第6話 左遷
「花城部長、これでよろしいでしょうか? 私の渾身の稟議書です。決裁をお願いします!!」
直属の部下である秋谷が、分厚いファイルを片手に新たなプロジェクトの最終決裁の可否を求めてきた。
嫌な案件がまわってきた……。いや、ついにまわってきたというべきか。これは、雨池専務のゴリ推し案件だ。ただでさえ、役員案件はめんどくさいのに、それも雨池のものと考えるとウンザリする。得体のわからない共同開発会社をいきなり連れてきて、専務が強引に進めたがっているという報告は前から聞いていたが、詳しくは知らない。さすがに専務を前面に出すわけにいかず、我々の部署に回され、秋谷を直担としたのだ。
改めて、ゆっくりと書類に目を通してみた。なんだこれは。正直なんの面白みもなければ、斬新さもない。それどころか、当社にとってのリスクしか感じられない。失敗する可能性が高いだろう。さぁ、どうしたもんだろうか。。
秋谷の渾身とやらの稟議書の中には、『初期の共同開発費は高いが、早期に収益で回収できる優良案件』、つまり、確実に儲かると書かれている。
普通に考えれば、こんなクソ案件は「没!」だ。ただ、専務が露骨なプレッシャーを与えてくる。「例の案件の決裁はまだですか?なにか、お手伝いしましょうか?」先ほども、専務から急かすメールが何度もきている。私が否決したとしても、役員に書類が上がり、結果としては強引に進められるだろう。私には部長という役職はついているが、止める権利もなく、虫けらのように無力だ。
雨池専務は社長の縁戚、いわゆる創業家……。
我が社は上場会社とはいえ、オーナー企業の側面が強い。
「……わかった。進めてくれ。そのかわり、しっかりやってくれ。なにかあったら、すぐに報告すること」
それにしても、私の教育が悪いのだろうが、秋谷が作成した稟議資料は、恥ずかしいくらい拙いものだ。誤字脱字が多く、なにを言いたいのかもよくわからない文面。こんなしょうもない書類のために、先週から彼に残業代を払っていたかと情けなく思う。先日みた遺伝子検査会社のプレゼン資料のほうが、遥かにレベルは上だ。
秋谷には、特別な期待がある。もう、この部署にきて約2年、私が部長職になってからの初めての部下だった。そろそろ一人前になって欲しいところなのだが、マイペースな性格が足を引っ張り、なかなか成長を見せないので、もどかしい。たまに、2人で飲みにいこうと誘っても、お酒が飲めないと、きっぱりと断られる有様だ。
手直しをさせる時間もなく、承認欄に私の判子を押した。秋谷は、自分の実力が認められたかのように意気揚々と自分のデスクに戻った。
その様子をぼんやり見ながら、赤海理事長と会ったときのことを思い出し、私は何者なのだろうかと考えた。彼が話したことをすべて信じているわけではない。
自分なりに遺伝子、Y染色体について調べてみたが、それなりに学術的にも正しいものであった。ただ、Uタイプの存在も、そもそも20億もの資金力がある財団法人の存在も探し出すことさえもできなかった。詐欺ではないが、オカルト宗教の一種ではないかとも疑った。これ以上は、足を踏み入れるのをやめようと思った。
帰り際に理事長はこう話した。
「花城さん。私共は、遺伝子検査サービスを開始することで、あなたを含め約500名の同胞を全国各地から発見することができました。Uタイプは、詳細な解析を進めることで、より細分化することができます。我々の財団法人の序列は、そのUタイプでも古くに分岐したものから序列が決まっていきます。そして、現代の王が生まれます。あなたの解析結果が出れば、いずれご報告します。もちろん、追加検査による料金はいただきません。進捗度は会員ページで確認できますので、楽しみにしてください」
久しぶりに、w社のホームページを開いてみた。再解析進捗率は46%となっていた。
この時季一番の強い寒気が日本列島を覆い、日本海側の地域には雪雲が次から次へ向かっていた。東京も薄暗い雲がかかってきた。
今まで見たことのない秋谷が血相をかえてやってきた。
「は、花城部長!!」
「ん、どうした? 」
「プロジェクトの提携先が、朝から連絡が取れないので、おかしいなと思っていたのですが…このFAX……」
ガクガク震える秋谷から手渡されたFAXをみると、「破産手続開始について」と書かれていた。
