第58話 憎悪の炎 6

 視界が真っ赤に染まっている。


 憎悪という感情に支配されていることは分かっていた。


 堰き止められていたものが溢れ出している。


 ずっとこうしたかった。


 ずっと人間を殺したかった。


 そんなことをしては駄目だという理性とずっと戦っていたけれど、今はそれすらもどうでもよかった。


 切り刻まれた仲間の遺体が目に焼き付いている。


 死んでからも弄ばれ続けた仲間達。


 首だけになってチューブに繋がれた少女。


 内臓の一つ一つを標本にされた少年。


 アリシャ、アレス、グレース、ケイン、ローラ、シャルロッテ、トリエラ、キリエ……


 他にも沢山の仲間達がいた。


 その一人一人が、まともな形をしていなかった。


 まともな遺体として残されているものが一体もなかった。


 脳だけ取り出されて、ホルマリンの中に浮かんでいるものすらあった。


 あれが誰なのか、トリスにも認識出来ない。


 そんな有様にされたのが許せない。


 あれだけは許せない。


 戻れなくてもいい。


 取り返しがつかなくてもいい。


 あんなものを許すぐらいなら、道を踏み外した方がマシだ。


 心を壊した方がマシだ。




 そしてトリスは自分を壊した。


 自分の意志で、自分の心を繋ぎ止めていた最後の楔を壊した。




 動くものは全て敵だった。


 それが誰かなんて認識していない。


 ただ、人間は殺す。


 全て切り刻む。


 そう決めていた。


 武装した人間は適度に切り刻み、白衣の人間は念入りに切り刻んだ。


 白衣の人間は仲間をあんな姿にした張本人達だ。


 絶対に許すつもりはなかった。


 死んだ仲間達は生きながら苦しめられることはなかったけれど、それでも生き地獄を味わって貰うつもりだった。


 そして殺して、殺して、殺し尽くした。


 最後に残っているのはセッテ・ラストリンド。


 彼だけは見逃せない。


 船の中をうろつきながら、彼の姿を探し続ける。


 出会う人間は片っ端から殺し尽くした。


 セッテを殺すまでは自分を取り戻すつもりもなかった。


 今の状態は都合がいい。


 心を壊しているお陰で、身体能力も上がっている。


 トリス自身が無意識にかけているリミッターが外れているのだ。


 亜人の身体能力は高いが、トリスの能力はその中でも群を抜いて高かった。


 しかし高すぎる能力に対して、トリスは無意識で制限をかけていたのだ。


 迂闊に力を発揮すれば、大切な仲間を壊してしまう。


 幼なじみの少女を殺してしまったあの時から、トリスは自分の力をセーブすることを意識していた。


 自身の中にあるスイッチを切り替えれば、その制限も取り払われる。


 身体にかかる負荷も無視した全力を発揮出来る。


 そうなったトリスは無敵に近い。


「………………」


 しかし今は手こずっている。


 本来ならば簡単に殺せるぐらいの相手なのに、身体が上手く動かない。


 殺せるタイミングで、どうしても動きが鈍ってしまう。


 何故だろうとぼんやり考える。


 殺す相手の顔は見えている。


 見覚えのあるものだった。


 イーグル。


 彼を護ってくれる筈の顔だった。


 しかし彼は『人間』だ。


 憎むべき人間なのだ。


 殺せという意識と、駄目だという意識が鬩ぎ合う。


 正気を失っているのに、正気を取り戻そうとしている。


 まだ取り戻す訳にはいかない。


 だから邪魔をしないで欲しい。


 セッテを殺すまでは、このままの自分でいたいのだ。


 殺したくないのに、殺したいという願いが邪魔をする。


 人間は全部殺したい。


 そんなこと、したくないのに。


 そんなことを、したくてたまらない。


 相反する気持ち。


 壊れてしまった心が、再び形を取り戻そうとしている。


「トリス!!」


「っ!?」


 幼い声が耳に届く。


 壊れた心に嫌というほど響いてくる声。


 彼が唯一護りたいと願った少女の声だった。


「イーグル、退がってっ!!」


