その日、いつものように素直が午後の時間に、路地の日陰の場所に、コンクリートの壁を背にしながら、道路の上に座り込んで、そこでお気に入りの動物図鑑を読んでいるとき、「おい」とどこからか声をかけられた。

 素直はすごく驚いて(なにしろ、この路地で人の姿を見たことは今までに一度もないことだったからだ)、すぐに図鑑から顔を上げて、その場に立ち上がってから、周囲をきょろきょろと見渡したのだけど、でもどこにも、先ほどの『声を出した人間の姿』を、素直は見つけることができなかった。

 ……今の声はいったいなんだったんだろう?

 素直は首をひねった。

 それから素直はまた、動物図鑑の続きを読もうとして、(ページはちょうど、素直の大好きなアフリカの動物たちを紹介しているページだった)また道路の上に座り込んで、指で押さえていた図鑑のページを開いた。

 するとまた「おい、無視するな」と声が聞こえた。

 それはまちがいなく、さっき聞こえた声とまったく同じ声音の声だった。

 素直はすごくびっくりした。

 素直は先ほどと同じように、図鑑から顔を上げて、その場に立ち上がって周囲をきょろきょろと見渡したのだけど、でもやはり、行き止まりの小さな忘れられた路地のどこにも、素直以外の人間の姿を見つけることはできなかった。

 それでも今度は、自分の聞き間違いということはないと思った素直は注意深く路地の周囲を見渡した。

 もしかしたら、『どこかの草陰に小人のような人間でも隠れているのかもしれない』と、素直はそんな空想的なことを頭の中でぼんやりと考えていた。

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