王妃様とペンダント

「マティルダ王妃様……」



「はい、そうですよ」

 笑みを含んだ返事に、ようやく事の重大性に気付いたレイは、慌てて跪いた。

「し、知らぬとは言え失礼を致しました」

 必死で頭を下げながら、レイの頭の中はパニックになっていた。こんな時どうしたら良いのか全く分からない。

 どうしよう、誰もいない時にこんな事になるなんて。マイリー達が戻ったら、絶対に叱られる。後見人の話だって白紙になるかもしれない。

 泣きそうな顔で頭を下げ続けていると、頭上で小さなため息が聞こえた。

「ねえ、顔を上げてくれない? せっかく仲良くなれたと思ったのに。別に私は貴方に怒っている訳じゃ無いわ」

 優しいその声に恐る恐る顔を上げると、すぐ近くでレイの事を覗き込む綺麗な青い瞳と目が合った。

 慌ててまた頭を下げると、ごく軽く頭を叩かれた。

「立ってこっちにいらっしゃい。貴方と話がしたいわ」

『レイ、立ちなさい。そこまで其方が萎縮する必要はない』

 レイの目の前に現れたシルフが、ブルーの声でそう話したが、はいそうですかと聞ける話では無い。

「ブルー、どうしたら良いんだよ?」

 泣きそうな小さな声で囁くと、肩に座ったシルフがレイの頬にキスをした。

『顔を上げて立つが良い。そして彼女の元へ。今日はその為に来たのだろう?』

 確かにブルーの言う通りだ。覚悟を決めて大きく深呼吸すると、レイは顔を上げた。

「失礼します」

 ゆっくりと立ち上がると、言われた通りに庭を見る様に窓辺に外向きに置かれたソファに向かった。

 この部屋の庭に面した壁は、床まで全て硝子が嵌め込まれていて、出入りの為に一部が開く仕組みになっている。ソファに座ると、見事な庭を一望できる様になっているのだ。

 ソファに座った王妃は、笑顔で自分の隣を叩いて、ここに座れと合図している。

 ここまで来たら、今更遠慮するのは返って失礼だろうと判断し、一礼して隣に座った。

 ただし、右手と右足が一緒に出ていた様な気がしたのは、多分気のせいではないだろう。



 その時、物音がして執事がお茶とお菓子を運んで来た。目の前の低いテーブルに空のカップが音も無く置かれた時、レイは助けを求めて声を上げそうになった。

 しかし、グラントリーはそんなレイにちらりと目をやると、小さく一礼してそのまま出て行ってしまった。

 礼儀作法に詳しい人物に助けを求める暇も無く、また王妃と二人きりになってしまった。




 王妃がポットを持って、レイの目の前に置かれたカップにお茶を注ぐのを見て慌てた。もしかして、これは自分がやらなければいけなかったのだろうか?

