カンコンカン、ごりごりごり

深見萩緒

カンコンカン、ごりごりごり


 隣の部屋から、奇妙な音がする。

 俺は在宅作業系のフリーランサーで、殆ど一日中家にいる。通勤しなくていいため駅チカの家賃の高い部屋を選ぶ必要もなく、満員電車の煩わしさからも完全に解放されている。今の暮らしは、実に心地良い。

 羽振りはそれほど良くはないが一応は安定しており、駅から遠いために割安なこの部屋も、一人暮らしをするには充分な広さだ。それなりに各地を転々としてきた俺だが、今回の部屋は特に居心地がいい。

 言うことはない。隣の部屋から殆ど毎日、奇妙な音さえ聞こえて来なければ。


 カンコンカン、ごりごりごり。

 壁はそれほど薄くはないはずだが、その音は壁を伝って響いてくる。ものすごくうるさいというわけではない。音が聞こえてくる時間も、平日の夕方であったり土日の昼間であったり、特に非常識な時間帯ではない。俺はいつも仕事をするときはヘッドホンをつけて音楽を聞きながらしているのだが、休憩のときにヘッドホンを外して初めてその音が聞こえて、「あ、まただ」と思う程度。

 それがどうしてこんなに気になっているのかというと、その音があまりに奇妙だから。

 カンコンカン、ごりごりごり。この音が一定のテンポを保ったまま、五分ほど鳴り続ける。少しの沈黙のあと、また鳴る。カンコンカン、ごりごりごり。また沈黙。またカンコンカン、ごりごりごり。

 隣人は、一体何をしているのだろう?


 気になって仕方がないが、ここは都心の独り身用の集合住宅。近所付き合いなどあるわけもなく、隣人の顔も名前も分からない。たしか女性だったと思うが、定かではない。

 音がうるさくて我慢できないというわけではないのだ。文句を言いに行くのも変だし、わざわざ「すみません、特に迷惑はしていないのですが、あの音は何の音ですか?」などと訊きに行くのはもっと変だ。

 しかし、気になる。あの音は一体何の音なのだろう。

 カンコンカン、ごりごりごり。その音が聞こえ始めると、俺は考えにふけるようになった。


 真っ先に思いついたのが、硬いカボチャを切っている音だ。今でこそ、いったん電子レンジにかけて柔らかくしてから切ればいいのだと知っているが、料理を始めたてのころは苦労した。硬いカボチャを包丁で切るのは困難だ。まず皮が固くて、包丁の刃が少ししか食い込まない。なんとか数センチ食い込ませたら、今度は包丁が抜けない。包丁を持ち上げようとしたら、カボチャまでついてきてしまうのだ。

 困った俺は、そのままカボチャをまな板に振り下ろした。あくまで軽く――カン、コン、カン。それから、もういっそこのまま真っ二つにしてしまおうと、包丁を更に食い込ませにかかる。のこぎりのように使えば流石に切れるだろうと――ごり、ごり、ごり。

 カンコンカン、ごりごりごり。カンコンカン、ごりごりごり。

 長い格闘ののち、ようやくカボチャはふたつに割れた。しかし俺の手は真っ赤になっていて、後日ネットで「ナマのカボチャはとても硬いので、まずラップに包んで電子レンジにかけ柔らかくしてから調理しましょう」という記述を見付けたときは、本気で脱力したものだ。


 ――そんなことはどうでもいい。とにかく重要なのは、そのとき俺がカボチャに四苦八苦したときの音が、隣の部屋から鳴る奇妙な音によく似ている、ということだ。

 しかしまさか毎日、来る日も来る日もカボチャを切っているわけがない。もしそうだとしたら是非とも、電子レンジを使えば良いんですよとアドバイスしてやりたいところだが……多分、絶対にカボチャじゃない。


 では何だろう? 色々と考えて、最後に思いついたのは――まさか、死体。人間の身体を解体するとき、こんな音がするのではないか。

 カンコンカン。骨を叩いて砕く音。

 ごりごりごり。四肢にのこぎりを通して切断する音。


 そういえば殺人犯が死体をばらばらにするのは、猟奇的嗜好とは関係ないと書いてある新聞のコラムを読んだことがある。特に小柄な女性などは、殺したあとで死体の処分に困るんだそうだ。自分ひとりの力では持ち運べない。かといって、そのまま放置しておくわけにはいかない。ではどうするか。ばらばらにするしかないのだ。


 ……隣人は、確か女性だった。自分の妄想に過ぎないと分かっていながら、なんとなく気味が悪くなってしまう。もしかしたら隣人は殺人鬼で、人を殺しては解体して山に捨てに行っているのではないか?

