第十幕 ②
未来が風呂から上がると、リビングのソファに洋司はいなかった。姿を探して彼の部屋のドアを開けてみる。ベッドの明かりを付けたまま、洋司は横になって眠っていた。
そっと部屋に入って、ベッドの側に立つ。その寝顔を見て、自分のために時間を作ってくれたんだ、と改めて思う。ワインのせいか、うっすらと顔が紅潮していた。未来は、足下の布団を引き上げて、そっと洋司の体に掛けた。
「洋ちゃん、ありがとう」
小さく言って、枕元の明かりに手を伸ばす。カチ、カチとスイッチを押さえ、電気を消した。そのまま立ち去ろうとして不意に手を掴まれ、バランスを崩すように、ベッドに倒れ込む。耳元で、洋司の吐息がした。
「起きてたの?」
うん、と言いながら、洋司は未来の体に手を回してきた。
「今、起きた。未来を待ってたから」
洋司の息が首元にかかり、ドクン、と心臓が跳ね上がった。そのままどくどくと早鐘のように打ち続ける。
「あ、の…」
言葉が続かない。心臓が口から飛び出しそうだ。未来は目を瞑って、洋司の手を掴んだ。その手が震える。
「未来、落ち着いて」
未来を横たえ、洋司は上から見下ろした。そして、ベッドサイドに手を伸ばして、明かりをつける。
「…未来に無理強いしたりしないから、落ち着いて」
「洋ちゃん…」
未来は目を開けて、洋司の顔を見つめた。
洋司の優しい眼差しが未来を見下ろしている。この人に嘘はつけない、この人を騙すようなことはしたくないと、その優しい瞳を見て心から思った。
「洋ちゃん、聞いてほしいことがあるの」
未来は、洋司を手で優しく押しのけるようにして、起き上がった。伸ばした足を引き寄せる。
「あのね、私…」
未来は深く息を吸って、呼吸を整えた。洋司から目を逸らさないように、意識する。
「私、クラスに好きな男の子がいるの」
「え?」
洋司が驚いたように目を見張った。
「好きになっちゃいけない、と思ってたけど、止められなかった。洋ちゃんを裏切っているみたいで、ずっと苦しかったの。…ごめんなさい」
「それは、僕と、別れたいってこと?」
苦しくて、未来は洋司の顔を見続けられなかった。ベッドに視線を下ろす。未来の視界の端で、洋司がベッドを降りて立ち上がった。
沈黙が二人の間を支配する。
やがて、震える声で洋司が言った。
「…僕は、僕には、」
未来は顔を上げた。悲痛な表情を浮かべた洋司の顔が目に入る。
「未来だけなんだ。未来を幸せにすることだけが…」
「私、洋ちゃんと一緒で幸せだったよ。本当に幸せだった。嘘じゃないよ。洋ちゃんは私の家族で、大切な家族で、私、洋ちゃんのことも失いたくなよ…」
ほろり、と涙が頬を落ちていった。
「未来…」
失いたくない───この気持ちに嘘はない。
「洋ちゃんも、大事なの」
洋司は未来に手を伸ばし、逡巡してから、未来を自分に引き寄せた。
「未来、僕も未来を失いたくない」
未来に回された洋司の手が震えている。未来は洋司の背中に手を回し、その胸で泣いた。どう決着をつければいいか分からず、泣いた。
「…洋ちゃん、ごめんなさい」
(侑歩君、ごめんなさい。本当のことを言えなくて、ごめんなさい)
「未来…」
少し前の自分だったなら、洋司を受け入れられただろう。そのまま、彼の奥さんになれたはずだ。もともと、彼に好意を寄せていたのだから。未来に戸惑いはあっても、彼を拒むことはなかっただろう。
体が二つあればいいのに。自分が二人いればいいのに。
未来は二つの相反する想いの中で、自分が分裂していくような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます