何から話そうか

水野ヨウヘイ

何から話そうか

 まだあと半分もある。手元には、書きかけの書類を挟んだクリアファイルと英語論文が二報、筆記用具、それから眠気覚ましの缶コーヒー。窓から差し込む五月の陽は暖かく、睡魔は容赦なく目蓋を閉ざそうとする。

 毎週火曜日の午前中は、研究室のゼミがある日だ。私が所属する応用微生物学研究室のゼミは、毎週一人が当番となり、世界中で毎日のように投稿されている研究論文の中から二報を紹介するという形式だ。今日の当番は四年生の小林さんで、サーカディアンリズムに関する論文を紹介している。彼女の、一重であることを感じさせない丸く大きな目と、日本人形チックに切りそろえられた前髪を交互に見つめては、時折り、視界の隅の壁掛け時計に目をやる。只今、十時半。まだあと、半分もある。

 

 私がこの研究室に入ったのは一年前。地元の大学に四年間通い、その後、この大学の修士課程へ外部進学をした。卒業後は教師になるつもりで、他人より余分に修学に励めば、より面白い授業ができるようになるだろうと思ってのことだった。しかし、春先にはさくらんぼの如くつやつやでハツラツとしていた私のやる気も、秋口にはからからに干からびていた。

 私と同期で、内部からのネイティヴな進学者である野田君は変態的天才だった。野田君は実験が巧く、あらゆる面で私より優秀であった。そして、私の実験の先生である一つ上の学年の丸地さんもまた大変優秀で、且つ、大変厳しくご指導くださるお方だった。ごく偶に居酒屋に連れて行ってくれたりはしたが、飴と鞭というより、飴とアイアン・メイデンという方が適切だった気がする。丸地さんの新兵訓練的ご指導を賜るたび、私は緊張のためミスを頻発し、新兵訓練的愛のお言葉を頂戴した。

「まだこんな事も出来ないの!?」

「きみの実験が終わるのを待っていたら、いつ帰れるか分かったもんじゃないね。」

「バーカ!」

愛されすぎて涙が出る。しかして私の実験は遅々として進まず、丸地さんはストレスを溜め溜めし、我がやる気は磨耗した。

 「きみは勉学面は優秀だけど、精神的に弱いのがいけないね。来年度からはきみと野田君が最高学年なんだから、もちっとしっかりしたまえ。」

卒業の日、丸地さんは私にこう言った。鬼軍曹は、最後まで新兵を気にかけてくれていたのだ。

 

 その一ヶ月後、つまりは先月、小林さんがこの研究室に入ってきた。そして何を考えたのか、教授は私を彼女の実験の先生に任命した。言うまでもなく私に進級の意思はないため、今年は就職活動をしなくてはならない。よもや教授は、研究の進まない私は卒業できず、延いては就職活動も必要ないと考えたのではあるまいか。 

「先輩は教え方が上手ですね。とても分かりやすいです。」

隣で大腸菌の形質転換実験を行う小林さんに、以前そう言われたことがある。

「ちゃんと実験するには原理から理解してないとダメかなって思って、勉強したことがあったから。あと一応、教員免許持ちなので…中学の理科だけど。」

「そうなんですね!じゃあ、卒業したら先生になるんですか? なんか似合いそうですね、先生。」

にこやかに話しかけてくれる彼女に、そこから先の言葉をうまく返すことが出来なかった。

 

 

 私は何をして生きていくのだろう。

 確か、一年前は、教員になるために進学したのではなかったか。それが今ではどうだ。自分の不甲斐なさに呆れ、周りの優秀さを体の良い言い訳にして、目標を見失っている。私は何をしたいのだろう。ほかの皆は何をして生きていくのだろう。野田君は博士課程に進み、高名な学者さんになるのだろうなあ。小林さんは、どうするのだろうか。

「私は、楽しいものになるんです。」

彼女が言う。

「楽しいと思うことで生きていくんです。今は微生物の研究が楽しいから、とことんやりぬきますよ!そのままのめり込んで行けば研究者になるでしょうね。或いは、全然違う分野に没入するかもしれません。」

聞きながら、つまりは明確に決めた進路はないということかと思った。しかし、彼女の言葉には強い意志が感じられる気がした。自分の好きなものを、堂々と口にできる彼女を、私は少し眩しくおもった。

「小林さんなら何をしても一流になれそうだ。」

「そうですか?ありがとうございます!

 でも、『私はまだ何者でもない。だから、何にでもなれる。』ですよ。」

誰の言葉だったかと思案していると、ポカリスエットだと彼女が言う。なるほど、清涼飲料のクセにちょっぴり良いことを言う。

「何にでも、か。まるで役者のようだ。」

「役者さんか…それもいいですねえ。

そういえば、先輩は先生になりたいんでしたよね。きっかけは何だったんですか?」

尋ねられ、一瞬、返答に詰まる。思い返されるのは、夕焼け。向かい合わせの机。触れられそうなほど近い、嬉しそうな顔。

「えっと…高校生の頃、知人に勉強を教えていた時、教えるのが上手いと褒めてもらえたんだ。それが嬉しかったから、かな。」

正直に答える。その程度なのだ。特に深い理由や、崇高な志があったわけではない。他人から与えられる褒賞に心地よさを感じただけだ。

「いいじゃないですか。素敵な理由ですよ。伝えたいことが伝わったこと、伝えた相手が喜んでくれたこと。それが嬉しかったんですよね?

やっぱり先輩は、向いてますよ。優しい先生になれます。」

そう言って微笑む彼女に、ありがとうと伝えるのがやっとだった。

 

 

 「先輩…。先輩。」

声がする。顔を上げると、付箋だらけの英語論文を抱えた小林さんが立っていた。十二時。ゼミが終わったところだ。

「先輩が居眠りするなんて珍しいですね。」

「僕の体内時計が今は寝る時だと告げていて…。」

「『テーマは』聞いてたんですね。」

小林さんがいたずらっぽく笑うので、急に気恥ずかしくなってしまう。

「ごめんね…あまりに慣れた感じの発表だったから、安心してうとうとしてしまいました。」

「本当ですか!?本当はとっても緊張していて、爆発寸前だったんです。巧く出来てたならよかったです。」

流石は役者さんだ。声となって口を出る。彼女が目を丸くする。

「どうして私の夢のこと知ってるんですか!?」

返答に詰まっていると、小林さんは私のファイルの中身に目をつけ、言葉を続ける。

「先輩は、やっぱり先生になるんですか?」

ファイルには、書きかけの教員採用試験の申込用紙が入っていた。いま提出するのなら、なんとか期限には間に合う時期だ。

「そういえば、先輩はどうして先生になりたいと思ったんですか?」

彼女が私に尋ねる。

さて。何から話そうか。

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