頭が真っ白になった。脳も細胞もすぐに反応できなかった。
「な、なんだこれは。秋谷!!共同開発費の支払いはどうなっている?」
「先週、着手金として2億支払いました………」
「えっ、なんで、こんなことに。一体、どうなってるんだ!! 2億も支払ったんだろ。その後にすぐ破産だなんて、完全な計画倒産ではないか。ここでとやかく言ってもしょうがない。とにかく、会社に向かうぞ。雨池専務にも報告しとけ!なにか、知ってるかもしれん」
「わ、わかりました」
そうはいっても、頭では時すでに遅いことは分かっていた。だが、何かをしなくては、落ち着けない。
意気消沈し、全く動くこともできなくなった秋谷を無理やり引き連れて、その会社に向かった。会社の入り口には、破産をしましたとの貼り紙が貼ってあった。会社の辺りには、私らのような債権者や柄の悪いものも何人かいる。外では激昂しながら電話している胡散臭い輩もみられる。
……やられた。完全に騙された……
法的整理に入った会社には簡単には手出しはできない。事前に取り受けした財務諸表を見返してみるが、そこまで財務悪化の兆しは見られない。会社の業歴もあるほうだし、おかしなところが見つからない。粉飾決算か………それとも計画倒産を疑うべきだ。
それならば、やるべきことがあると判断し、顧問弁護士との打ち合わせなど、徹夜の日々が続いた。
しかし、回収業務と後始末に追われて、私は大事なことを見過ごしていた。今回の件において、社内の根回しまで、頭が回らなかったのだ。
秘書経由で、雨池専務のアポイントを取ろうとしても、多忙とのことで、全く取り次いでもらえない。謝罪の言葉どころか、こっちからのメールの返信もない。ほんと、ふざけた野郎だ。
時が流れるにつれて、徐々に回収は絶望的だとわかってきた。一方で、弁護士と打ち合わせという時間を重ねているうちに、会社内での私の処遇は固まりつつあった。
稟議書の決裁権限者は、あくまで部長職である私にあり、専務は自己保身のため、すべてを私の責任に作り上げた。雨池専務は実力がないが、社内政治家と呼ばれていたが、見事な役回りだった。私はその動きに全く気付くことができなかった。
ほんと、クタクタだ。
昨日も徹夜であったため、栄養ドリンクを何本も飲んだが、疲れがとれない。さすが、40歳を超えると、体もガタがくる。
ようやく、最終報告を仕上げて申請した。さすがに、雨池専務のことも織り込もうかと思ったが、客観的な事実だけを書いた。本人が逃げ回っているのに、推測だけでは書けなかったからだ。ふっと気が緩んだ瞬間、睡魔を吹き飛ばすように内線が鳴った。
「いまから、私の部屋に来てほしい」
あまり、面識のない人事担当役員からだった。2時間前に、最終報告書を申請したばかりなのに、もう反応があったのだろうか?いまから、ゆっくり昼に行こうと思っていたのに、役員の命令ならば、従わざるを得ない。
背が小さくせっかちそうな男は、応接室の席に着くなり、この件についての尋問を始めた。
「花城くん。先ほど、君の書いた報告書を読んだよ。今回の件、君自身はどう考えている?」
「はい。今回の件は、深く受けとめています。もっと共同開発会社を慎重に信用調査するべきでした。会社に2億もの損失を与えた重さを十分に認識しています」
このやり取りを何度繰り返しただろうか。この部屋に入ってから、どれくらい経ったのかもわからないくらい尋問が続いた。私は、報告書を作成しながら、部下のせいにするつもりはさらさらないが、雨池専務の責任は重いと思っていた。
「じゃあ、すべて君の責任なんだな」
「すべてとは言いませんが、私の責任によるところもあると申し上げているのです。止めることができる立場にもあったにもかかわらず、できなかったことです。実際には、この案件には雨池専務が関与した部分も多く……」
「そのよく分からない共同開発会社に、なんで着手金で2億も払ったんだ?そんなのおかしいだろう」
「それは、雨池専務の指示で……」
「専務は関係ないだろう。お前は専務を愚弄すんのか?」
「そんなつもりはありませんが。ただし…」
「貴様、自分の失敗を雨池専務のせいにするのか?自分の立場がわかっているのか?そんなこと、この報告書には、どこにも書かれておらんぞ。あの人に逆らうとこの会社での居場所がなくなるのを知ってるだろう」
