黒衣の男
肉屋から出て来たニコスは、ポツリと一頭だけで待っているポリーを見て驚いた。
「ポリー、レイはどうした?」
困ったように首を振ると、ポリーは悲しそうに一声鳴いた。あたりを見回しても、レイの姿は無い。
「レイ!どこにいる?」
ニコスの出した大きな声に、何人かの人間が振り返ったが、皆、素知らぬ顔で通り過ぎて行く。
「シルフ、レイは何処に行った?」
慌てたようなニコスの呼びかけに、現れた何人ものシルフが、首を振って同じ方向を指差した。
『迷子迷子』
『女の子を連れてあっちへ行った』
「……迷子の女の子を連れて、何処かへ行ったと?」
皆、一斉に頷いた。
「レイを探してくれ! 今すぐに!」
頷くと、シルフ達は一斉にいなくなった。
とりあえず、大急ぎで買った荷物を籠に押し込むと、ポリーの手綱を握って路地の角に立ち、大きなため息を一つ吐いた。
とにかく、シルフの知らせを待つ事にした。
「全く、何をやってるんだよレイ。この人混みでは、お前の方が迷子になるぞ」
もう一度大きなため息を吐いて空を見上げる。
腹が立つくらいに青い空に、綿兎の様な雲がのどかに浮かんでいた。
女の子の母親は無事に見つかったが、レイは自分が迷子になってしまいパニックを起こしていた。
冷静に考えれば、シルフ達を呼んで道案内してもらえば済む事なのに、この時のレイは、母親に抱きしめてもらえた女の子が羨ましくて、悲しくて、無意識の内に人混みの中に母親の姿を探していた。
しかし、当然見つかるわけも無い。
途方に暮れて立ち止まった時、急に咳が出て止まらなくなった。
「こんな時に……」
咄嗟に口元を押さえて道の端に寄る。しかし咳は止まらず、立て続けの酷い咳に、胸や背中まで痛くなって来た。
ベルトに付けた鞄に入っているのど飴を思い出し、急いで取り出す。
瓶の蓋を開けた瞬間、通りの奥で何かが倒れる大きな音が響いた。直後に、男の人の怒鳴り声と、更に何かが倒れる大きな音がした。
何事かと振り返ると、あちこちから悲鳴が上がり、どっと皆が一斉にこっちに向かって逃げて来た。
「退け! 小僧!」
大きな体の男性に力一杯突き飛ばされて、のど飴の瓶が手から飛ばされる。
咄嗟に拾おうと手を伸ばした時、何人もの人に弾き飛ばされ、脇腹を蹴られ、足を蹴られて転んでしまった。
「踏まれる!」
地面に倒れた瞬間、咄嗟に頭をかばって丸くなった。背中を蹴られて更に転がる。
本気で命の危険を感じた。
「危ねえな、おい!」
不意に背後から声がして、レイの脇から胸元に手が伸びて、まるで子猫を抱き上げるようにひょいと片手で軽々と持ち上げられた。
「こんな小さな子供を踏み殺す気か! お前ら!」
走り去る人達にそう怒鳴ると、レイを助けたその男は反対側を見た。
「ああ、喧嘩で刃物を出した馬鹿がいたのか。そりゃあ逃げてくるか。あ、守備隊様のご到着。ほうら捕まったし。本当に馬鹿だよな、街中で刃物なんか抜くんじゃねえよ」
面白そうにそう言うと、片手に持ったレイの事を思い出したようで、地面に降ろしてくれた。
その間、レイは恐怖のあまり硬直したまま男に子猫のように抱えられていた。
「大丈夫か? 何度か蹴られてたろう」
レイの目線に合わせるように、目の前にしゃがんでくれたその男は、真っ黒な服を着て、革の胸当てを付けて腰に剣を下げている。黒の革手袋をして腕には籠手、脛当ても付けている。
黒い、幾重にも重ねた布で頭を何重にも巻いている。隙間から覗く髪の毛も黒い。
そして、白い肌と対照的な、レイを覗き込むその瞳もまた濃い黒みがかったこげ茶色だった。
もしここに竜騎士隊のヴィゴがいたら、男を見た途端に剣を抜いて切りかかっていたろう。レイの目の前にいるのは、国境の戦いでルークに矢を射たあの男だった。
しかも、レイは知らぬ事だが、東の国境からブレンウッドの街までは、早くても八日は掛かる筈なのに、この男はわずか二日でこの街へ来ている。明らかに、普通の移動速度では無かった。
その男に正面から話しかけられたレイは、動く事が出来なかった。
優しい口調なのに、その男の目に見つめられた瞬間、身体に震えが走ったのだ。
それは、森の大爺に会った時に感じた、長い時を経た者だけが持つ、怖さと慕わしさが一体になった圧倒的な存在感、なんとも言い難いあの不思議な感じと同じだった。
「えっと……」
この目の前にいるのは、本当に人間なんだろうか?何故だかそんな疑問が湧き上がってきて、全く別の恐怖心に言葉が出てこない。
もう一度口を開いた瞬間、また咳が出た。それを見て慌てた男が、背中を撫でてくれる。
