女狐の罠?

 執事の案内で連れていかれた部屋には、もうかなりの人数が集まっていた。

 婦人会主催の夜会との事だったが、どうやら今日の主な参加者は女性だけでは無く比較的若い男女のようだ。しかし、人数で言えば女性の方が圧倒的に多い。

 彼らが広間に入った途端、一瞬ざわめきが止み、ほぼ全員が二人を注視していた。すぐに会場の騒めきは戻ったが、どうにも密やかな視線を感じてしまい落ち着かないレイとカウリだった。




「まあまあ、カウリ様。レイルズ様。ようこそお越しくださいました。どうぞ、楽しんで行ってくださいね」

 笑顔のミレー夫人の出迎えに、レイとカウリはそれぞれ笑顔で挨拶を交わした。



「今夜は、ダンスのお相手をお願いしたいお嬢様方が沢山お越しですわ。どうぞ、出来るだけ踊って差し上げて下さいね」

 着飾ったご婦人方に混じって、若い女性が大勢こちらを見ているのが見えて、二人揃って気が遠くなるのだった。

「おいおい、ルークの奴、絶対これが分かってて俺達だけ寄越したな」

 カウリの呟きに、レイも困ったように眉を寄せた。

「うわあ、大丈夫かな、僕」

「多分、彼女らの主な目的はお前だと思うぞ。気をしっかり持てよ」

 完全に逃げ腰のカウリの言葉に、レイはため息を吐いた。

「うう、無理です。ああ、どうしよう。今日は絶対に誰かの足を踏みそうです」

 あまりの情けない声に、カウリだけでなく、隣で聞いていたミレー夫人までが堪えきれずに小さく吹き出す。

「まあまあ、そんなに心配なさるものではありませんわ。褒められた事ではありませんが、お相手の方の足を踏んだ事が無い男性などおりませんわよ。そうですね。コツを教えて差し上げるとしたら、踊る際に出来るだけ足を上げずに床を擦るようにして足を運ぶと、お相手の足は踏みにくいですわね。多少ステップが遅れがちになりますので、それだけはご注意を」




 楽団員達が音楽を奏で始める。

「最初は主催者とだな。ミレー夫人はお前が行けよ。俺はイプリー夫人にお願いするからな」

「分かりました」

 顔を見合わせて無言で頷き合う。ここからはお互いの助けは期待出来ない。ルークもいない今日は、何があっても自力でなんとかしなければならないのだ。



「一曲お相手願えますでしょうか?」

 差し出した右手を、ミレー夫人は笑って取ってくれた。

 そのまま広間の真ん中へ出て行く。カウリも、イプリー夫人の手を取って出てくるのが見えた。

 向かい合うと、ミレー夫人はレイとは頭一つ分は確実に背が違う。

 少し屈むようにして、しっかりと抱きとめてゆっくりと踊り始めた。



「まあ、お上手ですこと」

 胸元から、からかうような声が聞こえて、レイはまた困ったように眉を寄せた。こうすると、妙に子供っぽい愛嬌のある顔になるのだが本人は気が付いていない。

「もう、足を踏まないようにするのに必死なんです。あまりからかわないでください」

 胸元で小さく吹き出す声がして、レイは下を向く。

 自分を見上げて目を輝かせているミレー夫人と、ごく近くでまともに目が合ってしまい、レイは慌てて顔を上げる。

 胸元から、また夫人の笑う声が聞こえた。



 何とか足を踏む事もなく、無事に踊り終える事が出来た。

 しかし、ここからはもう嵐のような時間だった。

「では、次はモティア嬢と踊って差し上げてくださいな」

 ミレー夫人は当然のように、レイの右手をすぐ近くに来ていた金髪の若い女性に渡した。

 前回の夜会の時にも挨拶をした伯爵家のお嬢さんだ。

 ニコスのシルフに教えてもらい、簡単に挨拶を交わしてそのまま次の曲を踊った。すると、そのまま次から次へと手が渡されてしまい。立て続けに何曲もダンスを踊る羽目になった。



