勉強

 翌朝。いつもの時間にシルフに起こされたレイは、ベッドから起き上がって大きく伸びをした。

「おはよう、ブルー。今日は、精霊魔法訓練所で座学の試験が幾つもあるんだよ。うまく単位が貰えると良いな」

 目の前に現れたブルーのシルフにキスを贈って、レイはそう言って笑った。

『おはよう。今日は少し曇っているようだが、雨が降る心配はないぞ。ラプトルで行っても大丈夫だぞ。さて、試験の結果はどうなるかな?』

 その言葉に、レイは嬉しそうに笑って窓の外を見た。

 どんよりとした雲が、空を覆っていて太陽は全く見えない。



『上位の実技はもう全部単位を貰ったのだろう? 後は何が残っているのだ?』

 当然知っているが、素知らぬ顔で尋ねる。嬉しそうに笑ったレイは、自分の指を折って数え始めた。

「ええと、上位の座学では、残ってるのは上位の魔法の構築式とその展開方法について。それから一般常識の、建国の歴史と精霊魔法の歴史、後は講義だけなのが戦術と戦略、陣を敷く際の展開形式……かな?」

『それから、数学だな』

 笑いを堪えたブルーの声に、レイは誤魔化すように笑った。

「多分、一番の難敵は数学だよね。あんな計算、どこで使うって言うんだろうね」

 出来ないわけではないのだが、使う先が思い付かず、どうにもやる気が出ない教科なのだ。

『まあ、普通は使わんな』

「だよね! やっぱりそうだよね!」

 目を輝かせたレイがそう叫んで振り返った時、ノックの音がしてラスティが入って来た。

「おはようございます。何がそうなんですか?」

 不思議そうなラスティの声に、レイは振り返った。

「おはようございます。あのね、今日は訓練所で座学の試験が有るんだけど、数学で習う、あんなややこしいだけの計算って……何かの役に立つ?」

 それを聞いたラスティは堪える間も無く吹き出した。

「し、失礼しました。まあお気持ちは分かりますけれど、無駄な事ではありませんよ。数学と言うのは、いわば解決するための方法を探す訓練をしているんだと思ってください」

 白服を差し出しながら、説明してくれるラスティは笑っている。

「答えを導き出す為に計算式に当てはめる。足したり引いたり、掛けたり割ったり、色々な方法を試しますよね。正しい解き方をすれば、答えは一つです。同時に二つ存在する事は有り得ませんからね。もしそんな事があれば、それはどこかで計算方法が間違っているんです」

「まあ確かにそうだけど。こう、もっと明快にこれだって言う理由があれば、苦手な数学も頑張れると思うんだけどなあ」

「皆様、そう仰いますね。ですので、こう申し上げておきます。頑張ってお勉強してください。ってね」

「やだもう。結局はそこなんだよね!」

 レイの叫びに、二人は揃って顔を見合わせて同時に吹き出したのだった。



 今日の朝練は、ルークとカウリと若竜三人組で、大人組は参加していなかった。

 気にせず、いつものように、柔軟体操と走り込みを行い、カウリやルークと棒で手合わせをしてもらい、ルークとカウリが一対一で打ち合っている間に、ロベリオ達三人と順番に手合わせしてもらった。