「のど、飴、が……」
何とかそう言ったら意味が通じたらしく、周りを見回して立ち上がった。
「ほら、これか? でも、殆どこぼれちまったな」
瓶の中には、僅かに五粒残っているだけだった。周りの地面には、踏み潰された飴の残骸が散らばっている。
受け取ったまままだ咳き込むレイを見て、男は腰につけていた水筒を、蓋を開けてから手渡してくれた。
「ほら、とりあえず水だけでも飲んどけ」
男に水筒を手渡されて、レイはそのまま飲んでしまった。
「あれ? これってまずかったかも……」
飲んでしまってから呟くと、呆れたような笑みを含んだ声が、頭の上から降って来た。
「おいおい。お前も、見ず知らずの男に渡された水、無警戒に飲んでるんじゃねえよ」
軽く頭を叩かれて、思わず言い返した。
「ご馳走さま。おじさん。これ、美味しい水だね。いつも飲んでるのと同じだよ」
「そりゃあ、ウィンディーネが出してくれる水だからな。美味いのは当然だよ……それと坊や、出来たら、俺の事はお兄さんって呼んでくれないかな?」
ふざけた様にそう言って笑うと、返された殆ど空になった水筒に蓋をして何度か振る。
それから、また蓋を開けて男も水を飲んだ。
驚いた事に、その水筒の傾き加減は緩やかで、満杯まで水が入っているように見える。
不思議に思って見上げていると、視線に気付いた男が笑って、水筒をベルトに戻しながら種明かしをしてくれた。
「この蓋のところにウィンディーネがいるんだよ。蓋をすると、いつでも水を満杯まで入れてくれるって訳さ。便利だろ」
簡単に言うが、誰にでも出来る事では無い。
のど飴を一つ口に放り込んで、レイはもう一度男を見上げた。
その時、男の態度が一変した。
「お前! これを何処で手に入れた!」
突然大声で怒鳴ると、レイの肩を掴み胸元の木彫りの竜のペンダントを掴んだ。
レイは咄嗟にその手を払いのけ、ペンダントを守るように握りしめて男を睨んだ。
レイの肩を掴んだまま、男も睨み返す。
無言の睨み合いは、突然目の前に現れた一人のシルフによって断ち切られた。
『そんな言い方は駄目よガイ坊やが怖がってる』
ガイと呼ばれたその男は、我に返ったように手を離し、レイの目の前の地面にゆっくりと座り込んだ。
「ああ、すまなかった。怖がらせるつもりは無かったんだよ。本当に悪かった」
先程と同一人物とは思えない、優しい口調でそう言うと、もう一度、そっとペンダントを手にした。
「坊や。これ、何処で手に入れたか教えてくれるか?」
「……母さんから貰った」
「お前の母さんから? その人は今、何処にいるんだ?」
「……亡くなったよ」
ペンダントを見ていた顔を上げて、驚いてレイを見つめる。
「亡くなった? 亡くなったのか……そうか、それは……残念だ」
また俯いて、心底悲しそうな声でそう言った。
「ようやく同胞に出会えたかと思ったのに……そうか、もう亡くなったのか」
赤の他人が母の死を悼み、悲しんでくれている。不思議に思い、勇気を出して聞いてみた。
「えっと、このペンダントが、どうかしたの?」
顔を上げた男は、自分の胸元に手をやると、自分の持っている、全く同じペンダントを取り出して見せてくれた。
しかも、彼のペンダントはレイのものよりも年季が入っているようで、翼の先や尻尾の辺りが、かなりすり減って全体に色褪せている。
「あ、同じだね」
それを見て、思わず嬉しくなって笑った。
ペンダントを両手で包むように持ったまま、なんとも言えない顔でレイを見つめていたが、また小さな声で話しかけて来た。
「お前、このペンダントの本当の姿を知ってるか?」
驚いて目を見開き、男の顔を見る。
「その様子だと、知ってるんだな」
指の隙間から見せてくれたそのペンダントは、レイの持っているのと同じように、見事な銀細工の竜の姿をしていた。
「目が赤いね。僕のは、緑だよ」
「そうか……緑なのか」
そっと、木彫りの竜の姿に戻ったペンダントを胸元にしまうと、男は泣きそうな顔でレイを見つめた。
「お前の母さんが、これを何処で手に入れたのか……生きているうちに聞いてみたかったよ。ようやく、同胞が見つかったのかと……思ったのに……」
余りにも悲しそうな男の様子に、レイは何と声をかけたら良いのか分からなくなった。
「それはそうとお前、一人か? 誰か一緒じゃないのか?」
男は気分を変えるように、顔を上げて聞いてきた。
「えっと……」
「お前、もしかして……迷子か?」
誤魔化すように笑って頷いた。
