二日酔いとミルク粥

「殿下。ご無沙汰致しております。タキスです」

 気を取り直したタキスは、顔を上げてまずアルス皇子の寄越した伝言のシルフに挨拶した。

『タキス殿』

『先日はマイリーの為に』

『沢山の貴重な薬をありがとうございました』

 数人のシルフが最初に来たシルフの横に次々と現れて並んで座り、順番に言葉を途切れ無く繋いで話した。これは蒼竜の使う声飛ばしとは違い普通のシルフの声で届けられるが、それでも声飛ばしの中では上位の技だ。

「いえ、薬は使わなければ存在しないのと同じです。お役に立てたようで良かったです」

 初めて会った時に、言葉使いには気を使わなくて良いと言われている。

 正直、はいそうですかと従うのもどうかと思うが、アルス皇子だけでなく、皇王様やマティルダ様にもそのように言われてしまい、もうある意味開き直って普通の貴族に対するように話している。

『おかげでマイリーの容体も安定しています』

『我々は数日前に国境の砦から』

『ようやく王都に戻ってまいりました』

『竜騎士隊の皆にも』

『久し振りに休暇を取らせる事が出来ました』

 ニコスとギードも、すぐ近くまで来て、シルフを覗き込むようにして話を聞いている。三人は互いに顔を見合わせて頷いた。

「それは本当にお疲れ様でした。レイから少し聞きました。皆様にお怪我はありませんでしたか?」

『ええ大丈夫ですよありがとうございます』

『私達も竜達も皆元気です』



 何となく、互いの様子を伺っているような奇妙な沈黙が降りる。



『それでようやく受け入れ準備が整いましたので連絡しました』

『予定よりも少し早いですがそちらはどうですか?』

『秋の収穫はもう終わりましたか?』

 目を閉じて小さく深呼吸すると、一つ頷いてシルフを見た。

「はい、おかげさまで無事に終わりました。それに昨日と一昨日は、皆でブレンウッドの街へ小旅行を兼ねて買い出しに行っておりました」

『そうでしたか』

『それは楽しそうだ良かったですね』

 小さく笑うアルス皇子の声をシルフが届ける。

『それで本題に入りますが』

『明後日ロベリオとユージンをそちらに寄越します』

『ご迷惑をお掛けしますが』

『また一泊させてやってください』

『その後彼らが戻る時に一緒に』

『レイルズとラピスをこちらに来させてください』

「明後日……了解しました。ロベリオ様とユージン様のお二人ですね。もちろん大歓迎です」

 思わず言葉に詰まって俯くタキスだった。

「お帰りの際に、お言葉通りにレイを同行させます。どうか……どうかあの子の事をよろしくお願い致します」



 見えないと分かっていても、深々と頭を下げた。下げずにはいられなかった。



『お任せください』

『出来る限りの事をすると約束しましょう』

『それから忘れないでください』

『あなた方との縁が切れるわけではありません』

『今後も必要に応じて』

『遠慮無く会っていただけますよ』

 まるで、こちらの心配を分かっているかのようなアルス皇子の言葉に、三人は揃って頷いた。

「本当にお気遣い感謝いたします」

『用件はそれだけです』

『遅くに申し訳ありませんでした』

『それでは皆様おやすみなさい以上です』

 最後の言葉を言うと、シルフが次々といなくなった。



 その後しばらくの間、誰も言葉を発することができなかった。



「とうとう……その日が来てしもうたな」

 絞り出すようなギードの声に、ニコスも言葉も無く頷いた。

 タキスはまだ、座って顔を覆ったまま動けないでいる。

「しっかりしろ。あの子が新たな世界に旅立つ大切な日じゃ。笑顔で見送るのが我らの仕事だぞ」

「ええ、ええ分かっています。分かっていますから、今だけ……今だけです」

「なら好きなだけ泣くがいいさ。ほら飲め。素面でいられるもんか」

 ウイスキーの瓶を持って、からかうように笑ったギードは、机に置かれたタキスのグラスに遠慮無く酒を注いだ。勢いよくそれを飲み干したタキスは無言でギードにグラスを差し出した。

