西からの使者

 それは、四の月に入って間も無くの、よく晴れた春めいた陽気の日の事だった。



 一番最初にそれを見つけたのは、いつもの上の草原で家畜や騎竜達の世話をしていたニコスだった。

 それに気付いた時、彼は手にしていたブラシを落とした事にさえ気付かないほどに驚いていた。

「なんだ? どうしたニコス」

 ニコスの様子がおかしなことに気付いたギードがそう声を掛けて、落ちたブラシを拾う。

「ほれ、一体どうした?」

 しかし、ニコスは差し出されたブラシを受け取ろうともせずに、黙って空を見たまま動こうとしない。

 ニコスの視線を辿って同じく空を見上げたギードは、それに気付いてニコスと同じく言葉を失った。

「一体何をしているんですか? 貴方達は」

 呆れたようなタキスの声にも、二人は答えを返す余裕は無かった。

「まさか……あれは野生の竜か?」

 呻くようなギードの言葉に驚いて、戻ろうとしていたタキスも大慌てで振り返って空を見上げた。




 確かに、彼らの視線の先にいるのは、遠くてよく見えないが、明らかに見慣れた竜の姿をしていた。

 しかし、その竜は西から東に向かって真っ直ぐに飛んでいたのだ。この森より西は国境まで深い森が広がっているだけで人の住む街は無い。ギードが野生の竜かと疑ったのはそのせいだった。



 しばらくの間、三人揃って空を見上げたきり誰も動く事さえ出来ずにいた。

「いや。あれは……あれは違う。野生の竜なんかじゃ無い。あれは、あれはジェダイト様だ……間違いない……まさか、まさか今になってまた、お目にかかれる日が来るなんて……」

 感極まったように震えるニコスは、そう呟いたきり地面に膝をついて蹲ってしまった。

「精霊王よ、感謝します。感謝……します……」

 震える両手を握りしめたきり、そう言って精霊王への感謝の言葉を呟き続けた。

「ジェダイト様? 誰ですか?」

 タキスがその言葉を聞いて不思議そうに首を傾げた時、ギードが思い出して手を打った。

「まさか、オルベラートの守護竜か?」

 顔を上げたニコスは、ギードの言葉に大きく頷いた。

「ああそうだよ。間違いない。あれはジェダイト様だ。俺はかの国で、あの方のお側でいつも見ていたよ。ジェダイト様を始めとした竜達が王都の空を飛ぶのを。そうだよ。考えたら……まだあれから十年も経たないんだよな。もう、百年も前の事のような気がするよ……」

 オルベラートの貴族の館で執事をしていたニコスの事は、二人とも聞き及んでいる。

 事情を察した二人は、黙って彼が立ち上がるのに手を貸した。



「大丈夫そうだな。しかし、いくら友好国とは言え、単騎で乗り込んで来るとはどういう事だ?」

 もう竜の姿は見えなくなっていたが、東の空を見ながらそう呟いたギードは、心配でたまらなかった。オルダムには竜騎士見習いとして日々勉強や訓練に励んでいる、彼らの大切な家族であるレイがいるのだ。

「いや、単騎じゃ無かったよ。影になってよく見えなかったが、間違いなく二頭だったよ」

 立ち上がって汚れた膝を叩きながらニコスはそう言って笑った。

「恐らく、何か重要な案件で、王子自らオルダムへ向かわれたんだろう」

 ニコスの言葉に、二人ももう一度東の空を見上げた。

「何なんだろうな。レイに関係の無い事であれば良いが……」

 ギードがそう言い、タキスとニコスも同意するように頷いていつまでも東の空を見つめていた。






 その日、いつものようにラプトルで訓練所に行ったレイは、午前中は自習室で皆で勉強をしてからいつもの様に一緒に食堂へ行った。

 それに気づいたのは、丁度食べ始めて間も無くの事だった。

 不意に食堂が騒めく。何人もが立ち上がって慌てたように外に駆け出していった。

「竜だ! 竜だ!」

「すごく大きな竜だ!」

 食堂から見える広い中庭には、大勢の生徒達が飛び出してきて大騒ぎになっていた。全員が上を見上げて同じ言葉を叫んでいる。

 それを見たレイも、何事かと大急ぎでマーク達と一緒に外に飛び出した。

 まさにその時、すぐ近くを綺麗な薄緑色の巨大な竜が通り過ぎて行った。その隣にいるのは、それよりもはるかに小さかったが、薄い朱色のこれも綺麗な竜だった。

 その左右と後ろには、若竜三人組の竜達が続いているのも見えた。


『あれはオルベラートの守護竜』

『大丈夫だよ』

『怖く無いよ』

『あれは大切な使者』


 レイの周りに現れたニコスのシルフ達がそう教えてくれた。

 しかし、どうやらニコスのシルフの言葉は他の皆には聞こえていなかったようで、気付けば全員がレイルズの事を不安気に見つめている。人混みの後ろの方では飛び出して来た教授達までもが戸惑う様にこっちを見ている。