「さあどうぞ。あの苦いお茶が、蜂蜜を入れるとこんなに美味しくなるなんてね」

 蜂蜜が小さな匙で入れられ、そのまま混ぜてくれる。目の前の湯気を立てるカップを見て、思わず顔を上げた。

「どうしたの?」

 こっちを見る彼女は、面白そうに首を傾げている。

「い、頂きます」

 そっと口にしたカナエ草のお茶は、いつもの味だ。ちゃんと味が分かる事に密かに安堵した。



 レイが口を開こうとしたその時、膝の上に音も無く、またあの猫が飛び上がって来た。

「あ、いつの間に。何だよ、君の為の椅子で寝てたんじゃないのかい?」

 そう言いながら小さな額を撫でてやると、猫は嬉しそうに喉を鳴らした。

「すっかり貴方の事が気に入ったみたいね。レイ、ちょっと妬けるわよ」

 王妃が指先でふかふかの背中を突くと、猫は小さく鳴いてまた喉を鳴らした。しかし、彼の膝から降りる様子は無い。

 落ち着いてくると、母の声にそっくりのその声を、もっと聞きたいと思った。

「あ、あの……」

「はい、何ですか?」

「先程は失礼致しました。改めまして……レイルズ・グレアムです。よろしくお願い致します」

 カップをテーブルに置いて、猫を膝に乗せたままではやや間抜けな状態だが、できるだけ丁寧に頭を下げる。

「マティルダ・ウィング・ドラゴニアよ、よろしくね。古竜の主よ」

『ブルーだ。呼び名はラピスラズリ。ラピスと呼ぶが良い』

 レイの肩に座ったシルフが、ブルーの声で堂々と名乗る。

「改めてようこそオルダムへ、ラピスラズリよ」

 先程までの軽い口調では無く、厳かとも言えるその静かな声に、レイは改めて頭を下げた。

「頭を上げなさいレイルズ。竜の主はそう簡単に頭を下げるものではありませんよ」

 肩を叩かれて、驚いて顔を上げる。

「そう、顔を上げて常に堂々としていなさい。貴方がこうべを垂れるのは陛下と精霊王だけです」



 その時、突然レイのペンダントが跳ねた。



 現れた光の精霊達が、レイの頭の上を嬉しそうにくるくると回り始めた。


『見つけた見つけた』

『かの人のえにしに繋がるお方』

『ここは良き場所』


「お前達、急にどうしたの?」

 慌てて立ち上がったレイを、王妃は呆然と見つめていた。

「どうしたのレイルズ? 急に立ち上がったりして」


『どうやら我らが見えぬらしい』

『残念残念』

『未だ時は至らず』


 不思議そうに首を傾げる王妃を見て、精霊達はあっという間にペンダントに戻ってしまった。

「あ、また……」

 レイの手の中のペンダントは、素朴な木彫りの竜から、繊細な銀細工の石を守る竜に変わっていた。

「そのペンダントは……」

 王妃は、レイの胸元の銀細工のペンダントを呆然と見つめている。

「そのペンダント、見せてもらっても良いですか?」

 その声に頷くと、レイは差し出された白い手に銀細工のペンダントを乗せた。

「まさかこんなところで会えるなんて……お婆様が生きていらしたら、さぞ喜ばれたでしょうに……」

 そっとペンダントを両手で包むと、目を閉じて頬を寄せた。

「私は祖母からこのペンダントと同じ物を受け継ぎました。その時に祖母からお願いをされました」

 レイは黙って聞いている。

「もしもこの先、同じペンダントを持つ者が現れたなら、必ず味方になって差し上げろ、と。翠、紅、私の青、他にも色があると言われました。でも、決して同じ色は無いと。貴方は何処でこれを手に入れたのですか?」

 ペンダントをレイの首に掛けてくれると、王妃は正面からレイの顔を見つめた。

「これは母さんが持っていたんです。亡くなる時に僕にくれました」

「お母上が?」

 母さんと同じ声の方に、母さんの話をするのは不思議な気分だった。

「でも、亡くなる直前まで、木彫りの竜だったのに……気が付いたら銀細工に変わってました。母さんは、この中にいる子達が僕を助けてくれるだろうって、そう言ってくれました」



 王妃は頷くと、テーブルに置かれた小さなベルを鳴らした。すぐに執事が現れた。



「私の宝石箱から、お婆様の形見の銀細工の竜のブローチを持って来て」

 一礼して下がった執事は、直ぐに言われたブローチを持って戻って来た。布を敷いたトレーの上のそれは、静かに美しい光を放っている。

「本当だ、同じだね」

「眼の色と、石の色も違うけど、他は同じね」

 レイの呟きに答えるように笑った王妃が手に取ったそのブローチは、やや薄い青い瞳の竜だ。寄り添い守っている石は、蜂蜜のような濃厚な黄金色の傷一つも無い見事な丸い琥珀だった。