 笑ったギードがまた酒を注ぎ、隣のニコスのグラスにも同じように注ぐ。瓶を受け取ったニコスが、ギードのグラスにも並々と酒を注いだ。

 誰も、高価な酒だから勿体無いとか、そんな無粋な事は言わなかった。






『おはよう』

『おはよう』

『朝だよ』

『朝だよ』


 いつものようにシルフに起こされたレイは、顔を洗ってから身支度を整えて居間に行き、目の前の光景に息が止まりそうになった。



 明るい居間には誰もいない。



 竃の火は落とされたままだし、台所には三個のグラスが使われたまま置かれている。そして台所の机には、何故か空の硝子瓶が何本も並んでいた。

「ねえシルフ……皆は? 皆は何処にいるの?」

 不安で足が震えたが、とにかく皆が心配だった。

 ところが、現れたシルフ達は笑いながら、一斉に同じような言葉を言った。


『酔っ払い酔っ払い』

『お酒いっぱい』

『飲んだよ飲んだよ』

『酔っ払い酔っ払い』


 それを聞いたレイは、堪える間も無く吹き出した。

「ええ?待ってよ。それってつまり昨日の夜、僕が休んだ後に皆がいっぱいお酒を飲んで、えっと何だっけ……そう、二日酔いだ。あれになってるって事?」


『そうそう』

『そうそう』

『頭痛い』

『ガンガン』

『ガンガン』

『起きられない』

『起きられない』


「大変だ! 僕がもらったお水を飲ませてあげないと。えっと手伝ってくれる?」

 慌てて綺麗なコップを戸棚から取り出したレイに、机の上に現れたウィンディーネ達が笑って首を振った。


『もう飲ませた』

『でも駄目』

『あれは駄目』

『飲み過ぎ飲み過ぎ』

『駄目な大人』


「駄目な大人って……」

 コップを持ったまま困っていると、扉の向こうから突然ニコスが顔を出した。

「うう、さすがに飲みすぎたぞ。二日酔いなんていつ以来だろう……」

 ほとんど開いていない目で、頭を抑えてふらふらと居間に入って来たニコスは、どうやらレイに全く気付いていないようだ。

 いつもならそんな事あり得ないが、レイはブレンウッドでの自分を思い出してちょっと笑ってしまった。

「ええと、落ち着け。まずは水を飲もう……姫、水を頼むよ」

 よろよろと、戸棚に行って、コップを取ろうとしているが、手を伸ばしているのはその下の棚のお皿が並んでいる場所だ。

「水をお願い」

 コップを差し出して小さな声でレイがそう言うと、ウィンディーネがコップの縁に現れて、コップいっぱいまで水を出してくれた。

「ありがとうね」

 小さな声で笑ってそう言うと、黙ってニコスの目の前にそのコップを差し出した。

「おお、ありがとう」

 コップを受け取ったニコスは、そのまま一気に水を飲み干した。

「ああ美味い、身体中に染み渡るな。もう一杯くれ」

 また、縁に現れて水をいっぱいまで出したウィンディーネは、すぐに消えてしまった。

 それを疑いもせずに飲み干して、それからようやく、レイがすぐ側に立っている事に気が付いた。

「ええ、いつからそこにいるんだよ! レイ」

 驚きのあまり仰け反るようにして叫ぶニコスを見て、レイは堪えきれずにまた吹き出した。

「おはようございます。始めからここにいたよ。ニコスが気づいて無かっただけ。って言うか、大丈夫? 朝ごはんは僕が用意するから、ニコスは座っててよ」

「ああ、おはよう。参ったな。全く気づかなかったよ」

 椅子に座ったニコスは、苦笑いしてまた頭を抑えた。

「パンはどうする? 仕込んだのがあればそれを焼くけど」

 食材の入った戸棚を開けてみたが、前夜に仕込んだものは無さそうだった。

「ああ、仕込んだのは地下にあるんだけど、姫達が守ってくれてるから急がないな。あれは昼に焼くよ。今朝はミルク粥を作るから手伝ってくれるか」

 声は元気そうだが、よろよろと立ち上がろうとするのを、肩を押さえて止める。

「僕がやるからニコスは座ってて。分からなかったら聞くよ。えっと、ミルク粥ならこれだね」

 食材の入った戸棚から、粥に使う、押しつぶした燕麦えんばくという種類の麦が入った箱を取り出した。ここではオーツ麦と呼んでいる。

 もちろん、これもここで作っている作物の一つだ。



 水を入れた鍋を竃に置いて、火蜥蜴を呼んで火をつけてもらう。隣には大きなやかんに水を入れて置いた。

 鍋のお湯が沸いたら、取り出したオーツ麦を専用のカップに四杯分入れて一段高い場所に移して遠火にした。

 何度か混ぜてそのまま火にかけておく。

 それから床にある小さな扉を開いた。ここは、地下の食料庫と同じでひんやりとしているので、すぐに使うミルクや生肉、ハムや薫製肉などを保存しているのだ。

 そこから山羊のミルクを取り出すと、ふやけてきたオーツ麦にカップに四杯のミルクを追加した。

「吹きこぼれないようにしないとね」

 木の匙で優しく混ぜながら振り返った。

「えっと、味付けはどうする? 蜂蜜で良い?」

 座ってまだ水を飲んでいたニコスが、戸棚を指差している。

「ああ。そこの戸棚にドライフルーツが入ってるから、それも入れてくれるか。味付けは蜂蜜で良いよ」

「えっと、これだね」

