神が死んだ夜
りゅう
第1話
「そこから落ちれば、死にますよ」
東京の端に位置する、山の一角。森を全て覆い隠す様な闇に紛れ、月光さえも届かない木々の中。周りの微かに聞こえる虫や鳥の鳴き声を抑え、声を発したのは背丈の小さな人間らしき影であった。影は淡々とした口調で話し続ける。
「飛び降り地点から衝突予想地点までを視野に入れ計算すると、6割の確率で死にます。残りの3割が全身複雑骨折、1割の確率で軽傷で済むでしょう」
声をかけられた男性は、視線を影から自らの足元へ向けた。男の前方には道どころか、地面さえない。いわば崖っぷちという所に男は居るのだ。
「……止めても無駄だ。俺はもう、全て終わりにしたいんだ」
男は絞り出す様に声を出すと一歩、また一歩と目の前の『死』に歩を進めた。よろよろと千鳥足で頼りない歩き方に、彼が精神的にも肉体的にも弱っていることがわかる。
「なぜ、死ぬのですか」
「……だから、もう俺に関わるな!死なせてくれよ!」
男は語末を荒め、近くにあった小石を蹴り上げる。コロコロと転がった石は影の近くにある岩場に硬い音を立ててぶつかっていった。
しかし、派手な音にも気を取られず小さな気配が段々とこちらに近づいてくるのがわかった。ゆっくりと、しかし確実にこちらに歩み寄ってくる。
「
不意に枯れ始めた葉の間から月光が、差し込んだ。月明かりは、まるでその影のことを舞台上の役者であるかの如く眩しいほどの光を全身に隈なく当てた。
影の正体は黒髪に黒の瞳、そして今時珍しい黒の浴衣、と黒づくしの衣服を身に纏っている少年であった。
「それならば間に合っていますよ」
「人身御供……?」
「あなた以外にもそこから何人も飛び降り、自ら肉塊に変わり果てましたので」
少年は悲しむ表情一つすら見せずに、ヒタヒタと奇妙な足音をたて、近づいてくる。裸足の小さな汚れた足は、靴を忘れてきたのだろうか。全身黒で覆われていると言うのに、足だけなにも履いていなかった。
「……そりゃあ、そうだろ。なぜならここは、自殺の名所だからな」
飛び降りたそいつらと同じく滝壺の餌になる為、片道二時間掛けてここまで来たのだ。そう言うと少年は不思議そうに、顎に青白い手を置き、首を傾げた。
口を閉じ辺りに耳をすますと、滝の叩きつける様な地響きにも近い轟音が響いている。それもそのはず、この崖の真下にはもう一段崖になっている所があり、そこから大きな滝が出ているのだ。滝の高さは八十メートル、ここからの高さも合わせると百メートルは超えるだろう。
滝が疾風怒濤の勢いで永続的に出続け、崖から見える景色も眼を見張るものがある為、人気を集めているのだ。もちろん、自殺者のみだが。
あの滝壺の中には何人の先客達が落ちていったのだろう。そう考えると、背筋に冷たいものが走った。
「ここで死んでほしくないのですが」
ボンヤリとしていた意識が覚醒し、目の前に少年の顔がある事に気付いた。驚愕し、兎が跳ねる様に背後へ足を滑らす。気配も何も感じなかったことへの驚きか、それとも子供の無邪気さがまるでない瞳を至近距離で覗き込んだからか。
すると少年のマントと革靴の靴紐が引っかかってしまい、ドリフのコントの様な格好で仰向けの姿勢のまま転んでしまった。身を守ろうと、咄嗟に頭を抱える。
しかし、来るべきであろう背中の衝撃はいつまで経っても来なかった。硬い岸壁の衝撃が背中を打ち付けるはずだが、感じるのはいつまで体に負荷をかける重力のみ。
その瞬間、先ほどまで回らなかった頭は急速に答えをひねり出した。
────自分は崖から落ちたのだ、と。
地面に足をつけ立っている感覚とは違く、あまりも全てにおいて不安定な空中。頼るものも何もないその不安定さは、自分の心までグラグラと揺らしてくる。
あぁ、死にたくない。死にたくなかった。幸せになりたかった。生きていたかった。
あぁ、死ねてよかった。死にたかった。幸せになれなかった。もう苦しまないで済むのだ。
相反する思いは落下中の脳内を 我こそは、我こそはと、思考能力ごと取り合っている。死ぬ直前ぐらい、何も考えずに綺麗に死にたかったのだが。
「ダメですよ、死なせません」
不意にガシリ、と足首を掴まれた。自分の足首をギリギリ回る程の小さな手が、力強く自分の身体を支えているのがわかる。服の上からでもわかる冷んやりと冷たく、頼りなさげな その掌が自分を死から生へ引っ張る唯一の糸になっていた。
少年は子供とは思えぬ力で、まるで円盤投げの様に自分を投げ飛ばす。遠心力に従い、崖近くの雑木林に頭から突っ込んでしまった。
様々な種類の草木が自分自身を受け止めてくれたが、その代償としてかチクチクと小枝が全身に刺さる。
「今宵は新月。ようやく周りの星々が見え始める、貴重な夜です。貴方が死ねば、また人工の光により夜空が上塗りされてしまう」
少年は無骨な表情で、声変わりをしていない成人男性より二オクターブ高い声で吐き捨てる。
「飛び降りるのなら、夜が明けるまで待ってください」
「……俺には死ぬ資格もないってか」
「止めるつもりはありません。夜明けまでの間、晩酌には付き合いますのでどうかご容赦を」
少年はニコリ、とぎこちない笑みを浮かべた。
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