 その時、王妃の石から二人の光の精霊が飛び出して来た。


『見つけた見つけた』

『我の見える石の持ち主』

『見つけた見つけた』

『新たな主人』


 嬉しそうにそう言うと、レイのペンダントの中にあっという間に飛び込んでしまった。

「ええ? どういう事?」

 見知らぬ精霊の突然の行動に呆気に取られている間に、ペンダントはまた元の木彫りの竜に戻ってしまった。

「あの……」

「どうしたの? まあ、ペンダントが木彫りの竜に戻ってしまったわね」

「はい、戻っちゃいました」

 もう驚きすぎて、何が何だかさっぱり分からない。とにかく落ち着く為に、お茶を一口飲んで大きく深呼吸した。

「えっと、王妃様は、精霊達が見えるんですか?」

「ええ。でも精霊魔法の才能は無かった様で、勉強はしたけれど、結局、風の一つも起こす事は出来なかったわ」

「あの……見えて無かった様なんですが、その王妃様のブローチに光の精霊がいて、その子達が飛び出して来ました……」

 果たして、その精霊達が自分のペンダントに勝手に入ってしまったなんて言って良いのだろうか?

 何と言ったら良いのか分からず困っていると、王妃は嬉しそうに笑った。

「もしかして……貴方は光の精霊が見えるのね?」

「はい、見えます」

 小さく頷いて口を開こうとしたら、王妃はそれを遮る様に小さく頷いた。

「それなら、このブローチにいた光の精霊は貴方のペンダントに入ったのね」

「えっと、どうしてそれを?」

 光の精霊が見えないのに、何故分かったのだろう。

 レイの疑問に、王妃は手の中のブローチをじっと見つめた。

「お婆様から聞かされたわ。この中には私には見えない精霊が入ってるって。もしもその子達が新たな主人を見つけたなら、笑って送り出してやりなさいって。その子達には、ここは仮初めの宿なんだって」

 その言葉に、レイは以前ニコスから聞いた話を思い出した。

「えっと、王妃様のお婆様って、アルカーシュから嫁いで来られたお方ですよね?」

「そうですよ、よく知っていましたね。お婆様は若くしてアルカーシュから嫁いで来られたわ。ずっと、ずっとアルカーシュに帰りたがっておられた……」

 アルカーシュがどんな運命を辿ったのか聞かされたレイは、うつむいて精霊王への祈りの言葉を呟いた。

「ありがとう、竜の主の祈りなら、きっとお婆様の元に届くわね」

 小さく笑うと、レイの背中を優しく撫でてくれた。



「良かった。どうやら緊張は解れた様ね」

 悪戯っぽく笑うその声に、レイはまた母を重ねてしまい、突然にあふれる涙を我慢出来なかった。

「あ、失礼し、まし、た……」

 涙としゃっくりが止まらなくて、必死に我慢して息を整える。

 突然泣き始めたレイに、王妃は慌てて衝立の向こうに視線で助けを求める。

 驚いたマイリーが立ち上がった時、彼の存在に気付かないレイは無理矢理顔を上げて袖で涙を拭いた。

「失礼しました。王妃様のお声が、母さんにそっくりで、それでつい懐かしくて……」

 またあふれて来た涙を、俯いて必死で堪える。膝の上の猫が、俯いたレイの鼻の頭を優しく舐めてくれた。

「まあ、お母上に? 私の声が似ているの?」

 膝の上の猫を撫でてやりながら、俯いたまま小さく頷いた。

「はい、こんな事言ったら失礼なのかもしれませんが、本当に、本当にお声がそっくりなんです。お顔もよく似てます。僕は母さんからレイって呼ばれていたから、さっき庭で王妃様がこの子の事を呼ばれた時、自分の事を母さんが呼んでくれたみたいで、すごく、すごく驚いたけど……嬉しかったんです」

 涙を堪えて無理に笑うその姿に、王妃は黙ってレイを抱きしめた。

「レイ、お母上はきっとここにいるわ。貴方のことをずっとずっと見守っているわ」

 そう呟いて、レイの額に優しくキスをした。

「こんなに良い子を置いて逝かなければならなかった貴方のお母上は、さぞかし心残りだったでしょうね。これからは、私の事を母と思ってくれて良いのですよ。貴方のお母上の分まで、側にいるわ。それから、私の事はマティルダと呼んでくれて良いのよ」