この案件の共同開発会社は、当社にとっては、取引のない全くの新規先であった。私がこの会社を選んだ理由は全くない。専務が連れてきたというそれだけだ。
開発費の支払い方も、プロジェクトの進捗度合いを確認しながら支払うべきだった。秋谷から専務に上申したらしいが、それも、専務がごちゃごちゃいうな!で一蹴された経緯もある。
こんな馬鹿げた話を報告書に盛り込もうとも考えたが、私の部門で起きた事故案件。所詮、会社組織とはそんなものだという諦め、責任を取ることの潔さが大事だとその時は思った。
「なぁ、花城。雨池専務のこの会社での力をお前もよく知ってるだろう。もう、無駄な足掻きをするのはやめろ。それは、お前のためでもある。最後に聞く。この案件の責任は誰か分かるな」
もう、無意味な抵抗をするのは、やめよう。素直に処罰を受け入れる覚悟を決めた。反論をするのもめんどくさい。
「わかりました。この事案の問題は、部門の責任者である私にあります」
人事担当役員の口元が緩んだのを見過ごさなかった。この時点で、完全に私の処遇が決まったのだ。
「分かっていれば、それでいい。君にはこの案件の責任を取って、うちの関連会社に出向してもらう。向こうで頑張ってくれ」
「……………」
何も言えなかった。私は確かに、会社に大きな損失を与えた。だが、何故、こんなにも早く私の処遇が決まるだろうか?しかも、この歳で、地方の子会社に出向だなんて。
相手が時計をみた。ちょうど、時計の針は、16時ちょうどを指そうとしている。
「そろそろ、社長がお戻りになる時間だな。金川社長が、君の処罰について部屋でお待ちになってる。ついてこい……」
社長室へつながる赤絨毯を歩く足取りはきわめて重かった。
妻にはなんて報告をしようか?きっと、給料は大幅に下がるのだろう。これから、まだ幼い光輝をどう育てていけばいいのか?あの子が成人になるには、まだ20年以上もあるぞ。
出向先の関連会社は、名前は聞いたことはあるが、なにをやってるところなのだろうか?そもそもどこにあるのだろうか?
私の人生はどうなるのだろうか?
人事担当役員が、社長室の部屋をノックした。この部屋の奥で、私はこれから死刑宣告を受けるのだ。
「社長、花城を連れてまいりました」
金川社長は、書類に目を通したままで、目線どころか顔もあげなかった。
「彼から報告があった。君への処分案も聞いた。今回の件に対して、弁明、おまえの意見はあるのか? 」
「特にありません。私の責任としてとうけとめています…」
金川社長は、手を止めて、眼鏡越しから私を睨みつける。
「ん?おまえは、ほんとにそれでいいのか?」
「向こうにいっても、一生懸命に励みます」
社長の圧力に、必死に頭を下げた。この場を取り繕えば、早めに戻してもらうことができるかもしれない。私もこの会社に少なからず貢献してきたはずだ。
「わかった。おまえはもういらん。俺の前から立ち去れ!!」
そう言うと、金川社長は、見ていた書類をゴミ箱に投げつけた。
20年近くこの身を会社に捧げてきた。この会社には誰一人として私を守るものは現れなかった。しかも、会社からの死刑宣告は、たったの1分だった。これが、会社内の私の価値である。私のようなものは、ゴミ箱に捨てられた書類のように、掃いて捨てるほどある。
思ったよりも、左遷されることにショックはない。このような不合理な人事は、この会社では日常茶飯事で今までいくつも見てきた。いつか、自分の身にこのようなことが起きるのではないかと覚悟していたからだ。
社長室から放り出された私は、とりあえず、自分のデスクに戻ろうとした。後ろの方から、誰かが、私の肩を強く叩いた。
「あの会社が、まさかこんなことになるなんてな……」
心身ともに弱っており、大きくよろめいた。私の肩を叩いたのは、あの雨池だった。あんなに、音信不通だったにもかかわらず、平然と目の前にいる。むしろ、私の処罰を事前に知っていたのだろう。いや、こいつが根回しをし、処罰の絵を書いたのだろう。もしかして、報告書の中に、自分の名前がないことを確認した上で、動いたのかもしれない。
失敗した。この時に、初めて自分の甘さを悟った。