「えっと……」

 どうしたら良いのか分からなくて困っていると、目の前にまた現れたニコスのシルフ達が笑って頷いてくれたので、レイは小さく深呼吸をしてから口を開いた。

「えっと、今の竜はオルベラートの竜らしいよ。心配無いってシルフ達が言ってます」

 その言葉に、周りにいた生徒達はホッとしたように笑った。声が聞こえなかった遠くの者達も周りの人からレイの言葉を聞き、安心したようにもう一度空を見上げた。

「オルベラートからの竜って事は、何か有ったのか?」

 マークとキムだけでなく、近くにいた第四部隊の兵士達が顔を寄せて小さな声で相談を始める。

「ちょっと確認してくる」

 そのうちの一人が、精霊通信の出来る専用の部屋に行こうとした時、レイの肩や腕にシルフが並んで座った。

 周り中がその瞬間に静まり返った。



『ルークです』

『レイルズは今大丈夫か』

「はい、えっと……食堂の中庭にいて、周りにいっぱい人がいるけど良いですか?」

 内密の話なら、ここで聞くのはまずいんじゃ無いかと思いそう言ったが、シルフは小さく頷くと口を開いた。

『今の竜見たか?』

「うん。訓練所のすぐ近くを通って行ったよ。始めて見たけど、すごく大きな竜だったね」

 レイは出来るだけ大きな声でそう話した。周りは異様なほどに静まり返っている。

『隣国のオルベラートからの使者だよ』

『心配無いと周りの人達に言っておいてくれるか』

『それからすまないが迎えを寄越したので』

『今日は授業は中止して直ぐに戻って来なさい』

 恐らくそうなるだろうと思っていたので、頷いて返事をした。

「わかりました。じゃあ戻ります。皆には何にも心配無いって言って良いんだね」

 念の為、もう一度はっきりと言葉にして確認する。

『ああ心配無いよ』

『安心してしっかり勉強するように伝えておくれ』

「わかりました。じゃあね」

 手を振っていなくなるシルフ達に手を振り返し、顔を上げた。

 一斉にざわめきが戻り、教授の指示でそれぞれが建物の中に戻って行った。



「えっと、せっかく自習室を借りてもらったけど、帰らないといけなくなりました。ごめんなさい」

 此の所、連日授業が終わってからも自習室を借りて、リンザスやヘルツァーにお願いして、マークと一緒に上位の魔法陣の展開方法や難しい計算方法を繰り返し教えてもらっているのだ。おかげで、レイルズとマークでも、何とか少しは自信を持って出来ると言える程度には解ってきたのだ。

「構わないよ、じゃあ続きはまた今度だな」

「ああ、気にするな。今日はお前の分もマークが勉強してくれるってさ」

 二人が手を振って気にするなと言って笑ってくれたので、とにかく食堂に戻りながらマークやキムにも謝った。

 食堂の机には、全員の食べかけのトレーが置きっぱなしだ。すっかり冷えてしまった料理を、誰も文句を言わずに黙々と食べた。

 食後のお薬を飲んで、いつものカナエ草のお茶を入れる。しかし、大急ぎで飲もうとしたが熱くて飲めない。困っていると、机の上に現れた水の精霊達が、頼んでもいないのに蜂蜜を入れた熱々のお茶をあっという間に冷ましてくれた。

「ありがとうね、姫」

 こっそり笑ってお礼を言って、大急ぎで冷ましてもらったお茶をカナエ草の薬と一緒に飲んだ。それからちょっと考えてベルトの飴入れからのど飴を三つまとめて口に入れた。

 一息ついた時、まるで待っていたかのように教授が現れて、レイルズを呼んだ。

「レイルズ。迎えが来ているよ。直ぐに戻りなさい」

「はい、今行きます」

 立ち上がってトレーを返そうとしたが、マークが笑って手を差し出して止めた。

「一緒に戻しておいてやるよ。構わないから行けよ、また明日な」

「お疲れさん。また明日な」

 マークとキムにもそう言われたので、お礼を言って足元のカゴに置いた鞄を持った。

「ありがとう。それじゃあ先に帰ります。また明日ね」

 手を振って、鞄を抱えて教授の元へ急いだ。

 大急ぎで外に出ると、門の外にはゼクスを連れたキルートが待っていてくれた。

「ありがとうございました」

 見送ってくれた教授にお礼を言って、急いでゼクスに飛び乗った。

「ありがとうキルート、じゃあ戻ろう」

 二匹のラプトルは、早足で本部へ向かった。

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