初めての挨拶回り
「それじゃあ、またね。レイ」
「今度会うのは訓練所かしら? 無理はしないでね」
公爵が用意した馬車に乗り込んだクラウディアとニーカは、窓から手を振ってそう言って笑った。
「うん、今週は訓練所に行くのはちょっと無理だと思うよ。来週は多分行けると思うけど、まだちょっと分からないかな」
手を振りながら自信なさげにそう言ったレイは、隣で並んで見送るルークを見た。
「そうだな、今週はさすがにちょっと難しいと思うけど、来週以降は少しは行けるように調整してやるからしっかり勉強してこい。来月になると、言っていたように各地への巡行が始まるからな。詳しいことが決まれば、また教えてやるよ」
「はい、よろしくお願いします!」
目を輝かせるレイを見て、ルークは苦笑いしつつも頷いてくれた。
「何というか……素直過ぎて、若干心配になるな」
小さな声でそう言った公爵の言葉に、思わず吹き出しそうになったルークは、何とか咳をして誤魔化したのだった。
「レイルズはあれで良いんですよ」
少し含みをもたせたその言い方に、公爵は小さく頷いた。
「それでは父上、これにて失礼します」
「ああ、楽しい時間だったよ。また、いつでも訪ねて来てくれたまえ」
「ありがとうございました。えっと、これからもどうかよろしくご指導ください」
笑った公爵と二人が握手を交わす。
「こら、言っただろうが。えっとは無し!」
隣にいたルークに、小さな声でそう言って背中を軽く叩かれる。
レイの口癖である、えっと、は、あまり使わない方が良いと言われて、レイは話す時に必死で気を付けているのだが、気が緩むとついつい言ってしまうのだ。
「あ、本当だ。すみません。うう、気を付けててもやっぱりつい出ちゃうよ」
口元を押さえて眉を寄せるレイに、公爵も笑っている。
「まあ、あまり感心出来ん口癖だが、絶対使ってはならんと言う程でも無かろう。そうだな、公式の場での挨拶などで無ければ構わんだろう」
「だからですよ、今のうちに自分で調整出来るようにしておかないと、いざという時言葉が止まります」
「まあ、確かにその通りだな。じゃあレイルズ。しっかり頑張りなさい。何かあれば、いつなりと知らせてくれれば、駆けつけるからな」
「はい、ありがとうございます!」
改めて手を握ったレイは、嬉しそうにそう言い、用意された馬車にルークに促されて乗り込んだ。
馬車が動き出すと、ルークが大きなため息を吐いて窓の外を見た。
「はあ……あそこへ行くのは二度目だけど、やっぱり緊張するよ」
口元を覆って小さくそう呟いたルークを、レイは驚きの目で見ていた。
彼の視線に気付いたルークは、照れたように笑ってもう一度ため息を吐く。
「やっぱりさ、正直言って今でも全く思うところがないわけじゃ無いよ。だけど……なんて言うか、あんな風に好意全開で出迎えられたらさ、無意識に反抗したくなるのは俺が
「駄目だよルーク、そんな事言ったら。せっかくお父さんと仲直り出来たのにさ。公爵様が歓迎してくれているんだから、それで良いんじゃないの?」
無邪気なその答えに、ルークは少し寂しそうに笑った。
「単純に、それで良いって思えたら、もっと楽なんだろうけどな」
「お父さんが生きてるんだから……仲良くして下さい」
小さな声で言われたその言葉に、ルークは一瞬目を見開き、それから小さく頷いた。
「そうだな。生きているからこそ、喧嘩したり……仲直りしたり出来るんだよな……感謝しないと……」
最後の言葉は消えそうなくらいに小さな声だったが、レイの耳にはちゃんと聞こえていた。
「うん、そうだよね。お父さんと仲良くね」
嬉しそうに笑ってそう言うレイに、ルークも照れたように笑って頷くのだった。
「この後は、言ったようにもう一人の公爵であるゲルハルト公のところへ行くからな」
ルークの言葉に真剣に頷きながら、レイはラスティやグラントリーから教えてもらったゲルハルト公爵の人となりについて必死になって思い出していた。
年齢は今年四十九歳。急逝した父に代わって、二十代で公爵の地位についた彼は、相当な苦労があったらしい。しかし、公爵となっても元来の社交的で気さくな人柄に変わりはなく、どちらかと言うと伝統を重んじ、軍人として常に前線に立ち、普段から過度な装飾を好まない質実剛健な気質のディレント公爵と違い、ゲルハルト公爵は城の事務官の長で有り、外交官を束ね、元老院と皇王の橋渡し役を務める人物でもあるのだ。
いわばヴィゴとマイリーのように、武勇に優れたディレント公爵に対し、外交交渉に始まり、城の内部の事務的な仕事をこなす事の出来る貴重な文官なのだ。
「ゲルハルト公はマイリーとも仲が良いよ。まあ、マイリーほどはややこしくないから心配はいらないよ」
「え? マイリーは優しいよ。どこがややこしいの?」
「あ、そこを聞くんだ」
苦笑いしたルークは、不思議そうに自分を見るレイの頬を手を伸ばして突っついた。
「マイリーが優しいって、そんな風に素直に言えるお前は、本当に凄いと思うよ」
意味が分からなくて目を瞬くレイに、ルークは笑って首を振った。
「気にしなくて良い。まあ、ラスティから聞いていると思うけど、気さくな方だからあまり緊張する必要は無いよ。そうそう、さっき聞いた最新情報では、少し前にご友人に教えてもらって燻製作りを体験されて、以来すっかり気に入った公爵閣下は、時間が空いたら庭で燻製作りをしているそうだよ」