「マーシャちゃんっ!?」


 いつの間にかトリスの背後に回り込んでいたマーシャはイーグルを蹴飛ばした。


 小さな足であっても、亜人の蹴りだ。


 何の防御も出来ないまま喰らえば、イーグルであっても後ろに飛ばされる。


 口で言ったところで退がってくれるとは思わなかったので、実力行使に出ることにした。


 そしてトリスへと反転する。


 トリスはイーグルへと攻撃するところだった。


 胴体を狙った突きは、身長の低いマーシャが相手だと肩に命中した。


「ぐっ!!」


「っ!?」


 右肩に突き刺さったナイフを受け止めるマーシャ。


 トリスを止める為にある程度の攻撃は喰らうつもりだったが、これは痛い。


 刃物で刺されるのは初めてだった。


 焼けるような痛みに、それでも耐える。


 今のトリスが味わっている心の痛みは、こんなものではないと分かっていたから。


 そしてこれこそがトリスを正気に戻す唯一の手段だと確信していたから。


 ぐらりと倒れるマーシャ。


 トリスも一緒に倒れた。


「あ……あ……」


 トリスの目に光が戻ってくる。


 傷ついたマーシャを見て、震えている。


「トリス……」


「マーシャ……ごめん……僕は……」


 絶対に護りたかった。


 絶対に傷つけたくなかった。


 それなのに、こんなにも深く傷つけてしまった。


 深々と刺さったナイフを見て震えている。


「いいんだ。正気に戻ってくれて良かった」


 マーシャはそんなトリスを抱きしめる。


 倒れたまま、自分に覆い被さっていたトリスを抱きしめた。


 右腕は動かないので、左腕だけで抱きしめた。


 震えるトリスを宥めるように抱きしめ続ける。


 銀色の瞳にはただトリスへの労りがある。


「違うよ、マーシャ。僕は本当は……」


「分かってる。でも、いいんだ。私は今のトリスが好きだからな。戻ってきてくれて良かった」


「………………」


 心を壊して、正気を失っていても、奥底の部分ではきちんと正気を保っていた。


 イーグルのことだって、本当は認識していた。


 ただ、表に出ている正気を失った自分を止められなかったのだ。


 駄目だと思っていても、狂気に支配された自分をを止めるつもりはなかった。


 セッテを殺すまでは、狂気に支配されていた方が都合がいいからだ。


 そんなトリスの思惑を見抜いていた。


 それでもマーシャはトリスを責めない。


 優しすぎるこの少年をそこまで追い込んだ相手こそを憎んだ。


「私だけが、トリスを取り戻せる。そう思ったから、こうしただけだ。後悔なんてしてないよ」


「でもっ!」


 マーシャに後悔はないのかもしれない。


 だけどトリスはそうもいかない。


 マーシャを傷つけてしまったことは一生の後悔として残る。


 一生自分を苛み続ける。


 たとえマーシャが意図的にそうしたのだとしても、トリスは自分を許せないだろう。


「いいんだ。その後悔が、その負い目が、トリスを繋ぎ止めてくれるのなら、無駄にはならない」


「………………」


「帰ろう。私達の家に」


「………………」


 マーシャがそう言うと、トリスは泣きながら首を振った。


「駄目だ。まだ帰れない」


「トリス」


「駄目なんだ、マーシャ」


「どうして?」


 血を失いすぎたことで意識が朦朧としてきたマーシャはトリスに問いかける。


 理由があるのは分かっている。


 だけど、それでもトリスを繋ぎ止めておきたかった。


 ここで手を離してしまったら、トリスは二度と戻ってこない。


 そんな気がしたから。


「ここに、みんながいる」


「え?」


「あの向こうに、アレスや、トリエラ達がいるんだ」


「な……」


「僕は彼らをあのままにはしておけない。人の形すら、保っていなかったんだ。絶対に取り戻して、きちんと弔う。そしてあいつは殺す。そう決めたんだ」


「………………」


 仲間達の遺体がここにある。


 それはマーシャにとっても心穏やかではいられない事実だった。


 人の形すら保っていない。