「まさか、ね」

 苦笑して、俺はテレビの電源を入れた。平日の昼間らしくどのチャンネルもワイドショーで、芸能人のゴシップや世間を騒がせた凶悪犯罪を面白おかしく紹介している。女優の不倫、政治家の失言。そして、殺人事件。

『この一連の事件を、警察は連続殺人と断定して捜査していると、そういうことでしょうか?』

『ええ、そう考えて間違いないと思いますね。被害者が西日本から東日本まで、広範囲に分散しているのが奇妙な点ですが。そもそも連続殺人というのは……』

 テレビを消した。あるわけない、まさか隣の部屋に、連続殺人鬼が住んでいるなんて。そんなことあるわけがない。



 翌日。まさに翌日のことだった。近所の業務用スーパーからの帰り、俺は玄関ドアの前でばったりと隣人に出くわした。

「こんにちは」

 彼女は愛想のよさそうな笑みを浮かべて挨拶をして、俺も「あ、ども」と会釈を返す。かわいい。それが第一印象だった。明るい茶色に染められ、ふんわりと内側にカールしたショートボブの髪。服も靴もアクセサリーも、どれもこれも女の子らしい。大学生だろうか、だとしたら平日の昼間に部屋にいるのも納得できる。

 どうやら彼女も今帰ってきたところらしく、鍵が見当たらないのかカバンを探りながらもたもたしている。細くて白い右手の指に、不釣り合いなほど真っ赤なルビーの指輪が輝いている。


「あの」

 俺は思わず声をかけてしまった。あまりにタイミングのよすぎる出会い。運命かも、なんてくだらないことを考えてしまう。「はい?」と彼女は視線を上げた。少し茶色がかった、大きな丸い瞳。

「あの、いつも音が聞こえるんですけど、あれって何の音ですか?」

 思い切って、なんの前フリもなく訊いてみる。彼女は「音?」ときょとんとしたあと、「あっ!」と声を上げた。

「すみません、もしかしてうるさかったですか?」

「あっいえいえ、そういうわけではなく。ただ、何の音なのかなあと気になって」

「ああ、そうですよねえ」

 聞き慣れない音ですもんね。と笑う彼女は、当たり前だが殺人鬼には見えない。そりゃそうだ。カンコンカン、ごりごりごり。その音を「死体を切断する音かも」なんて考える方がどうかしている。

「それで、何の音なんですか?」

「あれは……あっそうだ。せっかくですから見て行きますか?」

 彼女はようやく見付けた鍵を鍵穴に挿し、ドアを開けた。「どうぞ、入ってください」


 初めて会う男を部屋に招くなんて、なんて警戒心のない女性だろう。他人事ながら、彼女のガードの甘さが心配になってしまう。それでも断ることはせず、俺はのこのこと部屋に入ってしまう。もしかしたら据え膳なのかもしれないし、などと考えながら。

 内装は、左右が反対になっていることを除けば俺の部屋と全く同じだ。入ってすぐ右に靴入れ。廊下を行って左にバスルーム、右にトイレ。そして突き当りにリビングがある。俺の部屋ならばベッドのほかにパソコンだのテレビだのがあるが、彼女の部屋は違った。

「うわ……すごいな、これ」

 部屋に並んでいたのは仏像だった。手の平に乗る程度の大きさの、木彫りの仏像。それが壁に沿って整然と並んているさまは圧巻だった。部屋の中央にはビニールシートや新聞紙が敷かれており、木くずが散らばる中に彫りかけの仏像が鎮座している。

