第2話 マティルダ

 目の前に迫った少年の拳を、少女が避ける。


「うっ!」


 しかし完全には避けきれず、頬にかすってしまう。


 鋭い痛みに顔を顰めながらも、少女は決して闘うことを止めない。


 生き延びる為に、闘うことはやめられない。


 諦めたら死が待っている。


 まだ死にたくなかった。


 だからこそ足掻く。


 褐色の髪の少年は泣きそうな琥珀色の目で少女を見ている。


 避けられたことに対する絶望だろう。


 少年は少女の強さをよく知っている。


 自分達の中では二番手。


 そして最強の存在とは違い、容赦というものをしてくれない。


 だから何としてでも倒してしまいたかったのだが、少女はそれでも倒しきれない。


 黒髪の少女は銀色の瞳で少年を睨む。


「うぅ……」


 自分を壊す、という意思表示の銀でもあった。


 攻撃を見切った少女は少年の懐へと入り込み、急所への一撃を見舞おうとする。


 少年は後ろに飛ぶことでそれを防ごうとし、逆に攻撃してきた少女の腕を掴んだ。


 このまま関節を決めてしまい、腕を折る。


 そうすれば少女はしばらく戦場に出てこられない。


 そうなればしばらくは闘わなくて済む。


 壊されなくて済む。


 自分が生き延びる為に、少年も必死だった。


 壊されても、最低限の治療はしてもらえる。


 しかし壊れたままだという可能性も決して低くはない。


 そのダメージを見積もって、壊れすぎないようにしてくれれば助かるのだが、少女はそんなことを考えてくれない。


 だからこそ、少年も少女の安否を気遣ったりはしなかった。


「折れろっ!!」


「させるかっ!」


 折るつもりで力を入れた少年。


 しかし少女は腕を極められたまま跳躍を行い、少年の肩に蹴りを入れた。


「あっ!」


 そこに攻撃されると力が抜けてしまう。


 拘束されたままだった腕を解放すると、少女はそのまま少年の髪を掴んで、地面へと全力で叩きつけた。


「っ!!」


「………………」


 この戦闘は少女の勝ちだった。


 それだけではない。


 少年は確実に壊された。


 手に残る嫌な感触。


 全力で地面へと叩きつけた為、頭蓋骨に罅ぐらいは入っているかもしれない。


 脳にもダメージはあるだろう。


 戦闘への復帰は絶望的かもしれない。


 しかし少女に迫る腕前のこの少年を二度と戦場に出さない為には、壊しておくのが一番確実なのだ。


 自分が生き延びる為に、そうするしかない。


 殺されるよりは、壊されるよりは、壊した方がずっとマシだ。


 少女はそう考えていた。


 その考えを否定するつもりも、恥じるつもりもなかった。


「………………」


 頭から血を流した少年を見下ろす。


 気分は良くない。


 同じ立場の子供を壊すのは、やはり気分が悪い。


 それでも、躊躇うことはないだろう。


 歓声が響く闘技場。


 それは少女への賞賛ではなく、少年が無様に負けたことへの刺激的な喝采だった。


 他者が痛めつけられることに喜びを感じる。


 その精神を心から軽蔑するが、壊した自分も同類だと思っていた。


「………………」


 ごめんなさい、と言えたらどんなに楽だろう。


 許して欲しい、と言えたらどんなに救われるだろう。


 しかし少女は何も言わない。


 許しを求めたりはしない。


 楽になろうともしない。


 そんなことは許されないと自分を戒めている。


 逃れられないのなら、せめて憎まれる。


 自分は憎まれるだけの悪者でいい。


 それは少女が仲間を壊すにあたって、自分自身で定めたことでもある。


 少女は壊してしまった少年にもう一度だけ目を向けて、そのまま踵を返した。


 いつまでもここにいたら、次の戦いが始まらない。



 奴隷闘士の控え室に戻ると、一人の少年が少女を見ていた。


 同じく亜人の子供だった。


 見た目の年齢は少女と変わらない、七、八歳ぐらいだった。


 しかし外見に似合わない大人びた表情をする子供でもある。


