鬼人の三千歩

エリー.ファー

鬼人の三千歩

 鬼人と呼ばれた殺人鬼がいた。

 それは男であり。

 そして。

 見たままに鬼人であった。

 体中に入った入れ墨は、顔に集約する力の居所を示し、血を浴びれば赤くそまるその姿は最早人間でない。

 もう。

 鬼人すら超えていた。

 誰もが恐れたし、誰もが近づこうとはしなかった。

 もはや天災。

 そのことを誰もが知っていた。

 しかし、ある日のことだ。

 その鬼人が動かなくなった。

 何千、何万という人を殺した次の日のことである。

 動かないのだ。

 いや、正確に言えば動いてはいる。しかし、だ。歩かないのだ。

 その場から一歩も動かない。

 立ったり、座ったりはする。

 しかし、動かない。

 そのうち、こんな噂が遠くから流れ始める。なんでも、鬼人は呪いを受けたのだそうだ。

 では、どんな呪いか。

 単純である。

 三千歩。

 呪いを受けてから三千歩目で必ず死ぬのだそうだ。

 そして。

 鬼人は残り十歩で三千歩目となり。

 死ぬのだそうだ。

 それを知った村人がその鬼人に鉈を投げつけた。鬼人の右目を潰し、そのまま眼球と顔の外とを繋いだ。抉れた肉と骨が地面に落ち、そして鬼人の頬を濡らす。

 他の村人は腐った飯を投げた。鬼人はそれを避けようとしたが、やはり視界が悪いのだろう。避け切ることができずに、それを浴びた。

 もう、鬼人としての体裁を保つことはできなかったのだろう。

 鬼人はもう、ただの人間の成れの果てだった。

 噂の鬼人という存在は最早、もう、現れはしないだろうと言われた。もっと時間が経てば、あの人間が私たちの知っている鬼人であるかを証明しようがない、という意見も出た。もう、面影すらないその状況を中々信じられずにいたのである。

 それは、確か、であった。

 というか、当然。

 そうとしか言えない。

 信じようにも信じられないその状況を少しでも理解しようと、鬼人の近くに行く者は後を絶たなかった。だが、鬼人は反応しなかった。殺人衝動というものに駆られて生きていたころとは違い、もはや、なんの欲も捨て去ったかのようであった。

 どうしても。

 鬼人に見えてしまう。

 鬼人ではない、というのに。

 もう。

 人間にすらなれていないというのに。

 ほぼ。

 肉塊であるというのに。

 鬼人の周りには定期的に人が現れては罵詈雑言を浴びせる様になる。別に、鬼人に対して、身内を殺されたとかそういうことではないのだ。分かりやすい、自分の精神的な苦痛や、身体的な疲労のはけ口として使い始めたのである。

 唾を吐きかける。

 火を付ける。

 上から何か壺を落とす。

 血まみれの鬼人を見て笑う。

 そればかりである。

 それしかないのだ。

 もう。

 何もしなくなった人畜無害の存在などそれくらいしか使い道がないのである。

 ある日のことだ。

 子どもが鬼人に近づいた。

「何故、そうやって仕返しをしないの。」

 鬼人は答えない。

「怒ってもいいのに、怒らないし、どうしてそうやって我慢する。」

 鬼人は答えない。

「ずっと見ていたけれど、僕はお前に唾を吐きかける気がしないから。」

 鬼人は答えない。

「後、十歩で死んでしまうとしても、それでも、ほんの少しでも逃げた方が良いよ。やり返した方が良いよ。」

 鬼人は答えない。

「死ぬのが怖いかもしれないけど、こんな苦痛を浴びるなら勇気を出して、その十歩を使ってしまった方が良いよ。」

 鬼人は足元に落ちていた、血のこびり付いた鉈を持つと、子どもを見つめる。

「小僧、中々に面白いことを考えるだろう。わしは。」

「何が。」

「三千歩の呪いを受けてあと、十歩しか歩けないという噂を流すなど、中々考えられるものではないだろう。」

 鬼人はもう、子供の横を通って十歩以上歩いている。

 行く先には。

 夕餉の香り漂う、村がある。

 

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