 カンコンカン、ごりごりごり。この音だったのだ。


「趣味なんです、仏像を掘るのが。変な女でしょう? 今までできた彼氏、部屋を見せたらみんな連絡つかなくなるんです。まあ、そりゃそうですよね」

 自嘲気味に笑う彼女に、「そんなことないですよ」とカッコつけたい気持ちが半分と、「でしょうね」と正直に言ってしまいたい気持ちが半分。それらがせめぎ合ったすえ、俺は「確かにびっくりはしましたけど、変ではないですよ」と言った。最近は写経が趣味という若者も多いそうだし、俺には全く理解できない趣味ではあるが、変だと言いきってしまうのもおかしい。そう言うと、彼女は「そうですかあ?」と笑う。「でも、嬉しいかも。ありがとうございます」

 ああ、かわいい。



 結局、それ以上のことはなかった。彼女が仏像についてあれやこれやと説明するのを、俺はちゃんと聞いているふりをしながらぼんやりと聞き流した。あれは、だいにちにょらいさま。あっちのは、やくしにょらいさま。へえ、そうなんですね。とてもきれいですね。俺が彼女の横顔しか見ていなかったことに、彼女は気が付いていたかもしれない。

 話の合間に、私は謎の音について自分が考えたことを彼女に打ち明けた。最初はカボチャだと思った。もしかしたら、隣人が殺人鬼かもなんて妄想もしちゃったんですよ!

 深刻にならないように、面白おかしくおどけて話す。彼女も冗談と捉えたのだろう、声を立てて笑った。

「あはは、隣人が殺人鬼だなんて、ミステリー小説みたいですね!」

「ですよね。いやあ、殺人鬼じゃなくてよかったです!」

 俺も笑う。本当に、殺人鬼じゃなくてよかった。

 それから、他愛のない話もした。彼女は東京が好きで、東京にずっと住んでいたいと思っているのだと言う。「俺も同じです、なんていうか、人が好きなんですよね」と言うと、「分かります!」と彼女は高く可愛らしい声で同意した。


 部屋が薄暗くなり始めて、ようやく彼女は長いこと俺を拘束してしまったことに気が付き頭を下げる。

「すみません。私ったらお茶も出さずに。喋り始めるとつい、止まらなくて……」

「いえ、楽しかったですから。では、そろそろ」

 靴を履く俺に、彼女は「あの、」と声をかけた。少し期待する。

「あの……よかったら、またお話しませんか。今度はちゃんとお茶をお出しします。話していて……とても楽しかったので……」

「ええ、構いませんよ」

 ニヤケ顔を、きちんと隠せていただろうか。



 俺は自室に戻り、大きなため息をついた。なんだ。なあんだ。分かってしまえば簡単なことだ。隣人はただの、ちょっと変わった趣味を持っているだけの可愛い女性だった。カンコンカン、ごりごりごり。あれは彼女が仏像を掘っている音だったのだ。

 いや、しかしあんな可愛い女性が仏像を掘るなんて。俺の勝手な偏見だが、そういう趣味は定年後のおやじとか、ちょっと枯れた人たちのものだと思いこんでいた。彼女はどういった経緯で、あの趣味に没頭するようになったのだろうか。今度会ったら聞いてみよう。

 俺は浮き足立った気持ちでテレビをつけた。夕方のニュースがやっている。

『……殺人事件は十件を超え、被害者は判明しているだけでも十三人にのぼります。警察は対応を……』

 連続殺人事件のニュースを見ながら、ふと考える。


 カンコンカン、ごりごりごり。手のひらに乗る程度の大きさの、木彫りの仏像。

 カンコンカン、ごりごりごり。果たして、あんなに重たい音がするだろうか。ごりごりごり。もっと大きなものを切る音のような気がしてならない。あの仏像だらけの部屋を見るかぎり、彼女が仏像を掘っているのは本当だろう。しかし、だろうか? もっと別の、もっと大きなものを……。


 カンコンカン、ごりごりごり。また、隣の部屋からあの音が聞こえる。俺はそっと壁に耳をつけてみる。

 カンコンカン、ごりごりごり。ふう。……カンコンカン、ごりごりごり。ごりごりごり。ごりごりごり。ごりごりごり。ごりごりごり。ごりごりごり。ごりごりごり。ごりごりごり。ごりごりごり。ごりごりごり。


 彼女が仏像を掘るのは、なんのためだろう。

 俺は彼女の甘い言葉に誘われて、またあの部屋に行っても大丈夫なのだろうか。


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