「そういえば、弓は上手くいってるの?」

 朝練を終えて、部屋へ戻る時に、タドラにそんな事を聞かれた。

「落ち着いてゆっくりやれば、かなり的に当たるようにはなってきたよ。だけど、速射だと一気に命中率が下がるんです。もう何度やっても同じだからやる気が出なくって……」

 口を尖らせてしょんぼりとするレイに、皆納得したように頷いている。

「まあ、速射は慣れもあるからな」

「俺も、最後まで苦戦したのが速射だったな」

 思い出して笑っているルークの言葉に、レイは目を輝かせて振り返った。

「ルークは? ルークはどうやって上達したの?」

 レイの顔を見たルークは、ニンマリと笑った。

「ひたすら打って打って打ちまくったんだよ。ってか、速射の上達方法なんてそれしか無いんだって。諦めてひたすら打ちまくれ」

「やっぱりそれなんだね」

 上を向いて顔を覆ったレイに、皆小さく吹き出した。

「カウリは、カウリは棒術以外の武術はどうなの?」

 目を輝かせたレイに聞かれて、カウリは胸を張った。

「俺は基礎は出来てるって言われたからな。俺がここで本格的な訓練を受けるのは、戦闘騎竜に乗っての槍の扱い方だけだよ。後は一通りは出来るぞ。速射だって合格したぞ」

「狡い! そんなの狡い!」

「駄々こねる子供か、お前は」

 理不尽な抗議にカウリが笑って叫び、全員揃って同時に吹き出し大爆笑になった。



「はあ、笑い過ぎで腹が痛いよ。まあ、何であれ無駄にはならないから、死ぬ気で頑張れよな」

 ルークの言葉に、新人二人は揃って無言で顔を覆った。

「俺はどっちかって言うと、座学の為の記憶力が欲しいよ……」

 情けなさそうなカウリの呟きに、目を輝かせてレイが答える。

「カウリなら出来るよ。頑張ってね」

「お前。他人事だと思って簡単に言うなよな。十代の若者と、四十過ぎたおっさんの記憶力を一緒にするんじゃねえよ!」

 カウリの本気の叫びに、また全員揃って吹き出したのだった。



 食事の後は、揃って精霊魔法訓練所へ向かった。

「雨が降りそうだけど、ラプトルで良いのか?」

 途中、曇り空を見ながら心配そうなカウリの言葉に、レイは胸を張った。

「雨は降らないよ。ブルーがそう教えてくれたからね」

 護衛の者達は、何度かレイからそんな話を聞いているので、必ず当たる古竜の天気予報は、彼らの間ではもういつもの事だった。

 しかし、カウリは初めて聞くその話に、呆気にとられてレイの顔を見つめていた。

「凄えな。古竜ってそんな事も出来るのか?」

「そうだよ。数日くらいなら分かるみたいだけど、どうしてるのかは僕も知らない」

 苦笑いしたカウリは、無言で護衛の者達を見た。

 彼らも苦笑いして首を振るのを見て、彼ももう一度笑って頷いた。

「相変わらず、やる事なす事桁違いだな」

 手を伸ばしてレイの肩を突っついてやる。

 笑って逃げる彼のラプトルを、カウリも笑って後を追い、二匹は一気に駆け出した。

 護衛の者達が、笑いながらすぐ後ろをピタリとついて来ていた。



 訓練所に到着した一行は、ラプトルを預けて護衛の者達と別れて中に入る。カウリはそのまま迎えに来た教授と一緒に教室へ行ってしまい、手を振ってカウリを見送ったレイは、いつものように図書館へ向かった。

「おはようございます、レイ。今日は試験があるんでしょう? 頑張ってね」

 図書館には珍しく、先客がいた。

「おはよう。ディーディー。ニーカもおはよう。珍しいね、君達が先に来てるなんて」

 笑って駆け寄り、二人が棚から取り出していた何冊もの分厚い本を持ってやる。

「ありがとうございます。神官様が、お城にご用があるとかで、早朝から馬車で来られたので、ここまで一緒に乗せて来ていただいたんです」

「おかげでずいぶん早く来れたもんね」

「ええ、おかげで本がゆっくり探せたわ」

 笑顔の二人の説明に、レイは納得した。

 普段は、彼女達は街にある神殿で朝のお勤めを終えてから、ここまで自分の足で歩いて来ている。なので、到着するのは大抵が一番最後なのだ。

 遅くなるという事は、それだけよく使う参考書などは持っていかれている可能性が高く。いつも二人は苦労して参考書を探しているのだ。場合によっては、その日の授業では無くても、残っていた本で出来る予習をしたりもしている。