 ようやく主だったお嬢さん方とのダンスが終わる頃には、レイの腕や背中は緊張のあまりカチカチになってしまっていた。

「ちょっと、失礼します」

 音楽が途切れたタイミングで、逃げるように手洗いに立った。



「はあ、もうどうしよう……」

 手洗いから出て来たところで、大きなため息を吐いて壁にもたれかかった。

「どうぞ、少しでもお座りください」

 以前と同じ執事が小さな椅子を用意してくれている。

「あ、ありがとうございます」

 お礼を言って座らせてもらう。

 もう一度、大きなため息を吐いて壁にもたれて天井を見上げた。

 ダンスを踊っている間に、何人もの女性達から言われたのだ。今度、是非主催するお茶会にお越しください、と。

 一応、その場で返事はしないように教えられている。誰から誘われたのか、後でルークとラスティに報告しなければならないのだが、もう既に誰から誘われたのかレイはさっぱり覚えていない。ニコスのシルフがいてくれて良かったと、心の底から感謝した。

「どうぞ、冷たいカナエ草のお茶でございます」

 そっと机に置かれたのは、前回と同じような鶏ハムが挟まれた小さなパンだ。

 お礼を言って、これも摘んで口に入れ、合間に冷たいお茶を飲んだ。

 もう一杯お茶をもらい、一気に飲み干す。

「ありがとうございました。行ってきます」

 あまり長く中座するのは失礼だろう。立ち上がって服を払う。執事が背中側を見てシワを伸ばしてくれた。

 そのまま会場へ戻ろうとした時、出てきたご婦人とぶつかりそうになって慌てて横に避けた。しかし、何故かその女性はレイの見ている前で転んでしまった。

「ああ、申し訳ありません。驚かせてしまいましたね」

 思わず、咄嗟に手を差し伸べる。



 女性には優しくあれ。グラントリーから何度も聞かされた言葉だし、目の前で転んだ女性に手を貸すのは、レイにとっては当たり前の行為だった



 しかし、相手の女性は、どうやらそうではなかったようだ。



 手を引かれて立ち上がった夫人は、そのまま勢いよくレイの胸元に抱きついて来たのだ。そのまま胸元に身体ごと完全に抱き付いて、服に顔をくっつけて来た。

 驚いて、女性の身体に触らない様に咄嗟に両手を頭の上に挙げる。手は開いたままだ。

 しばし無言でそのまま固まっていると、女性の背後から咳払いの声が聞こえた。

「エルヴィーラ様。お加減がお悪いのでしたらどうぞこちらへ。救護室へご案内致します」

 すると、レイの胸元にしがみついていたその女性は、その言葉にあからさまに大きなため息を吐いた。

「大丈夫ですわ。もう戻りますのでご心配無く」

 顔をしかめて嫌そうにそう言うと、何事も無かったかの様に平然と離れて、呆然としているレイに一礼して、そのまま会場へ戻って行ってしまった。

 声を掛ける間も無い、あっという間の出来事だった。



「大丈夫ですか?」

 呆然とエルヴィーラと呼ばれたその夫人を見送るレイに、執事は声を潜めてそう言いながら駆け寄って来た。

「失礼致します」

 無意識に口元に当てていたレイの左手をそっと押さえて、胸元を確認する。

「ああ。やはり上着に汚れが付いてしまいましたね。どうぞこちらへ。洗浄の術の出来る者をすぐに呼んで参ります」

 そう言われて胸元を見ると、先程の女性の口紅がべったりと胸元に付いていたのだ。

 赤い見習いの上着だと一瞬見たくらいでは気が付かない場所だが、しかし、よく見れば唇の跡が付いているのは一目瞭然だ。

 もしも気付かずにこのまま出て行っていたら、ちょっとした騒ぎになっただろう。

 自分の胸元を見て、無言で嫌そうにするレイに執事は小さく頷いた。

「どうぞこちらへ」



 先程とは違う、水場の付いた小さな部屋に通される。

 その時、ブルーのシルフが目の前に現れた。

『我の大事な主になんたる振る舞い。許し難い。不愉快極まりないぞ。ああ、洗浄は我がする故、呼ぶ必要は無い』

 後半は部屋を出ようとしていた執事に呼びかける。

