精霊王の采配と恵みの芽再び
「ええ、ちょっと待って! 今のところをもう一度お願い」
相場の取り引きで急に難しい話になり、レイは悲鳴を上げてティミーに縋り付いた。
「今のところって何処からですか?」
「ええと……何処からだろう?」
「僕に聞かないでください!」
「ごめんね。まだこれは僕にはちょっと難し過ぎたみたい」
「ええ? そんな事無いですよ。僕に分かったんだからレイルズ様だってすぐに分かりますよ」
「そうだね。経済学も、もうちょっと頑張ってお勉強するよ」
「頑張ってくださいね。僕で良ければいつでもお教えしますよ」
顔を見合わせて笑い合う二人を見て、夫人は言葉もなく扉に縋り付いたまま震えていた。
「あの子が……あの子が笑ってるわ……それに、あんなにしっかりと喋って……」
「ね、言ったでしょう。だから怒鳴るなって。意味が分かって頂けましたか?」
優しいルークの声に、無言のまま何度も頷いた夫人は唐突に泣き出した。
突然聞こえた鳴き声に、二人は驚いて揃って振り返る。
「ティミー! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
泣きながら書斎に飛び込んできた夫人に抱きしめられ、ティミーは驚きのあまり硬直してしまった。
しかし今までと違い、今度はすぐにその硬直は解け小さく深呼吸したティミー少年は、号泣している母親を笑顔で抱きしめ返した。
「母上。急にどうなさったんですか? レイルズ様が驚かれてますよ」
「ごめんなさいごめんなさい……」
ただそれだけを繰り返す母を、腕を伸ばしてしっかりと抱きしめたティミーは、まだ泣いている母の頬にそっとキスを贈った。
「泣かないで母上。大丈夫です。僕が付いていますからね」
大人びたその言葉に、せっかく涙が止まった夫人はまたしても声を上げて泣き出してしまった。
「えっと……」
突然の事にどうしたら良いのか分からず戸惑っていると、後ろからそっと肩を叩かれた。
「レイルズ、ちょっとこっちへ。二人だけにしてやろう」
小さな声でそう言ったルークに黙って頷き、レイは静かに書斎から廊下へ出た。
一緒に出てきた執事が、二人に向かって深々と頭を下げる。
「心から感謝致します。奥方の思い込みも、ぼっちゃまの気負いも、全て洗い流してくださいました。さすがは竜騎士様です。本当に、有難うございました。このご恩は忘れません」
「俺はリュゼと少し話しをしただけですよ。レイルズだって同じです。なあ」
「はい、僕だってティミーとお話ししただけで、特に何にもしていません。頑張ったのはティミーとお母上だよね」
「これこそまさに、精霊王の采配でございますね。レイルズ様、どうか、これからも坊っちゃまと仲良くして頂けたらと……」
感極まって言葉が続かない執事に、レイは笑って頷いた。
「もちろんです。こちらこそ、ティミーには教えてもらえる事がいっぱいありそうです」
笑顔のレイは、彼らがいなくなった事に気付いて、慌てて書斎から揃って出てきた親子を振り返った。
「ねえティミー、今度一緒に遠乗りに行こうよ。そろそろ暖かくなったから、行きたいところがあるんだ」
降誕祭の時に陛下から頂いた郊外の土地に、まだレイは一度も行っていない。
遠乗りに行くには季節が良く無かった事もあるし、お披露目がすむまでは勝手な行動は慎むように言われてもいたからだ。
だけど、挨拶がひと通り済めば、少しは自由時間も貰えると聞いている。そこでレイはあの頂いた土地を見てみたいとずっと思っていたのだ。もちろんルークにも相談済みだ。
「ああ、それは良いな。挨拶回りがひと通り終わったら、気分転換を兼ねて出掛けるのも良いかもな。それなら、アルジェント卿の所の孫達も誘ってやれよ。皆ラプトルに上手に乗るぞ」
目を輝かせるレイとティミーを見て、ルークは段取りしてくれると約束してくれた。
「有難うございました!」
満面の笑みで手を振るティミーと母親に見送られて、レイとルークは部屋を後にした。
その後、まだ回っていなかったいくつかの貴族の部屋を訪ねて回り、ようやく今日の予定が終了した。
「まだ時間はあるな。じゃあ、辺境伯の所へ行くか」
ルークの言葉に、レイは一つ頷いたのだった。
また少し移動して、城の中にある別の一角に到着した。
「ねえ、ルークはこのお城の中って全部知ってるの?」
幾つ角を曲がったか既に分からなくなっているレイは、ここで置いていかれたら本気で遭難しそうだと密かに心配していた。
「さすがに全部は知らないな。だけど、自分に関係のある所程度は知っているよ。まあ、この城は増築と改築を繰り返しているから、廊下と階段の繋がり具合は、オルダムの街と同様にほぼ迷路状態なんだよ」
「遭難したら助けに来てくださいね」
あまりにも情けないその声に、ルークは堪える間も無く吹き出した。
「笑わせるなよ。大丈夫だよ、まだ当分は、こんな奥まで一人でこさせる事は無いから、今の内にしっかり覚えておくんだな」
「そもそも、覚える以前の問題です。あ、お城の見取り図とかって無いんですか?」
地図みたいに、お城の中を描いた物があれば楽なのにと考えたのだが、ルークは苦笑いして首を振った。
「新人は、皆それを言うよな。俺も言った覚えがあるよ。だけど、残念ながら街の地図みたいな見取り図は無いね。設計図は有るだろうけど、それは簡単に見られるようなものじゃないよ」
「どうして?」
廊下を歩きながら周りを見回す。
今見えているだけでも、階段が二箇所ある。それぞれ何処に繋がっているのか、今のレイにはさっぱり分からなかった。
「そりゃあ、お城に悪意を持って誰かが忍び込もうとしたらどうなるんだよ、って話だな」
「あ……」
「な、そう言う事。逆に、言えば、自分が働く関係の所だけ覚えておけって皆教えられるんだ。そうすれば、それ以外の場所には、無理に行かないだろう?」
「じゃあ、誰なら知ってるの?」
この複雑怪奇な廊下と階段と部屋同士の繋がりを、全て覚えている人はいるのだろうか?
まさか、誰も知らないなんて事はあるまい。
「グラントリーやラスティ、ヘルガー辺りなら知ってるんじゃないか?」
「そっか、執事の人は、あちこちに行くものね」
「だけど、ヘルガーやグラントリーでも裏の廊下までは全部は知らないって言ってたからな」
「そうなんだ。じゃあ本当に全部知ってる人っていないかもね」
楽しそうに笑うレイは、もう周りの人達からの注目にそれ程反応しなくなって来た。
自分を噂する声が聞こえたりすると顔を赤くしている事もあるが、ようやく人目を気にしないようになってきたようだ。
「良い事だ。この調子でどんどん行くとしよう」
小さく呟き、ルークはまた階段を登った。
お披露目が済んだばかりの新人を、休む間も無くこうしてあちこち連れ回すのは、もちろん主立った人達に合わせる事が一番の目的だが、これから一生ついて回る事になる、他人の好奇の視線に慣れさせる意味も大きいのだ。
今のところその試みは無事に成功しているようで、平然と歩くレイルズを見て密かに安堵するルークだった。
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