯と言うにはあまりにも手が込んでいる。人が石へと変わるという非現実的な説明が、目の前の現実を最も適切に表していた。
「……何で、僕が」
思わず呟く。
目の前の車の中には、停車中に石化した年配の男。驚きに目を見張ったまま、彼の時は凍り付いている。
驚愕と一抹の恐怖の入り交じった顔つき。直視していられず、目を背ける。
体が石へと変わる、その感覚はどれほど怖ろしいことだろう。
その想像から目を逸らして、僕は走ってきた道を振り返った。
長らく歩いたことのない道のり。学校への通りを駆け抜けたのはいつぶりだろうか。
この道を歩く僕たちは、いつも周りの視線に見守られていた。
否、曝されるという言葉の方が、状況にそぐっていた。
僕だけが生き延びた。
もう僕を見る人間はいない。
それは両親であっても、近隣の住民でも――僕を弾いたクラスメイトであっても。
その考えは福音のようだった。
倫理的に誤っているのは分かっていた。僕は両親を悼み、生き延びてしまったことに苦しみ、これからについて悩むべきだ。
でも、そんな僕の心を咎め立てする者すらいない。
周りからの視線という重荷を取り除いた後には、ただ解き放たれた僕自身だけが残っている。
脇腹が痛むことも無視して、僕は再び走り出す。自然と口から叫びが漏れる。
久々に出す大声は調子っ外れで、誰かに聞かれれば狂人と思われることだろう。
今や、そんな心配をする必要もなかった。
いつの間にか雲に覆われていた空から、暗雲を映して灰色の雨粒が降り注いでくる。
空を仰いだ僕の口の中へ驟雨が飛び込んでくる。半年以上ぶりの雨の感触に、明らかに僕の顔は綻んでいた。
―――
これからどうしようか、冷静になって考え始める。
人が生きていくために必要なのは、水と食料か。水はいくらでも手に入るだろう。保存食だけでも、日本中を探せば相当数ある。
野菜の栽培なども考えておいた方がいいか。他の人間がいないならば、農家の設備を拝借することもできる。
ゾンビパニックものやポストアポカリプス的な話は、これまで何度も読んだことがある。その知識を活用すれば――
「あ」
管理者がいなくなり、電力はいずれ尽きる。インターネットもじきに動かなくなる。
「情報は今のうちに集めないと駄目か」
家の前に立つ山内の石像は、もう気にならなかった。
ずぶ濡れのまま家へ入り、部屋の電気を煌々と点す。今まで昼日中には絶対にできなかったことだ。
シャワーを浴びて乾いた服に着替えると、スマホとパソコンを並べてサバイバルのための情報収集に励む。
「……いつ頃まで生きるかな」
年を取れば一人で生きることは難しい。現代社会ですらそうで、まして地上にたった一人なら。
自分がいずれ死ぬことへの恐怖はなかった。そのことを思い浮かべても乾いた感慨があるだけだ。
むしろ、自分がいつか不意に石像へ変わるかも知れないことのほうが恐ろしい。同じように周章狼狽の表情を浮かべたまま、街角に立ちつくしていた石像たちの群れに加えられる、それは嫌だった。
「石化、か……」
原因を探ろうにも、僕の知識は絶対に足りていない。インターネットも使えず、他に尋ねる相手もいない。
久しぶりに勉強をするか。青空と穏やかな風の中なら、それも苦にならないだろう。
―――
その家は、予想していたよりも立派だった。
金持ちであることは、日頃からひけらかしていたから知っていた。ただ、その度合いは僕の想像力を超えていたようだ。
インターホンを押すと、電子音が微かに門柱まで聞こえる。誰か出てくる気配は、当然ながらない。
僕は庭先に踏み込む。
表札に書かれた「河原崎」は、僕のクラスメイトの名だ。
庭先には、黒塗りの車が止まっている。有名な海外メーカーのエンブレムが鼻先についていて、詳しくない僕から見ても高級車だろうと分かる。
運転席には、壮年の男の像が腰掛けている。河原崎の父親なのだろう、鼻持ちならない口元がよく似ていた。
僕は手間暇かけて手入れされている庭木から、枝を無造作に折り取った。
肩の上まで振りかぶり、勢いよく振り下ろす。
背筋に氷を滑らすような音がして、車のフロントに大きな傷がついた。