それを聞いたレイは、嬉しそうに目を輝かせた。
「ええ、その話は是非とも聞きたいです!」
「じゃあ、途中で話を振ってやるから自分で聞いてごらん。お前なら燻製肉の作り方ぐらい知ってるんじゃないか? 俺は正直に白状すると、少し前まで燻製肉って、そんな味の肉が有るんだと思っていたからな」
一瞬言われた意味が分からずに考え、思わずちょっと目を細めてルークを見る。
「えっと、それってつまり……豚肉とか鶏肉みたいに燻製肉って言う肉の種類があるんだと思っていたって事?」
小さく笑って頷くルークに、レイは堪える間も無く吹き出した。
「ええ、ちょっと待ってよ。こんなに何でも知っているルークが、燻製肉が何か知らなかったの?」
「そこまで笑われると、地味に傷つくなあ」
目元に手をやり泣く真似をしながらそう言うと、顔を上げて笑ってレイの膝を突っついた。
「蒼の森に初めて野生の竜が発見された時、俺とタドラの二人がまず始めに派遣されたんだよ。蒼の森よりも少し手前側にある第九十六番砦へね。そこの食堂の料理が思いの外美味しくてさ。特に、そこの燻製肉はもう絶品だったんだ。それで、その時に初めて燻製肉の作り方を聞いたんだよ」
「へえ、そうだったんだね。料理が美味しいのならちょっと行ってみたいかも」
「行きたい理由はそこかよ!」
無邪気なレイルズの言葉に、笑いを堪えられないルークだった。
到着したゲルハルト公爵の部屋で、挨拶を済ませた二人は、天井まで一面の本で埋め尽くされた書斎で、元老院の役割や外交交渉について具体的に少しだけ教えてもらった。
今まで話した事も無かった公爵を相手に気後れすることも無く、分からない事や疑問に思った事をきちんと質問するレイルズに、元来世話好きのゲルハルト公はすっかりご機嫌で様々な話をしてくれたのだった。
歓談と言われていたが、実際にははっきり言ってレイの為の勉強会状態が一段落すると、カナエ草のお茶と一緒に午後の軽食が出された。
薄切りのパンに薄く切った燻製肉や少量の野菜を挟んだそれが出された時、その隣に添えられているゆで卵を見てレイは笑顔になった。
それは蒼の森でもよく作っていた、レイも好きな燻製卵だったのだ。
「燻製卵だ。これって木の香りがして美味しいんですよね」
嬉しそうなその言葉に、ゲルハルト公も嬉しそうにお皿に乗ったそれを見た。
「おやおや、燻製卵が好きなのかい? それは実を言うと私が作ったんだよ」
まさか、こんなに本格的に作っていると思わなかったレイは、目を輝かせて公爵を見た。
「じゃあ、もしかしてパンに挟んである、この燻製肉もそうですか?」
照れたように頷く公爵を見て、ルークも驚いて改めてお皿に乗ったそれを見た。
「こりゃあ凄い。それは遠慮なくいただきます」
頂いた燻製肉は、しっかりとした味でパンと合わせるととても美味しかった。それに半分に切られた燻製卵も、半熟でとても美味しかった。
嬉しそうに大きな口を開けて食べるレイルズを、公爵は嬉しそうに眺めていたのだった。
食べ終わってから、レイと公爵は燻製の作り方の話で大いに盛り上がった。
なんでも、先ほど食べた燻製卵は公爵のお気に入りらしく、今の所、食べてもらった人達からの評判も上々なのだそうだ。
レイは、蒼の森にいた時に作った野生の猪や鹿の燻製肉の話をして公爵を大喜びさせた。
特に彼が聞きたがったのが、ギード特製の折りたたみ式の巨大な部屋になった燻製室で、出来れば作ってもらえないだろうかと真剣に頼まれてしまい、ちょっと困った一幕もあった。
その日は、両公爵の他にも、主に議会に参加されている貴族の主だった方々の部屋をひたすら挨拶して回った。
「殆ど、一度は挨拶している人なのに、どうしてまた行くの?」
次の訪問先の場所が離れている場合は馬車で、部屋同士がごく近い場合は徒歩での移動だった為、馬車に乗った時に、レイは気になっていた事を聞いてみた。
「そりゃあこっちから挨拶に行ったって言う実績を残す為だよ。まあ諦めてくれ。これも大人の付き合いだよ」
苦笑いするルークにそう言われて仕舞えば、大人しく従うしかないレイだった。
今日の予定していた訪問が全て終わる頃には、レイはもうヘトヘトどころか、本気で倒れそうになるほど疲れ切っていた。
使ってくれて良いと言われて、今日一日そのままディレント公爵から借りていた馬車に乗り込んだレイは、執事が扉を閉めてくれるまでは笑顔で見送ってくれた伯爵様に手を振っていたが、馬車が動き出した途端にそのまま横向きに倒れて突っ伏した。
「もう駄目……もう今日の笑顔は完売です。挨拶も握手も全部完売です、もう終わりなんです……」
「上手い事言うなあお前。でも確かに、そんな感じだな」
「酷いルーク! 他人事だと思って!」
「まあ、さすがに今日は強行軍だったな。俺でもここまでの面子と一日で会うとかは無いな。安心しろ、明日からは女性のお相手が主になるから、もっと時間もゆっくりだし気楽に喋れると思うぞ」
「その言葉……本当に信用して良いんですか?」
まだ起き上がれないレイの、その情けない言葉に、ルークはもうずっと笑っていたのだった。
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