ヴァイデン侯爵夫人
「さてと、最後の訪問は、本日最大の難敵だぞ」
何やら意味ありげなその言葉に、レイは目を瞬いた。
「えっとラスティに教えてもらった今日の予定では、最後はヴァイデン侯爵の所だって聞いたよ」
特に何も言われなかったのだが、何があるのだろう。
不思議に思っていると、苦笑いしたルークは大きなため息を吐いて空を見上げた。
「そう、ヴァイデン侯爵。マイリーやヴィゴより少し年上の方で元老院の議員をしておられる。まあ、元老院の中では若造扱いだけどね。竜騎士隊にも好意的で、色々と協力してくださるありがたい人だよ。奥方はミレー夫人。社交界の顔役でね。若い娘さんなんかの面倒もよく見てくださる良い方だよ、ただしちょっとね……うう、しかしここの訪問を今日にしたマイリーには、ちょっと一言言いたいぞ。俺は」
「えっと、何かあるんですか?」
聞く限り特に何か問題があるとは思えないが、何かあるのだろう?
「うう、そうだな……お前に分かりやすい言葉で言うなら……」
ブツブツ言いながら考えていたルークは、顔を上げてレイを振り返った
「精霊魔法で、声飛ばしがあるだろう」
もちろん知っているので頷く。
「それの応用で、竜の背に乗ってる時に使ったりする拡声、つまり、声を大きくしたり、離れた人にも聞こえるようにしたりするやつ」
「もちろん知ってるよ、いつも使ってるよね?」
ミレー侯爵夫人の話をしていた筈なのに、突然始まった精霊魔法の話の意味が分からない。どこで繋がるのか想像もつかなかった。
「ミレー夫人は、その拡声の技みたいなもの。とにかくお喋りが好きで好きで仕方がないんだ。まあ、彼女に知られたら最後、隠し事は絶対に出来ない。つまり、彼女に知られた事は、間違いなく数日のうちには社交界に出入りするほぼ全ての女性に知られると思って良い」
「ええ、それって……」
「な、恐ろしいだろう?」
無言で何度も頷くレイを見て、ルークは小さく吹き出した。
「だけど逆に言えば、気に入って貰えたらミレー夫人はあちこちにそれを言ってくれるからね。ある意味、味方にすれば大きな力になるんだよ」
「えっと……つまり、ミレー侯爵夫人に気に入ってもらえるようにすれば良いの?」
目を輝かせるレイに、ルークは小さく笑った。
「もちろん、気に入ってもらえるならそれに越した事はないよ。じゃあ逆に聞くが、夫人にどうすれば気に入ってもらえると思う?」
質問に質問で返されて、レイは目を瞬いて考える。
「えっと……どうするの?」
「一つくらい考えろよ」
「そんなの全然分かりません!」
困ったように叫ぶレイを見て、もう一度ルークは吹き出して笑っている。
「まあ、お前はそのままで良いよ。無理に何かしようなんて思わなくて良い。今日の、今までの訪問先であったみたいにしていれば良いよ」
驚き不思議そうに首を傾げるレイを置いて、笑ったルークはさっさとラプトルを進ませて行ってしまった。
「ああ、待ってよルーク! ねえ、何か気をつけたりする事って有りますか?」
「大丈夫だよ。今までと同じで良いって」
「ええ、そんなあ」
レイの困ったような悲鳴に、ルークは笑っている。
そんな話をしているうちに、一行は目的のヴァイデン侯爵邸に到着した。
「うわあ、大きなお屋敷だね」
レイがそう言ったのも無理は無かった。
石造りの大きなそのお屋敷は、まるで毎日お茶に入れるのに使っているような蜂蜜のような、やや濃淡のある優しい茶色をしていて、屋根瓦は見事な同系色の茶色を使ったモザイク模様を描いていた。
「琥珀の館、って別名が付いてる。な、琥珀っぽいだろう」
今では、宝石や貴石鉱石などにもすっかり詳しくなったレイは、その言葉に満面の笑みで頷いた。
「僕は、蜂蜜みたいだって思ったよ」
「ああ、確かに蜂蜜の色もあんな感じだな」
笑って玄関のある角を曲がった。
「ようこそ。お待ちしておりました」