 驚いた執事が振り返ると、彼の目にもレイの肩に座る白い影が見えた。

「もしや、そこにおられるのは、ラピス様でしょうか?」

『如何にも。洗浄は我がする故、人を呼ぶ必要は無い。そこのグラスに水を入れてくれ』

 もう一度そう言うと、ブルーのシルフはレイの胸元の汚れた部分に手を置いた。

 執事が黙って、言われた通りにグラスに水を注いで差し出す。

『レイ、それを貰ってここへ持って来てくれ』

 言われた通りに、レイがグラスを受け取ってブルーのシルフの目の前に差し出す。


 ブルーのシルフがいるのは、胸元の汚れた部分のすぐ前だ。


『そこでそのまま持っていてくれ』

 ブルーのシルフはそう言うと、いきなりグラスから直径数セルテ程の小さな丸い水の塊を取り出して、レイの服に擦り付け始めた。

 思わぬブルーのシルフの行動に驚いて見ていると、その水に赤い汚れがどんどん吸い込まれていった。

 ブルーのシルフがグラスに汚れた水を戻した時にはもう、レイの服に付いていた口紅の跡は綺麗さっぱり無くなっていたのだった。

「うわあ凄いや。ブルーはこんな事も出来るんだね」

 無邪気に感心するレイを、執事は驚きのあまり声も無く見つめていた。


 通常の洗浄の術を使う場合、一旦汚れた服を脱いでもらい、水場で服を濡らしてから行わなければならない。特に、口紅の油は落とすのが大変なのだそうだ。その後、また別の術を使って濡れた服を乾かすのだが、これもかなりの時間がかかる為、いつも中座している人物を誤魔化すのに苦労してる。

 しかし、古竜はわずか数セルテの水球だけで、しかもほぼ一瞬であの口紅の汚れを落としてしまった。

 さすがは古竜だと無言で感心していた。



「あの、戻ります。有難うございました」

 困ったようなレイの言葉に我に返った執事は、にっこり笑ってレイを会場の中まで案内した。




 先程のエルヴィーラ夫人は、こう言った際どい行為が好きで、自分よりも年下の、特に世慣れていない十代の若者を好む。

 夫人にああして言い寄られて、そのまま連れて帰られてしまう若者は後を絶たない。

 こういった夜会の際の執事達の間では、密かに女狐と呼ばれ、要注意人物として警戒されているご婦人の筆頭なのだ。



 しかし、先程のレイルズの対応は、最初以外はほぼ完璧だった。



 目の前で転んでしまったためにうっかり手を貸したが、本当ならその場で執事を呼んでくれれば済むのだ。直接ぶつかった訳では無いのだから、彼が謝る必要も無い。

 しかし、彼は咄嗟に謝ってしまったので、その後付け入る隙を与えてしまったのだ。

 だが、抱きつかれても彼は完全に両手を頭の上に挙げて、手を開いたままじっとしていた。

 これで、彼にはそういった意思は無い事が表明された訳で、なので、執事である自分が背後から声掛けが出来たのだ。

 もしも彼があのご婦人を抱き返していたら、双方合意の上だとみなされてしまい周りは手出しをしなくなる。

 初めての保護者のいない夜会でいきなりそのような事になれば、レイルズの評判は地に落ちただろう。

 知らなかったでは済まされない。ここはそう言う世界なのだから。



「どうやら、色仕掛けも失敗のようですね」

 小さく笑ってそう呟いた執事は、置いてあった口紅の汚れた水が入ったグラスを、そっと洗い桶の中に静かに沈めた。




『何とか無事に済んだな』


あるじ様も迂闊だわ』

『この辺りはもうちょっと教育が必要ね』

『本当だわ』


 机の端に並んで座り、しみじみと言うニコスのシルフ達の言葉に、ブルーのシルフは声を立てて笑った。

『その辺りは我にはよく分からん。任せる故しっかり守ってやってくれ』


『もちろん守るよ』

『大事な大事な主様だものね』

『だよねー!』


 揃って笑うと、次々とくるりと回って消えていったのだった

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