雨池の表情からは、私への同情というか憐れんでいるようにも思える。こいつの顔をみると、頭がおかしくなりそうだ。
「専務に、何度も連絡させていただいたのですが?この件に関してなにかご存知だったんですか? 」
込み上げる怒りを封印し、私は冷たく言葉をぶつけた。雨池は、急に怒りの表情に一変し、怒鳴りつけた。
「そんなこと、知ってるわけないだろ!! 人聞きの悪い。ま、新規事業は難しいってことだ。そして、今回は運がなかったと言うことだ。とにかく今回の件は残念だ…。私も君の能力は、高く評価をしているんだ。向こうで頑張ってくれ。必ず、俺がお前のことを呼び戻すから!!」
三文芝居だとは分かっているが、このわざとらしさには虫唾が走る。
普通ならば、このような懲罰人事は、査問委員会が開催され、この事故案件の中身を吟味したうえで確定する。この短期間で処分されるなど、やはりありえない。目の前のこの男や人事担当役員などが示し合わせたのだろう。今の言葉で確信した。それも、私は本社に戻されることもない。それにしても、よく、そんな口から出まかせが言えるとものかと、顔は引きつり、殺意さえ覚えた。
その怒りを嘲笑うかのように、今度は生温く、私の肩を叩いた。私は無力だ。このおとこから、無言で逃げ去ることしかできなかった。
あまりの出来事に、自分のデスクに座っても、なにも手がつかなかった。仕事をしても、それは意味を持たない。情けない顔を見られたくなく、デスクの反対に椅子を回して、外をぼんやり見ていた。
気がつくと、部下の秋谷がデスクの前に立っていた。どこからか、私の処罰を聞いたらしい。
「私のせいで申し訳ありません。雨池専務もひどいですよ……無理難題案件を持ってきて、全部、部長の責任にして……私には何もできません。ほんと、悔しいです…」
「そうか、話を聞いたんだな。笑えるだろう。このザマだ」
「でも、おかしくないですか?あの潰れた会社は、もともと専務がつれてきたんじゃないですか?」
「判子をついたのは私だ。あの案件は、専務案件だろうが、おかしいものは断るべきだったんだ。それができなかった俺が悪い。秋谷はなにも悪くない」
「しかし…」
「これも、俺のサラリーマン人生さ。お前にはまだ未来がある。営業をバリバリ頑張りたいと言ってたじゃないか?これからも子供のためにも頑張らないとな」
秋谷のところにも、光輝と同じ歳の幼い子供がいる。いつも、自己中心的で、なにを考えているのかわからない奴だったが、かわいいところもある。今度、自分の下についたら、稟議書の書き方でも教えてやろうと思った。
部長として、秋谷の上司としての威厳を守るのに精一杯だった。情けなくて、涙が出そうだ。
数日後、日本海側にある地方の関連会社への出向の辞令が渡された。
社内を挨拶回りしていると、みな、腫れ物に触るような対応だった。この会社で、ハッピーリタイアしたものを、ほとんど見たことがない。島流しであることは、十二分に分かってはいたが、さすがに自分が惨めだった。
会社での仕事の引き継ぎよりも、家庭内での問題のほうが混迷を極めた。社長からお前はいらんと言われたその夜、地方へ出向となりそうだと妻に告げた。
会社での出来事を、妻に話しても理解してもらえるはずもない。当然、雨池専務との確執も出向になった理由も伝えなかった。
私としては、まだ幼くて、一番かわいい時期の光輝とは、どうしても離れたくなかった。妻は光輝の面倒をよく見ているいい母親だ。だけど、父親と母親が共に子供を育て、家族とは一緒に住むのが当たり前だと前から思っていた。出向だろうが、地方だろうが、光輝とともについてきてほしかった。当然、妻も付いてきてくるものと思っていた。ところが、妻は私を必要としていなかった。
「あなた、なにやってんの?それで、いつになったら、本社に戻ってこれるの? 」
「すまん。それはわからない。戻れるかどうかの確証も今のところない」
そもそも、そんなのは、俺が知りたいことだ。だが、今日の社長の言葉、雨池の妨害により、片道の出向だろうと内心諦めている。さすがに、それは言えなかった。
「この家もまだローンを抱えているし、これからの生活でどれだけかかるかわかってるの? 給料はどれだけ下がるの? 」
「いや、今日の話だから、給料がどれくらいになるかは……」