 それは切り刻まれて、標本にされたということだ。


「………………」


 トリスがどうしてあそこまで正気を失っていたのか、ようやく理解した。


 自制心の強いこの少年にそこまでの衝撃を与えたのだから、生半可なことではないだろうと思っていた。


 少なくとも、自分のことだけならば、トリスはここまで暴走したりはしなかっただろう。


 仲間をそんな目に遭わせられたからこそ、正気を失ったのだ。


 そしてその事実はマーシャにとっても他人事ではない。


 このままにはしておけないという意見にも賛成だ。


「私も行く。手伝う」


「駄目だ」


「行く」


「駄目だ」


「なんで……」


「今すぐ治療しないと命に関わる。急所は外しているといっても、さっきから出血量が半端じゃない」


 トリスは心配そうにマーシャの右肩を見ている。


 自分が刺した傷だ。


 本当ならナイフを抜いてしまいたいが、そうしたら出血量が更に増える。


 今すぐにきちんとした治療をしないと失血死してしまいかねない。


「……自分でやった癖に」


 マーシャがちょっぴり恨めしそうな声を出す。


 この件でトリスを責めるつもりなどなかったのだが、その所為で大事なところで置いて行かれるのは恨めしいと思ったのだ。


「ごめん……」


 ずしーん……という効果音が似合いそうなぐらい落ち込むトリス。


 これ以上責めたら自殺しかねないほどの落ち込みようだった。


「そ、それは別にいい。いいから。だから落ち着け」


 これには刺されたマーシャの方が焦ったぐらいだ。


 同時に呆れている。


 こんなに優しくて繊細なのに、怒り一つであそこまで荒れてしまう。


 何とも不安定な少年だった。


 トリスはマーシャを抱えてからイーグルの方に向き直った。


「イーグル。本当にごめんなさい」


 ぺこりと頭を下げるトリス。


 下手をすればイーグルまで殺していたことを、トリスは自覚している。


 イーグルがもう少し弱かったら、確実にそうなっていた。


 トリスは『人間』を許せないと強く感じていたから。


 本当に申し訳なさそうにしているトリスを見て、イーグルの方が居心地悪そうに頭を掻いた。


「気にするな……と言いたいところだけどな。マジで死ぬかと思ったよ」


 それも本音だった。


 自制を失ったトリスの戦闘能力は、それほどまでに凄まじいものだった。


 いつもは子供相手ということで多少の手加減はしていたつもりだが、今回はその余裕が全く無かったのだ。


 そんなことをしていたら間違いなく殺されていた。


 改めて、亜人の戦闘能力というのは恐ろしいと実感している。


 そしてそんなトリスを拉致した犯人の気持ちも理解出来た。


 確かにこれは兵器利用としての価値が高い。


 子供でこれだけの戦闘能力を発揮するのだから、大人になれば更に凄まじいものとなるだろう。


 それだけではなく、薬物などで強化すれば、更なる脅威となる筈だ。


「ごめんなさい」


「それはもういい。正気じゃなかったなら仕方ない」


「………………」


 それも違う。


 正気を失っていたことは確かだが、心の奥底ではきちんと正気だった。


 本気で止めようと思えば止められたのだ。


 マーシャを刺してしまったことで正気を取り戻したように、気持ち一つでどうにでもなったのだ。


 イーグルに対しては戻れなくて、マーシャに対しては戻れた。


 その差はただの『優先順位』によるものだろう。


 トリスにとってはマーシャが一番大切なのだ。


 だからこそ戻ってくることが出来た。

 奇しくも、マーシャの言葉が現実となったのだ。




『私がいた方がいい。そんな気がする』




 ただの勘にすぎない言葉だが、当たってしまうとなんとも複雑だった。


 マーシャがいなければ、トリスは正気を取り戻せなかっただろう。


 下手をするとトリスによる犠牲まで出ていた可能性がある。


 改めて、彼女のおねだりを聞き入れて正解だったと思った。

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