枝はそのまま放り投げて、僕は玄関に手を掛ける。ちょうど父親が出かけたところだからだろう、鍵はかかっていなかった。
フローリングに土足で上がり込み、居間を発見した。
机の上には食事が並べられていて、夏の気温で腐臭を放っている。その前に高校生が一人。もともと茶色だった髪が灰色になり、その外見はごく普通の少年だ。
箸を持っていたらしい手元には何も握られていない。おそらくどこかへ転げ落ちたのだろうが、そんなことを確かめる意味はない。
僕は机の上の食器を払いのけ、机にそのまま腰掛けた。床に落ちた皿が割れ、けたたましい音を立てる。
目の前の河原崎の顔は、何かを食べようとしていたらしく口を開いていて、随分と間抜けな表情だった。
石と化した彼は、もはや睫毛の一本すら動かすことができない。
彼の頬は石になっても滑らかなままだった。僕の不摂生で荒れた肌とは別物だ。それも、この男に当てこすられたことがあった。
僕は無精髭の生えた自分の顎に指を当てる。
どうしようか。
もしかすると、今も石の中で彼の意識は残っているのだろうか。
思い至った瞬間、体が一瞬竦んだ。
河原崎の眼窩からは虚ろな視線が投げかけられている。
白目より僅かに色が濃い瞳をのぞき込み、僕はかぶりを振った。
「大丈夫だ」
口に出す。
この状態で前が見えるわけがない。見えていたとして、それがどうした。
どうせ元に戻ることもないだろうに――
「戻る?」
今度の言葉は、意図しなかったものだった。
石化した人々が元に戻る可能性。両親ならばまだしも、それがこの河原崎のような輩までにも起こりうるならば。
それを防ぐ確実な方法を、僕は知っている。
路上に放置されていた石像は、既に一部が欠けている。
今は完全を保っているこの男も、少しの衝撃で簡単に崩れてしまうだろう。
「……いや」
それはまずいでしょ。
独り言がぽろぽろとこぼれてくる。歯止めが利かなくなっているようだ。
いつの日か、河原崎は生き返り、再び動き出すのかも知れない。それを阻むことは、直接殺すことと何か違うのだろうか。
少なくとも、僕はこの男に殺されなかった。
だが、この男は僕が死んでも気にしなかっただろう。
僕は河原崎の不安定な肩に手を掛け――その手を外した。
後で考えればいい。時間は十分にあるはずだ。
今や僕は、河原崎の、全人類の生殺与奪を握っている。その事実だけで、頭まで熱に侵されるようだった。
―――
水道が止まった。ガスも電気も止まった。冷房もなく、夜も世界は闇に包まれる。
ただ、僕はさほど暗闇が恐ろしくなかった。
人がいないと、大都会の中心でも夜空が綺麗だった。鳥獣の鳴き声が時折聞こえるのも、自分が安全な家の中にいれば楽しいものだ。
いずれこの都市は野生動物に占拠されるだろう。その中で自分一人が人間として生きるのも、想像すれば愉快だった。
僕は都心までやってきて暮らしている。物資を集めやすいし、何より高級マンションでの暮らしは楽しかろうと思ったから。実際には、マンション暮らしにはすぐに飽きが来た。エレベータが動かない今、階段で何階分も上がるのはただの苦行だ。
結局、鍵が開きっ放しの家を探し、住人を他の部屋に運んで住み着いた。
食事は、食材が腐らないうちはちゃんとしたものを食べようとした。と言っても、ただ肉を焼いただけ、ジャガイモを茹でただけだ。それでも、つい最近まで食べていた母の手料理よりも、何倍も味が感じられた。
ここしばらくはずっとカップ麺だ。ガスコンロの類が大量に残っていて、一生かけても日本中の燃料を使い切ることはないだろう。
「化石燃料を使ってばかりじゃ、環境に良くないぞ」
ははは、とさほど面白くもないのに声に出して笑う。
生きていくためにやるべきことは実際のところほとんどなくて、物資調達以外は図書館に入りびたる日々だ。どうしても無聊に耐えきれなければ、街中で大声を上げる。叫びはビルの谷間に反響して、少しだけ形を変えて戻ってくる。時には驚いた野鳥が飛び立ち、その羽音を伴って。
「こう暇だと、ネット小説が読めないのがな」