玄関先で侯爵夫妻の出迎えを受け、ラプトルから降りたレイはまずはヴァイデン侯爵と挨拶を交わした。
実は侯爵とはお披露目の際の議会の場で一度挨拶を交わしている。それをニコスのシルフに教えてもらって、レイは、うっかり初めましてと言わなくて済んだのだった。
「ようこそ、レイルズ様」
差し出された手にそっと顔を寄せるレイを、夫人は満足そうに見つめていた。
夜会でごく短い挨拶を交わしただけのこの若い竜騎士見習いの青年に、夫人は興味津々だった。
年齢離れした立派な体格と精悍な顔立ちだが、目尻や頬の辺りには、まだ幼さが残っている。これは若い女性達がさぞかし喜びそうだと密かに思い、その様子を楽しみにもしていた。
しかし、今日はまずは、彼がどんな人物なのか、彼の
広い部屋に通されたレイとルークは、ここで遅い昼食を頂いた。
小振りだが骨付きの肉が出されたのを見たルークは、内心で早速来たかと苦笑いをしていた。
しかし、出されたそれに物怖じすることも無くナイフとフォークを使って綺麗に肉を切り分けて食べてしまったレイルズを見て、侯爵夫妻はとてもカトラリーの使い方が上手だと褒めてくれた。
デザートのベリーのミニパイまで綺麗に残さず平らげたレイを見たルークは、あれだけお菓子を食べたのは一体どこへ行ったんだよ。と思わずにはいられなかった。
その後は、花盛りの庭を鑑賞出来る部屋に通され、カナエ草のお茶が出された。
食事の間は大人しくしていた夫人だったが、そろそろ我慢の限界だったようで、目を輝かせてレイルズの事を聞きたがった。
レイルズの生い立ちについては話して良い事が厳密に決められている。
自由開拓民の村で母親と二人で暮らしていたが、野盗に襲われて母が亡くなった事。今はもう、その村も無くなった事。その後にブルーと出会い、森に住むタキスのところで暮らした事などだ。
夫人は、レイが話す自由開拓民の村の暮らしや森での生活を聞きたがり、レイは、自分では土を触った事すら無い生粋の貴婦人に、どうしたら森での暮らしを少しでも解ってもらえるのか一つ一つの説明に苦労していた。
そして、夫人と話していてレイは衝撃の事実を知った。
貴族の人は、彼らが毎日口にしている食べ物がどうやって作られているか、全くと言って良いほど知らないのだ。
例えば、毎朝飲んでいるミルクが牛の乳である事すら知らず、その牛の乳も当たり前にずっと出るのかと聞かれて、レイは何を聞かれているのか分からず、困った程だった。
「えっと、違います。人のお母さんが赤ちゃんを産んだら、自分の母乳で赤ちゃんを育てますよね。それと同じです。お乳が出るのは仔牛を産んだ母牛だけです」
そんな事で驚かれても、正直言ってどんな反応をすれば良いのか困る。
内心で、本気でそう叫んだレイだった。
しかし、逆にこうも思えた。それ程に貴族の生活と言うのは土や自然と乖離したものなのだろう。それに以前、竜騎士隊の皆も、畑の土が柔らかいと聞いて驚いていたのも思い出した。
そこでレイは、畑で採れる作物についてや、小麦粉がどんな風にして作られているか。またそれを使ってどうやってパンが作られているかを少しだけ具体例を挙げながら説明した。
「えっと、後は……例えば今ここに置いてあるビスケット。これは、小麦粉以外の材料では、お砂糖やバター、それに卵を使いますね」
「じゃあ、バターは?バターは何から出来ているの?」
好奇心旺盛な夫人の質問に、レイは今度はバターの作り方を説明する事になり、その前に、まずは生クリームの作り方から説明する羽目になったのだった。
次から次へと質問されるそれら一つ一つに、一生懸命考えながら分かりやすく答えるレイルズを、侯爵とルークは、揃って面白そうに黙って眺めていたのだった。
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