「えっと……じゃあマティルダ様」

 さすがに幾ら何でも、王妃様を呼び捨てには出来まい。

「そうね、じゃあそう呼んでくれる?」

 そう言って笑うとゆっくりと立ち上がり、日の暮れた庭にレイを誘った。

 涙を拭いたレイは、立ち上がって王妃に続いて庭に出た。

 膝から降りた猫のレイも、尻尾を立てて二人の後をついて来た。




 いつの間にか日は暮れていたが、庭の至る所にランタンや松明が灯されていて、足元も明るく、歩くのに不自由は無い。

 噴水の横を通り抜け、その先にあったのは小さな四阿あずまやだ。

 それは、太い六本の柱と屋根だけの壁が無い不思議な建物で、屋根の下には椅子と机が作りつけられていた。

 そこに並んで座った二人は、しばらく黙って光に照らされた庭を見つめた。レイの膝には、当然のように猫のレイが座っている。



「これから、貴方はここで多くの事を学び、また多くの人と知り合うでしょう。辛い事もあるでしょう、嫌な事だってもちろんあるでしょう。それでも、竜の主として恥ずかしく無い行いをなさい。貴方が誠実である限り、私は常に貴方の味方ですよ」

 静かに語られたその言葉に、顔を上げたレイは大きく頷いた。

「はい、僕に何が出来るか分かりませんが、精一杯学びます。精一杯鍛えます。それから、えっと……」

 それを聞いた王妃は、小さく吹き出すとレイの手を取った。日々の訓練と農作業で硬いマメの出来たその手を。

「何もかも一気に出来る者などおりません。貴方はまだ若い。急がず確実に学んで一歩ずつ前に進みなさい。ねえマイリー、貴方もそう思うわよね」

 振り返ったレイが見たのは、噴水の後ろから現れたマイリーとガンディ、それにタキスの三人だった。

「どうやら、面会は上手くいったようだな」

「なんじゃレイの奴、レイルズの膝を占領しておるではないか」

 マイリーとガンディは、笑いながら四阿に上がって来て空いた椅子に座った。

 後ろで戸惑うタキスに、ガンディがレイの隣の椅子を指差した。

「ほれ、お前も座らんか」

「し、失礼します」

 一礼したタキスが自分の隣に座るのを見て、レイは思わず口を尖らせた。

「皆、全然帰ってこないから、どうしようかと思ったよ」

「すまんすまん。まさか猫が乱入するとはな。予定外だったわい」

 笑いながらそう言ったガンディの言葉に、レイは思わず叫んだ。

「待って! もしかして、皆いなくなったのも面会の予定の内だったの?」

 同時に三人が吹き出すのを見て、レイは叫んだ。

「狡いよ! せめて教えて! ものすごく緊張したんだからね!」

「良いんだよこれで、まあ猫の乱入は予定外だったが、結果的には大成功だった訳だからな」

 笑いながらマイリーに肩を叩かれて、レイも笑うしかなかった。

「竜騎士隊の皆が僕の事をレイルズって呼ぶの、どうしてかなって思ってたんだけど、こういう訳だったんだね」

 膝の上の猫を撫でながらレイが笑うと、マイリーは堪え切れないように笑いながら頷いた。

「だって、俺達にとってレイってのはマティルダ様の猫の名前だったからな、正直、初めて名前を聞いた時、笑いを堪えるのに苦労したんだよ」

「もう皆酷いよ! ねえ、レイ、君もそう思うよね」

 膝の上にもふもふに顔を埋めながら、レイは堪え切れずに吹き出した。

 突然のレイの行動に迷惑そうに顔を上げた猫のレイは、彼の耳の後ろから首筋をせっせと舐め始めた。

「うわあ、さすがにそれはやめてレイ!」

 鳥肌の立った首筋を抑えて、慌てて顔を上げる。

 それを見ていた大人達は、もう一度盛大に吹き出したのだった。



 椅子の背に座ったブルーのシルフも、堪え切れないように何度も飛び跳ねながら笑っていた。

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