世界のサーバは、人がいなくなってもしばらく動き続ける。でもインターネットという枠組みが存続しても、僕が熱中できるような文章をそこに綴る人はいない。
「こうなったら自分で書くか」
笑い飛ばすと、声はビルの狭間に吸い込まれて消えた。
―――
カップ麺をレジ袋に詰め込んでスーパーを出る。夏の終わりの日差しに目を細める。
停めてある自転車に戻ると、駐車場の端に立つ鹿と目が合った。
慌てて逃げだした鹿に思わず笑みをこぼす。すぐにそれは無表情に塗りつぶされる。
間借りしているアパートに戻ると、腐臭が鼻についた。台所には食べかけのカップ麺がいくつも放置されていて、明らかにそれが原因だった。
「今日はキムチ味だ」
ガスコンロにやかんをかけて、ペットボトルから水を注ぐ。湯になったら真っ赤な麺に注いで三分。ほとんど無意識の手順。
「いただきます」
誰に言うでもなく声を発する。
口に麺を含んだ瞬間に猛烈な吐き気がこみあげてきて、僕はトイレに駆け込んだ。
空っぽの胃の中から、わずかな固形物と胃液を絞り出す。吐くもののないまま込み上げてくるえずきと胃の痙攣が収まるまで、便器の前にしゃがみ込む。
カップ麺を流しにぶちまけると、今朝の残りの麺と混ざって紅白に染まる。残った湯もそのまま流し、僕は布団に体を投げだした。
「部屋でも変えるか」
この世界で、引っ越しはひどく簡単だ。荷物はガスコンロと燃料とわずかな飲食物だけ、自転車に積んで少し移動すればいい。鍵を壊せばどんな部屋でも住める。
必要な荷物は、いつも登山用鞄に詰め込んである。
「思い立ったが吉日」
独り言ちつつ部屋を出る。
自転車を適当に走らせて十五分ほど。清潔感のあるマンションを見つけ、玄関のガラス扉を割って侵入する。
幸いあまり食べ物が残っていなかったようで、腐臭がしなかった。
六畳ほどの一室。壁に背中を持たせかけたような格好で、石像が虚ろに宙を見つめている。大学生だろうか、顔立ちの整った女性だった。
他人の家を間借りするときは、住人はどこかへ移す。その方が自分が落ち着くし、空虚な視線に悩まされることもない。
ただ、今日だけはなぜか、彼女をそこに置いたまま、僕は部屋に居座ることにした。
「たまにはこういうのも気が晴れるよね」
『私に同意を求めないでよ』
彼女は答えない。彼女が口にする言葉を想像する。
ペットボトルのお茶をグラスに注ぎ、一方を彼女の前に置く。
「今日からお世話になるけど、よろしく」
口にしてから失笑する。これではただのままごとだ。
湯を沸かし、カップ麺を二つ作る。なんとなく、今なら完食できるような気がする。
食べ始めると、化学調味料の味がする麺は、抵抗なく胃に滑り落ちた。
「君の分もあるよ」
『えー、もっとちゃんとしたものが食べたいけど』
空中を見つめる彼女の前にカップ麺の片方を押しやる。カップから立ち上る湯気が彼女の視線を遮る。
揺らめく湯気を通して見ると、彼女の瞳がわずかに動いているように見えた。
「っ」
それに気がついた瞬間、肩がはねてしまう。逸らした目を再び合わせて、彼女が厳密に石であることを確認する。
思わず安堵の息を漏らして、彼女の部屋を見回した。
質素な部屋だ。壁際に本棚と箪笥があるが、どちらもさほど大きくない。箪笥の一番上の棚を開けると、保険証や通帳が入っている。彼女は藤野悠佳という名前らしかった。
「よろしく、藤野さん」
独り言と会話の境界線のような言葉をかけて、彼女のカップ麺を手に取る。少し迷って、中身は窓から投げ捨てた。
―――
「とりあえず生物と、地学の本も持ってきたよ。石の分析もした方が良さそうだしね」
書店から持ってきた本を机の上に下ろし、重さで凝った肩をぐるぐる回す。宙に投げられた彼女の視線は、積み上がった本を見つめているかのようだ。
「石化なんて聞いたことないけど、手がかりになるものはあるかな」
『分かるわけないよ、私文系だし』
「僕は一応理系だけど、授業受けてないしなあ」
高校生物の総復習と銘打たれた本を適当にめくる。正直なところ、本気で石化の謎を解明するつもりもなかった。暇つぶしになるなら何でもいい。
「小説全部制覇、ってのも面白いかもね。国会図書館にこもってさ」