「じゃあ今日は、選び放題だったんだね」

「ええ、初めて見る参考書が何冊もあったわ」

「早く行こう。いつもの自習室も取ってあるからね」

 胸を張るニーカの言葉に、レイは笑顔でお礼を言って自分の参考書を集め始めた。

「おはよう。お、珍しいな。先に来てるなんて」

 ノックの音がして、参考書を何冊も持ったマークとキムが入って来た。レイは慌てて立ち上がり、扉を閉めてやった。

「ありがとうな。ああ、その本は俺のだったな」

 キムがそう言って、マークの持つ山の一番上の本を取って自分の山の上に置いた。

「レイルズは、今日試験があるんだろう。頑張れよな」

「あはは、全く自信は無いけど、もうやるしかないもんね」

 笑って手を叩き合い、それぞれ席について自分の勉強をした。

 レイは苦手な数学の計算問題が沢山載った問題集を片手に、時々キムに教えてもらいながら必死になって計算問題を解き続けていた。



「もうやだ。目の前で数字がダンスを踊ってるよ」

 もうすぐ昼食の時間になる頃、疲れ切って呟いたレイの言葉に、その場にいた全員が同時に吹き出した。

「何それ、ちょっと見てみたいかも」

 堪えきれないようにニーカが笑い、クラウディアも隣で口元を覆って笑っている。

「ああ、もうやめた。もう無理。ちょっと休憩……」

 机に突っ伏したまま顔も上げないレイを見て、キムとマークが慰めるように背中を叩いた。

「まあ頑張れ、これも乗り越えなきゃならない試練だよ」

「もっと違うのが良いよ」

 突っ伏したままそんな事を言うレイに、二人はまた吹き出した。

「そんな勝手が通るかよ!」

「そうだぞ。試練を自分で選べるかよ」

「まあそうだけどさあ……」

 すっかり疲れ切ったレイの耳に、お昼休憩を知らせる鐘が聞こえて来た。

「あ、じゃあ食事にしようよ。だけど、食事が済んだら……遂に試験だ」

「頑張ってね。応援してるわ」

「そうよ。レイルズなら出来るわよ」

「ほら、片付けて早く行こうぜ」

 マークに背中を叩かれて、レイも起き上がって、まずは自分が使った本をそれぞれの場所に片付けた。



「ああ! 無いと思ったらお前らが持って行ってたのか」

「それ、僕が使おうと思っていたのに」

 最後の本を戻していた時、後ろから聞こえた咎めるような大声に、驚いたレイは慌てて声のした方を振り返った。

 見ると、クラウディアとニーカの前に、大柄な騎士見習いの服を着た少年二人が立っていて、彼女達が持っていた本を指差している。

 何事かと思い駆けつけようとしたが、ニーカがチラッとこっちを見て首を振ったのだ。

「ごめんね、貴方もここを勉強していたのね。私はこの本を使ったのは初めてだったけど、とってもよく分かったわ。もう返すから、良かったら見てちょうだい」

 ニーカはにっこり笑って、もう一冊の本も一緒にその少年に渡すと、驚いて声も無いクラウディアの背中をそっと叩いた。

「じゃあね、お勉強頑張りましょうね」

「し、失礼します」

 当然、怯えて謝ってくるものだとばかり思っていたのに、平然と答えられて逆に驚きのあまり言葉も無い少年達を置いて、ニーカに手を引っ張られたクラウディアもその少年達に一礼してこっちへ戻って来た。

「じゃあ行こうか。早く行かないと食堂もいっぱいになるからね」

 何事も無かったようにレイがそう言い、すぐ後ろにいて、黙って成り行きを見守っていたマークとキムも笑って頷き、少女二人の両側に分かれて並んで一緒に食堂へ向かったのだった。




「何だよあれ。図書館の本は誰のものでも無いだろうに。先に持って行ったからって文句を言うのは筋違いだろうが」

 食事が終わり、それぞれお茶を飲みながら話していて、マークがさっきの少年達のことを思い出したらしくまた怒り始めていた。

「気にしていないわ。だって、別に悪い事している訳じゃあ無いんだし。もし取り上げられたところで、参考書は一冊だけじゃ無いわ。他にも探せばいくらでも有るもの。あんなの文句を言いたいだけなんだから、相手にするだけ無駄よ」

 まだブツブツと怒っているマークに平然と答えるニーカを見て、レイも実は密かに腹を立ててたので、驚いて彼女を見た。

「ニーカは腹が立たないの?」

「だって、別に怒るようなことじゃ無いでしょう? 私は自分で本を選んで勉強出来るだけで十分すぎるくらいに幸せよ。ここは本当に素晴らしい所よね。好きなだけ本があって、好きなだけ勉強が出来る。ここへ通わせて良いって許可してくれた方々に、私は本当に感謝してるわ。レイルズだって分かるでしょう。沢山の本を好きなだけ読めて、朝から晩まで、泥まみれになって働かずに勉強出来る時間があるって事が、どれだけ贅沢な事か」

 目を瞬いたレイは、黙ってニーカを見た。

「何? 私の顔に何か付いてる?」

 真剣に見つめられて、焦ったようにそう言うニーカに、レイは満面の笑みになった。

「凄いやニーカ。確かにその通りだよね。僕も最初はここに来てお勉強出来るだけで幸せだったんだ。だけど、どんどん色んなものを与えられて、ちょっと傲慢になっていたみたいだ。ありがとう、そうだよね。お勉強出来るって事が、どれだけ幸せな事か、忘れかけていたよ」

 驚くマーク達に、レイは笑って残りのお茶を飲み干した。

「あ、そろそろ行かないと。じゃあまた明日ね。試験、頑張って来ます!」

 そう言って立ち上がったレイは、急いで食器を片付けて、呆気にとられて見送る四人に向かって敬礼してから急いで食堂を出て行った。



「そうだよな。確かに勉強出来るって事は、贅沢な事だよな」

 マークも、笑ってそう呟くと、最後のマフィンのかけらを口に入れた。

「じゃあ、午後の授業も頑張ろうぜ。そして、レイルズの試験が上手くいくように皆で祈ってやろう」

「そうね、じゃあ私もオフィーリア様にお祈りしておくわ」

「そこは、知恵の神様の聖ソフィオラ様にお願いする所じゃないかしら?」

 無言で見つめあった少女二人は、強引な解決策を出した。

「そうね、じゃあ両方の神様にお願いしておきましょう」

 笑って頷くと、その場で目を閉じて祈り始めた。



 そんな少女達を黙って見ていたマークとキムも、無言で肩を竦めると、揃って祈りを始めた。

 彼らはとりあえず、いつも一番お世話になっている精霊王にレイルズの試験の合格をお願いする事にした。

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