無言で顔を覆った男は、顔を上げて空中に向かって呼びかけた。
「シルフ、大至急この子の保護者を探せ」
先程のシルフの他にも何人も現れて、頷くといなくなった。
「あれ? あのシルフって……」
それは、ケットシーの親を探すときに見た、ニコスの指輪にいつも入っていると言う、少し色の濃いシルフ達と同じだったのだ。しかも、少し大きい。
「お前、その歳でシルフの見分けが付くのか? すごいな、さすがは竜人だ」
感心したように、しげしげとレイの顔を見つめる。
「ん? ……なんだ?」
強い視線から逃げるように後ずさると、距離を詰められた。
「まさか……お前、もしかして人間か?」
まさか見破られるとは思っていなくて、またパニックになりかけた。
『いたよいたよ』
『連れてくるね』
その時、目の前にシルフ達が現れてそう言った。
「ああ、すまんが連れて来てくれ」
頷いたシルフ達は、くるりと回っていなくなった。
「まあ良い。祭り見物にはいろんな奴が来るよな。俺も人の事言えないからな」
肩をすくめると立ち上がった。その男は、見上げるほどに背が高かった。
その頃、知らせを待っていたニコスの元に来たのは、シルフの知らせを聞いたギードだった。
別行動で酒を買いに行っていたのに、どうやら知らせを聞いて大急ぎで走って戻って来たらしく、かなり息を切らしている。
「おい、レイが、いなくなったと、言うのは、本当、か? まだ、まだ見つからんのか!」
「すまん。金を払っているほんの僅かの間に、迷子の女の子を連れて何処かへ行ったらしい。今、シルフに探させている」
「おお、そうか……迷子の女の子……あの子らしいの。困っていたら見捨てておけぬ」
「でも、それで自分が迷子になってたら世話無いよな」
その時、一人のシルフが目の前に現れた。
『見つからない』
『どうしよう』
『見つからないの』
泣きそうな声でそう言うと、くるくると飛び回ってあたりを跳ね回った。
「落ち着け。見つからないってどう言う事だ?」
『分からない分からない』
『見えないの』
「何故、シルフに見つけられん? 一体どう言う事だ?」
二人が、不安そうに顔を見合せる。
不意に目の前に、またシルフが現れた。それは、色の濃い、少し大きなシルフだった。
「え? いつの間に……いや、違うな。お前は何処のシルフだ?」
ニコスが別人の様な厳しい声で、シルフに問いかける。
『見つけたあの子のオーラと同じ色の人』
『こっちこっち』
『貴方達の探してる子はこっちにいる』
笑ったシルフの周りに、いつものシルフ達が現れた。
『見つけた見つけた』
『彼女が教えてくれた』
『こっちこっち』
「何がどうなってるのかよく分からんが、とにかくついて行こう」
「ああ、そうだな。今はとにかくレイを見つけるのが先だ」
ポリーの手綱を引いて、二人はシルフ達の案内で通りを抜けて走って行った。
シルフに連れられて別の通りを進んだ先で、二人は道の端に立つレイの姿を見つけた。
「レイ!」
「おお、無事だったか」
ポリーの手綱を離したニコスが、駆け寄って来て力一杯レイを抱きしめた。
「全く、あれ程勝手な行動は取るなと言ってたのに。この馬鹿者が!ああ、本当に良かった」
「良かった、良かった」
二人共、それまで平静を装っていたのに、レイを見つけた途端に、半泣きになりながら、何度も何度も小さくなった身体を抱きしめた。
ポリーまでもが、側に駆け寄って来てレイの肩や頭を甘噛みした。
「ご、ごめんなさい」
レイもまた、抱きしめられたニコスの胸に縋り付いて泣き出してしまった。
その様子を面白そうに眺めていた男は、シルフ達が戻って来たのを確認して、自分の籠手に付けた石の中にシルフ達を戻した。
「あんたがこの子の保護者か。その様子だと、特に問題も無さそうだな」
もしも虐待を受けている様なら、本気で連れて行くつもりだったのだが、少年を抱きしめているその様子を見たら、その必要が無いのは一目瞭然だった。
「この人が、助けてくれたの。えっと、あっちで騒ぎが起こって皆が逃げて来て、転んで踏まれそうになった時に助けてくれたんだよ。あ、まだお礼を言ってませんでした。助けてくれてありがとうございました。おじ……お兄さん」
「良いぞ。素直な子は好きだぞ」
レイの頭を撫でながら笑うその男を見たギードは、呆然と呟いた。
「アルカディアの民……」
そして、ニコスもまた、その男を見て呆然と呟いた。
「アルカディアの、いや……
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