「クビになんかならないわよね。万が一の場合、歳だし再就職できるの? 」
妻は旦那の都落ちに、この世の終わりかと思うほど嘆いた。言っておくが、失業をしたわけではない。さすがに、この場面では困った話は聞き流す特技を発動するわけにもいかない。光輝を寝かせつけてから、この話をはじめてからもう3時間になる。
本当に、変なキャラクターに騙されて、20万の英会話教材を買わなくて良かった。金の問題で攻撃されると、返す言葉がない。
「生活が苦しいならば、お前もパートかなんかで助けてくれよ。この家は貸家にして、向こうで、一緒に仕事探すからさ」
妻も昔は営業バリバリで働いていた。本当は仕事に復帰したいのではないかとと思ってた。
「ふざけないで。私の気持ちも知らないで。あなた一人でいって! そんな田舎なんて、私行かないから。だいたい、私は車の運転もできないし、知り合いもいないし。雪も降るんでしょ。私には無理よ。ちゃんと、生活費は今まで通りの金額になるように送って! 」
たしかに、私のような田舎者とは違い、妻は東京生まれの東京育ちだ。車の運転も出来なければ、むこうの気候や文化の違いに面食らうだろう。
「たしかに不便はかけると思う。だけどな。お前、そんなこと言っても。光輝を一人で育てられるのか? 」
あまりにも、妻の身勝手な言い方に、私も苛立ちを隠せなかった。少しはこっちの気持ちも考えろって。
「こっちは、実家のお母さんに来てもらうから。大丈夫!」
この歳になって、自分の高齢な母親に面倒を見てもらうなんて、そんなかっこ悪い真似やめろと言いたかった。いつまでたっても、親離れができないやつだ。
だが、かつてないほどのアゲインストの風が吹いている。妻は一度決めたら、絶対に折れない。結婚生活10年、それは私が一番理解している。いつも、私が我慢するしかない。いまは、私のことよりも、自分のことしか頭がまわらないのだろう。あとで、妻の気持ちが変わって家族を呼び寄せることができるかもしれない。結論を先延ばしに、単身赴任をすることを決めた。
妻は真夜中にもかかわらず、実家の母親と電話をしている。うだつの上がらない旦那の文句を言っているのだろう。
あえて、その会話を聞かないように寝室に入る。ベッドでは、光輝がなにも知らずに寝入っている。
最近では、言葉が分かるようになり、片言の単語を話すようになった。妻は私のことを「パパ、ママ」と呼ばせたいみたいだが、光輝は私のことを「とうと」、妻のことを「かあか」と呼ぶ。
なぜ、こんな可愛い子を置いて、飛ばされなければならないのだろう。なにか、私が悪いことをしたのだろうか?この子は、父親がそばにいなくて寂しい思いをするのではないか。なにかあった場合、父親である私がすぐに飛んでくることができるのだろうか?
そんなことを思いながら、光輝の栗色の髪を撫でると、辛くて辛くて涙が止まらなくなった。
「光輝、とうとのせいでごめんね。いつでも、とうとは飛んでくるからね」
何度も何度も謝った。
出向までは、あまり時間を与えられなかった。
妻は引越しの手伝いをする気もなければ、会話もなくなった。私は黙って、簡単おひとりさま引越しパックに、自分の荷物を詰め込んだ。結局、お金だけを送金し続けるATMのような、単身赴任生活を始めることになった。
何はともあれ、会社が用意したアパートの一室で、孤独な一人暮らしが始まった。
従業員50名くらいの出向先では一応役員待遇ではあったが、いかにも窓際族という単純作業ばかりであり、退屈なものだった。
ただ、久しぶりの田舎暮らしは、都会に疲れた私にとっては気楽であり新鮮だ。新任地は、山が富んでおり、水が澄みきって、美しい。
唯一の心配は、幼い光輝が寂しがっているのではないかと心配であったが、こちらから電話やLineをしているにもかかわらず、妻からの連絡はそっけのないものばかりだった。妻の性格はよく分かっている。光輝は、私一人で大丈夫だと言いたいのだろう。
一通の封書が届いた。「x財団法人 定期総会の案内状」だった。激動の時間のせいで、完全に存在を忘れていた。しかし、なぜ、出向先であるこの住所がわかったのだろうかと思った。
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