『でもそれだと私を置いてっちゃうでしょ』
「あー、それは問題だ」
今度は鉱物図鑑を開く。
『そんなに暇なの?』
珍しく、彼女から口を開いた。
『生きてる意味ある?』
彼女の方を振り返る。視線は空虚で肌は灰色、顔には生気の欠片もない。
一緒に暮らしているうちに、彼女の性格は分かってきた。鷹揚で人当たりがいいが、時折鋭すぎる言葉を吐く。でも言い過ぎたと感じればすぐに謝る、そういう人だ。
『ごめん』
案の定、彼女は謝罪を口にした。
首を振る。彼女の言葉は、すべて僕の想像だ。明確なキャラクターが作られていても、結局僕の乏しい知識からかき集めた表面的な人間らしさでしかない。
一カ所に留まったのがまずかったかも知れない。今の僕は、特に頭を働かせずとも、藤野さんが次に何を口にするのかが分かってしまう。思いついてしまう。
荷物を鞄に詰め込んで、森閑とした街を国会図書館へ向けて走り抜ける。自転車のタイヤの空気が抜けてきていた。
―――
『今日も勉強ですか?』
司書の言葉を払いのけ、
『また会ったね』
閲覧室の先客に背を向け、
『体調が悪そうだけど』
トイレ前で耳を塞ぐ。
そうしたところで、声が消える訳でもない。脳の底で生まれる声は、出口を失って頭蓋で反響し、その勢いを強める。
打ち消すような思考を懸命に探して、掴んだのは寿司のことだった。久しぶりに寿司が食いたい、と一心に念じて、石像たちの言葉をかき消す。
国会図書館での日々は一週間で限界を迎えた。
海沿いへ自転車を走らせ、釣り竿を海に投じた。コンクリートの岸壁には誰もいなかった。
米はまだ、食べられそうなものが残っている。火を起こして鍋を探してくれば、なんとかご飯を炊けるだろうか。酢と醤油は、多分賞味期限が長いだろう。何も釣れなかったら、またカップ麺を食べよう。
竿に手応えがある。確か勢いよく引いてしまうと釣り糸が切れてしまう、と聞いたことがある。ゆっくり引き上げると、名前も知らない魚が唇を針に貫かれてもがいていた。
「案外簡単に釣れたな」
バケツに落とすと、横断歩道のような模様の魚は、逃れようと身を震わせた。
「悪いな、今この世界で一番強いのは僕なんだ」
生態系の頂点、万物の霊長。その最後の一人。世界最強の存在だ。
昔の僕が知れば、今の僕を羨むだろうか。
『こんな惨めな人間を?』
幻聴が脳裏に閃いた。
竿を投げ捨て、辺りを見回す。石像は一つもない。正真正銘、僕一人だ。
いや、声は初めから、僕の想像に過ぎなかった。僕が与えたキャラクターは、僕の意識の触媒でしかない。
「うるさい」
僕は、世界で一番自由で、解き放たれていて、間違いなく最強だった。自分の独り言に苦しめられる道理なんてこれっぽっちもなかった。
弱いから蔑まれる。劣っているから標的にされる。すべてが石に変わったこの世界で、僕が脅かされるはずがない。
バケツの中で魚は跳ね、力尽きて動かなくなった。鰓の痙攣が生を主張しながらも、抗うことをやめていた。登校しようとして玄関を出られなかった朝を思い出した。
―――
立ち尽くす山内は、僕の家の玄関を向いていた。どこか躊躇いがちな表情だった。
彼が何をしようとしていたのか、僕には分からない。僕は彼がどんな人間か少しだけ知っていたから、本や漫画を真似た振る舞いをさせることはできなかった。
何度訪れても家を出なかった僕に、愛想を尽かしていたはずの彼は、なぜ僕の家を見ていたのだろうか。
久しぶりに自分の家に帰ると、自分のベッドに体を投げ出して、毛布を頭からかぶった。
『結局お前は、ここから出られないままだ』
自分の声がする。
その通りだ。僕はこの部屋から出られない。たとえ世界が滅んでも、僕自身は何も変わっていないから。
全身の気怠さが、意識を黒に塗りつぶしていく。抵抗しないまま僕は眠る。
明日の朝には、すべてが元通りになっているかも知れない。そうでなければ、僕は今度こそこの部屋を出なければならない。
最も合理的な世界最強のテンプレート 倉田日高 @kachi_kudahara
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