第3話 水曜日/僕とあの子の秘密基地

夕日で赤く染まった秘密基地の6畳間。

室内には僕1人。

でも目の前に楽々浦さんが座っているつもりになって、心の中で語りかける。


楽々浦さん、昨日の体育の時間のあれはどういうつもりだったんだい。

Y田君に、背中とはいえ体を触らせるなんて。

君は異性の親しい友達が多いけど、僕が親しくしてる女子は君だけなんだよ?

君以外の女子から話しかけられても、なるべくそっけなくしてるんだよ?

なのに、僕の目の前で他の男と笑い合うなんてひどいじゃないか。

『ごめんね、伊織』

前から思ってたけど、Y田君と仲良くしすぎだよ。

やめてよ。

あいつとはもう一切口きかないでよ。

避けてよ。

僕には君しかしないんだよ。

君だけは僕を見てよ。

『私は伊織を見てるよ』

そうだよ、僕には君がいる。

あの日から―


中学1年生の初夏。

中学に入って初めての定期テストが終わった日。

早帰りして自宅のマンションに帰ったら、見覚えのない男物の靴が玄関にあった。

お客さんかと思って静かにリビングを覗いたら、母親と、知らない男の人。

不倫相手だと一目でわかった。

だってその時の2人は―。

きっと母は、僕がテスト最終日は早く帰宅することを忘れていたのだろう。

僕はその場を静かに離れて家を出た。

そして、本屋やコーヒーショップで時間を潰して、夕方になってから再度家に帰った。


その日の夜は眠れなかった。

だから

どうせ眠れないから

どうせ母の不倫を見てしまったのだから

いっそのこと、と父の携帯を見たのだ。


熟睡している父の枕元から、僕の部屋に携帯を持ってきた。

ほんの数か月前、まだ小学生だった僕には何もわからないだろうと、父は僕の目の前で無防備に携帯を操作していた。

なんとなく視界に映って、なんとなく覚えていた父の携帯のロック解除番号をプッシュして、メッセージのやり取りにざっと目を通す。

母以外の女の人との恋人同士のようなやり取り。

父の携帯を元の場所に戻してから自分のベットで丸まった。

なんとなく分かっていた。

分かっていたじゃないか。

そもそも、不倫なんて夫婦同士の問題であって、僕には関係無い。

離婚話になったら、どちらに引き取られるか考えなきゃいけないけど、それまでは僕とは無関係だよ。

そうだよ。

2人で勝手にやってろよ。

僕には関係無い。

関係無いはずなのに。

なぜか眠れない。

なぜ。


数日後。

テストの上位得点者の名前と点数が貼り出されていた。

寝不足で霞む目で中等部1年の順位を見ると、『1位 釈氏(きくち) 伊織』と自分の名前を見つけた。

そうか、僕が1位か。

嬉しいんだか嬉しくないんだかよく分からない。

感情の動きがあまりに小さくて。

なんとなく自分の隣の名前も見る。

『2位 楽々浦(ささうら) さやか』

へえ。

自分の名前を見た時よりは感情が動いた。

楽々浦さやか。

同じクラスの男子みたいな女子生徒。

サッカーでちょっとした有名人だと、クラスの友達が以前言っていた。

あの子、勉強もできるのか。

そんなことを考えていると、後ろからポンポンと肩を叩かれた。

「?」

クルリと振り向くと、不満そうに頬を膨らませている楽々浦さんがいた。

初めて間近で彼女の顔を見た。くりくりとした目が幼げで素直そうだと思ったことを覚えている。

「…何だい?」

「…次は負けねーぞ」

「…」

何て答えればいいんだろう。

「次は負けねーったら!」

「あ、うん…」

何と答えればいいか分からず、とりあえずうなづくと楽々浦さんは駆け足で行ってしまった。

なんなんだあの子。

主席を僕に取られて悔しいのは予想できたけど、女子から「次は負けねーぞ」なんて言い方されるとは予想外だった。

はじまりはこれだけだった。


その日の夜。

両親に僕が主席だったことを伝えたが、返ってきた反応は『あぁ、そう』これだけだった。

ベットに転がって考える。

実の両親が、クラスメイトの女子よりリアクションが薄いって、どういうことだよ。

僕に興味が無いのか。

そういうことなのか。

…楽々浦さん。

彼女はライバル心だろうが敵意だろうが僕に興味を持ってくれている。

少なくとも両親よりは。

そう考えると、だんだん両親に対して不満らしきものが湧いてきた。

その不満はうっすらと、でも広く、心に広がっていく。

そうだ、僕は不快だったんだ。

両親が2人揃って家庭を、僕を、顧みてくれないことが、ちょっぴり不快だったんだ。

僕のことをちゃんと見て、僕のことをしっかり考えて、僕をきちんと愛してほしかった。

不倫相手を愛する余裕があるなら、その愛全てとは言わないから、何割かは僕に注いでほしかった。

だから進学校で学年主席になれるように頑張ったのに、両親は僕を見てくれない。

だったらもう他の人に僕を見てもらう。

自分でもわかっている。

多分楽々浦さんじゃなくても良かった。

僕のことを純粋に尊敬してくれるふんわりした女の子でも。

僕のことをアクセサリー代わりにする性悪な女子でも。

僕を家庭教師として利用する気の男子生徒ですら良かったかもしれない。

とにかく僕には心の拠り所が必要だった。

依存できる人間が必要だった。

世界で1人だけでいいから、僕のことをちゃんと見てくれる人が必要だった。

そして彼女は、僕の精神が弱っているタイミングで、僕に刺激と活力を与えてくれた。

ほんのり悪臭のする濁った水でできたシャボン玉に、全身をすっぽりと包まれているような、ぼんやりとした不快な気持ち。

楽々浦さんの僕に対するライバル心のトゲが、その汚いシャボン玉を割ってくれた気がした。


ハッと目覚める。

いつの間にかうたた寝していた。

部屋に差し込んでいた夕日もすでに沈みかけている。

でもその暗さのおかげで、室内の薄暗がりの中に楽々浦さんの人影が見える気がする。

僕は改めて彼女に愛を囁く。


始めは誰でもよかったけど、今は君一筋だよ

『うれしい、ありがとう』

入学した頃は男の子みたいだったけど、髪が伸びて女の子らしくなったね

『うれしい、ありがとう』

すごく可愛くなったよ

『うれしい、ありがとう』

君は僕のことを見てくれる?

『もちろんだよ』

僕のこと、好き?

『大好き』

実はね、昨日また両親が―

部屋はどんどん暗くなっていく。

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