 戸棚を開けて、何種類ものドライフルーツが混ざった大きな瓶を取り出した。

「その匙に四杯だな。それぐらいたっぷり入れてくれて良いよ」

 瓶に入っていた大きめの匙で、言われた通りに四杯すくって鍋に入れる。

「水気が足りないや。もうちょっと、ミルクが入りますよー!」

 一気に華やかになった鍋にだんだん楽しくなってきたレイは、鼻歌交じりにそう言って適当にミルクを追加で入れ、また木の匙でせっせと混ぜる。

 大きな蜂蜜の瓶も取り出して、ちょっと自分好みに甘めの味付けにした。



「でっきあっがりー!」

 鍋に蓋をして、机の上に置く。すぐに現れた火蜥蜴を撫でてニコスを見た。笑って頷いてくれたので、戸棚から人数分の食器を取り出す。

 丁度その時、先ほどのニコスよりももっと草臥れたタキスが、無言でのっそりと居間に入って来た。

 髪の毛は寝癖がついたままだし、見た事が無いくらいに眉間に皺が寄っている。

 無言のままいつもの席に座ると、机に置かれていた先ほどニコスが飲んだコップを手にした。

「姫……水をお願いします……」

 呆れたような姫が、コップに縁に座って水を出してくれた。

「もう一杯お願いします……」

 一気に飲み干すと、またコップを置く。三杯飲んで、ようやく顔を上げた。

「良い匂いがします。これはミルクがゆですね。素晴らしい、さすがはニコスだ。良く分かってくれている……」

 そう言って、そのまま机に突っ伏してしまう。もう、レイは笑いをこらえるのも限界だった。

「タキス、しっかりしてよ。ミルクがゆは僕が作ったんだよー!」

 わざわざ側まで行って、耳元で大きな声で言ってやる。

 その声に飛び起きたタキスは、呆然とレイの顔を見た。

「おはようございます。タキス、大丈夫? 食べたらまた寝てても良いよ」

「おはようございます。大丈夫ですよ、姫の水のおかげで元気になりましたから」

 笑ってそう言うと、レイの頬にキスをした。レイもタキスの頬にキスを返した。



「おはようさん。いやあ、久々に飲みすぎたわい」

 そう言う割にはいつも通りのギードが最後に居間に入って来た。

「おはようございます。ギードは大丈夫みたいだね」

 からかうようなレイの声に、ギードも笑顔になった。

「いやいや、結構まだ夕べの酒が残っておりましてな。さすがにいつもの食事は無理そうですぞ」

 撃沈している二人に比べたら一番元気そうなギードだが、肉や玉子はいらないと言うあたり、これでも一応二日酔いらしい。

「大丈夫だよ。今朝は僕が二日酔いの皆の為に、蜂蜜とドライフルーツ入りのミルクがゆを作りました!」

 鍋を指差しながらそう言うと、ギードは嬉しそうに笑った。

「おお、それは素晴らしい。なら早速いただくとするか」

 ギードの言葉に、二人も顔を上げて座り直した。レイは大きい方のやかんを持って来て机に置いた。

 戸棚からいつも皆が飲んでいるお茶の葉を取り出して大きい方のポットに入れる。自分用には小さなポットにカナエ草の茶葉を入れて、カップと一緒に机に持って行った。

 それからちょっと考えて、床の扉を開いて、ハムの塊を取り出して自分の分だけ適当に切った。

 何となくいつもより長いお祈りの後、それぞれに食べ始めた。

「これは美味い。美味くて甘くて……涙が出そうじゃ」

 粥を食べながら、ギードがしみじみと言う。タキスとニコスも、食べながら何度も頷いている。

「大袈裟だなもう。ミルク粥ぐらいギードでも作れるでしょう」

 照れたように笑うレイを見て、タキスは不意にこぼれた涙を誤魔化すように、わざと欠伸をして涙をふいた。




 食後のお茶を飲みながら、レイが呆れたように改めて三人を見た。

「それで、どうして皆して二日酔いだったの?」

「それは……」

 すっかり顔色の戻ったタキスが口籠る。

「まあ、飲み過ぎることもあるよね。あの赤いワインは僕も美味しかったもん。それじゃあこれを飲んだら、僕はいつものお世話をしてくるから、皆はここで休んでいてよ」

 そう言って笑うレイに、タキスは向き直った。

「レイ、聞いてください。実は昨夜、殿下から連絡がありました」

 驚いて顔を上げるレイの顔を、タキスは正面から見つめた。

「明日、ロベリオ様とユージン様が来て下さるそうです。一泊して頂きます。そして、お二人がお帰りになる時に……貴方も一緒に行くんですよ」

 目を見開いて声も無いレイを、タキスは正面から抱きしめた。

「いよいよですよ。貴方の新しい旅立ちの時です。貴方の、これからに……幸……多からん事を……」

 そう言って力一杯、大きくなったその身体を抱きしめた。

 レイも、言葉も無く抱きしめ返す。

 まるで、離したらその瞬間に何もかも消えてしまうのではないか。突然そんな不安に襲われて、縋るようにタキスの身体を抱きしめたまま、何も言う事が出来なくなったレイだった。

 ニコスとギードも、両隣に来て、そんな二人ごと両方から抱きしめてくれた。



 四人とも言葉も無く、長い間そうしていたのだった。

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