 少女と同じ黒髪だが、その瞳は銀色ではなく紫水晶のような色だった。


「マティルダ」


「………………」


 マティルダと呼ばれた少女は鬱陶しそうな目を少年に向ける。


 自分と近い、狼の因子を持つ少年だった。


 しかし尻尾は少年の方がかなり大きい。


 マティルダの尻尾は真っ黒なふさふさだが、少年の尻尾は先端だけ純白になっている。


 そしてマティルダのそれよりも二回りほど大きかった。


 抱きつけるぐらいに大きな尻尾は、触ればさぞかし気持ちがいいだろう。


「トリス。私は疲れている。用が無いなら話しかけるな」


「また、壊したね」


「………………」


 トリスと呼ばれた少年は痛ましそうな目をマティルダに向ける。


 それは明らかにマティルダを責めるものだった。


「君は強い。壊さなくても、アレスを倒す方法はあった筈なのに」


 アレスというのはマティルダが先ほどまで闘っていた褐色の髪の少年だった。


 マティルダが壊してしまった少年。


 もう二度と、戦場には出てこないかもしれない。


 もちろん、マティルダは分かっていて壊した。


 壊された子供は、殺される。


 奴隷を養う義務など、人間には無いからだ。


 本当は研究機関へと回されて解剖されるのだが、トリスもマティルダもそんなことは知らされていない。


 ただ、殺されるのだということを理解しているだけだ。


「それがどうした。これは殺し合いなんだぞ」


「殺すことを強制されている訳じゃないだろう」


「禁止されてもいない」


「だからといって、仲間を殺すのか」


「殺してない。壊しただけだ」


「殺されることが分かっていてそうしているのなら、同じことだろう」


「それがどうした」


「………………」


「アレスは私のことも壊そうとした」


「………………」


「お互い様だ。これは、強制されていないだけで、所詮は殺し合いなんだ」


「だけど、壊さないことも出来る筈だ」


「最強のトリスさんはお優しいことだな」


「……マティルダ」


 トリスは奴隷闘士の中でも最強だった。


 戦闘になれば必ず勝利する。


 それだけではない。


 相手を決して壊さないのだ。


 つまり、壊さないだけの余裕がある。


 マティルダはトリスに次ぐ二番手の戦力だが、彼と闘う時はいつも以上に気を引き締めることになる。


 しかしある意味で楽だとも思っている。


 彼は決して相手を壊さない。


 自分が傷つくことになっても、相手をきちんと無力化する。


 それだけのことが出来る実力を持っているのだ。


 だからこそ、マティルダがどれだけトリスを壊そうとしても、自分が壊されることはないだろうと安心していられる。


 トリスと闘うことになる他の子供達も同じ気持ちだろう。


 トリスとの対戦の日は、どこか安心した表情なのだ。


 トリスは、自分に出来る方法で彼らを守っている。


 しかしマティルダにはそれが腹立たしかった。


 守ると言っても、所詮は現状維持だ。


 その力をもっと別の方向に使えば、自分を助けることも出来るかもしれない。


 それをせずに、トリスは仲間を助けようとしている。


 優しい人だと思う。


 きっとそれは、地獄にいる自分達にとって、数少ない救いとなっていることは確かだろう。


 マティルダも、そんなトリスに救われたことが無いとは言わない。


 それでも、これは現状維持なのだ。


 地獄は続く。


 安心はまやかし。


 結局のところ、この状況は変わらない。


 つまり、実質的には何も救われていない。


「私は、諦めるつもりなんてない。いつか絶対にこの地獄から抜け出してみせる。それがどれほど無謀であっても、ただ死ぬ為に生きるなんてことをするつもりはないからな」


「………………」


「お前はどうなんだ、トリス。諦めなくてもいいだけの力を持っている癖に、結局は現状維持以上のことは出来ていないじゃないか。私は諦めるつもりなんてないけれど、それでもこの状況が続くなら死んだ方がマシだと考える奴だっている筈だ。お前はそんな奴の地獄を長引かせているだけなんじゃないか?」


「それは……」


 死んだ方がマシ。


 そう考える仲間が居ないとは、トリスにも言えない。


 だけどそれでも、トリスは仲間を死なせたくはなかった。


 生きていれば、いつかは状況が変わるかもしれない。


 その時を逃さずに行動を起こせば、みんなを救うことだって出来るかもしれない。


 トリスはそう考えている。


 しかしそれは、結局のところ、自分から行動を起こしていない、他人任せ、運命任せなだけなのだ。


 マティルダにはそれが気に入らなかった。


 力があるからこそ、もっと無謀な賭けに出るべきなのだ。


 自分以上の力を持っている癖に、どこかで諦めているトリスのことが、マティルダは大嫌いだった。


「話がそれだけならもう消えろ。私はお前が嫌いだ。話しかけられるだけで気分が悪い」


「……ごめん」


 酷いことを言っているのに、トリスは謝るだけだった。


 そこも気に入らない。


 何かを言い返せばいいのに、と思う。


 優しい人だと言えばそれまでだが、それは踏み込もうとしない臆病さでもあるのだ。


 マティルダは腹立たしげに舌打ちをして、そのまま立ち上がった。


 そしてトリスから背を向けて歩き出す。


 次の戦いの為にトリスの動きを観察して、参考にするつもりだったが、その気は失せてしまった。


 彼の戦い方は勉強になるし、それを参考にしたことで自分の力にしてきたことも事実だ。


 しかし今はトリスを見ているだけでも気分が悪い。


 だからそのまま立ち去った。


「マティルダ……僕は……」


 一人残されたトリスは辛そうに俯く。


 何も言い返せないことが悲しかった。


 何かを言わなければならないのに、自分ではマティルダのことを何も変えられない、何も救えないのだと思い知っているからこそ、辛かった。


 そして仲間を壊すという酷いことをしていても、自分だけは諦めないという姿勢を貫いているマティルダのことを、眩しく思っていた。


 自分には持てなかった意志の強さ。


 それを彼女はまだ持ち続けている。


 きっと最期まで持ち続けるのだろう。


 その在り方が、少しだけ羨ましい。


 何も変えられない自分とは違い、マティルダはいつか自分の運命をも変えてしまうかもしれない。


 出来ればみんなを救って欲しいと思う。


 それは出来ないと分かっているからこそ、自分だけを救おうとしているのだろう。


 そのことに心を痛めていない訳ではない。


 ただ、出来ないことを出来ないと割り切っているだけなのだ。


 出来ないことで足掻くよりも、出来るかもしれないことを確実に。


 そんな風に考えているのだろう。


 そして自分は出来ることをしているつもりでも、何も変わらないことを理解している。


 何も変わらない、どこにも進めない。


 地獄が続くと分かっていても、それでも出来るだけ仲間を死なせないようにしているだけなのだ。


「……僕には、何も変えられないのかな」


 変えたいと強く願っている。


 それでも、変えられないと諦めている。


「僕にマティルダを責める資格なんて、無い。だけど、僕は……」


 どうすればいいのだろう。


 どうすれば、みんなを救えるのだろう。


 答えが分からないまま、トリスは足掻き続ける。


 闘技場へと一歩踏み出して、仲間との戦いが始まる。


「今日はトリスなんだな。安心したよ」


「うん……」


 トリスの顔を見た仲間がほっとした表情になる。


 勝てないと分かっていても、壊されることはないと知っているからだ。


 そして勝てないと諦めてもいる。


 この状況を変えられないと、諦めている。


 だからマシな道にほっとしてしまうのだ。


 もどかしいと思う。


 だけど、自分も同じなのだ。


 諦めつつも、トリスは戦い始める。


 この地獄はいつまで続くのだろう……。


 いつまでも、続くのだろうか……。

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