猫の幻獣の雛

「今、その子が助けてって言ったよ……」

 シルフにぶら下げられたままの、猫だと思っていたそれは、レイに向かって確かに、助けて、と言ったのだ。

「駄目です。触ってはいけません」

 タキスに肩を抑えられて動けなくて、咄嗟にその手を払った。

「どうして。あの子は助けてって言ってるのに」

 自分でも驚く程の強い声が出た。無言のままタキスと睨み合う。

「やめておけ、あれは気軽に手を出して良いものではない」

 ギードまで、そんなことを言う。

「だから、どうしてだよ。だって、あの子はまだ子供でしょ」

「レイ、もうそれくらいにしなさい」

 ニコスまでそう言うと、握り締めたレイの手を抑えた。

「タキスの言った通りだよ。あれはケットシー。猫の幻獣の雛で、今はまだ子供なので大人しいが、大きくなると山羊より大きくなるし、知能もとても高くなる。だけど、基本的な性格はとても獰猛。本来、人と絶対に関わってはいけない類の生き物なんだよ。分かるか? 今、可愛いからと言って迂闊に手元に置いても、直ぐに育って手に負えなくなる。しかも幻獣の寿命は人間よりもはるかに長い。そんな生き物が、人の作る食事の味を覚えてしまえば……その後どうなるかは、賢いレイなら、少し考えれば分かるよな」

 諭すように言われて、何も言い返せなかった。



 確かにその通りだ。

 人の作る食事の味を覚えた野生の獣の末路は、一つしかない。



「じゃあ、このまま放っておくの? あの子は助けてって言ってるのに……」

 納得はしたが、このまま見捨てる事は出来なくて言い返す。

「待ってください、何かおかしい。あの大きさのケットシーなら、まだ間違いなく母親が近くにいるはずですし、そもそもこの森にケットシーがいたなんて初めて聞きました」

 タキスが、額に手を当てて考えている。

「シルフ、近くにあの子の母親はいませんか? 至急探してください」

 ところが、言われたシルフ達は、一斉に首を振った。


『この子は馬車から落ちたの』

『街道で馬車が倒れて騒ぎになってた』

『動物がたくさん乗ってた』

『逃げた子のうちのひとり』

『あの人間は悪いやつ』

『助けて助けて』


 それを聞いたギードが、ため息を吐いて空を見た。

「要するに、碌でもない動物商人の馬車が、街道で転倒騒ぎを起こして、何匹か逃げ出した、と。その中に、ケットシーの雛が、猫と間違われて捕まっておった訳か」

 シルフ達が一斉に頷く。

「これは……どうしたもんかな。このまま放置すれば、間違いなくこの雛は死ぬぞ。まだ獲物を狩ることも出来まい」

「しかし、連れて帰るのは論外です。絶対にそれは駄目です」

 タキスも困ったような顔をしているが、そう言って断固として首を振った。

「幻獣の雛を連れて帰るなんぞワシもごめんじゃよ。後のことを考えると、そんな無謀で無責任な事は絶対に出来んわい……となると、親を探すのが第一だな」

 そう言うと、ケットシーの雛を見た。

「お前さん、人の言葉は分かるか?」

 しかし、ギードの顔を見て鳴く声は、到底理解出来ないただの猫と同じ鳴き声だ。

「レイ、お主にも分からぬか?」

 途方に暮れて振り返ったが、レイも困っている。

「えっと、さっきは確かに助けてって聞こえたけど、その後は、さっぱり……」

「分からぬか」

「うん、全然分からない」

 顔を見合わせてため息を吐く。

「さてどうしたもんかな。もう日が暮れるぞ。我らも早く戻らねばならぬ」

『その幻獣の雛、我が一時的になら保護してやる』

 レイの肩に座ったシルフの口から、ブルーの声が聞こえた。

『ただし、あくまでも一時的なものだ。幻獣の雛は、その親でなければ、ほぼ間違いなく、育てられぬ』

「おお、感謝しますぞ。それなら暫しの時間稼ぎが出来ましょう。シルフ達に、雛を無くしたケットシーの親がおらぬか、付近の森を探させましょう」

「それなら、その問題の動物商人を調べた方が早そうだ。売り物なら控えの書類があるはずだから、少なくとも、どこから連れてこられたかは分かるだろう」

 ギードとニコスが、頷きあってシルフ達に幾つか命令を下し始めた。



 レイは呆然とその様子を見ていた。



 特に、ニコスの周りには、普段見慣れたシルフとは少し違った子達がいるのに気が付いた。色が少し濃くて大きい。纏っている布の感じも違う。

 濃い色の子達は、ニコスの近くで、ずっと話しをしているが、声は聞こえない。

 驚いた事にニコスは、声を出さずにシルフ達と話しているのだ。しかもその顔は、普段見慣れた優しい彼とは別人のような厳しい顔だ。

「タキス、ニコスの周りにいるシルフって……」

「ええ、彼について来た、こことは違う場所のシルフ達で、私も久しぶりに見ましたね。普段は彼の指輪に入ったまま出てこないのに」

「じゃあ、すまないがその子は蒼竜様の所へ届けてくれ」

 ケットシーをぶら下げたシルフ達にそう言うと、振り返ったニコスは、もう優しげな笑みを浮かべたいつもの顔だ。

「帰ろう。日が暮れた森に、いつまでもいるのは危険だ」

 そう言うと、レイの前に立ち、そっと優しく抱きしめた。

「分かってくれ。意地悪であれに関わるなと言ってる訳じゃない。森に暮らす我々には、絶対に超えてはならない一線がある。可愛いからと言ってその時だけの気分で関わると、後で後悔して両方が傷付く事になるからな」

 優しく背中を叩かれて、何度も頷いて抱き返した。

「うん、我儘言ってごめんなさい。それから、ありがとう。あの子を見捨てないでくれて。どんな結果になってもちゃんと受け入れるよ」

 顔を見合わせて笑い合うと、手を離した。

 顔を上げたレイは、後ろにいたタキスにも抱きついた。

「タキスと、それにギードもありがとう、あの子を見捨てないでくれて」

 顔を見合わせて笑い合うと、荷馬車に乗り込み、大急ぎで帰路についた。




「すっかり日が暮れてしまったな。大急ぎでスープとパンを温めて来るから、その袋は、一先ず納屋に積んでおいてくれるか」

 ニコスが、そう言って荷馬車から飛び降りると、お弁当の包みとお茶の道具を持って、台所へ走っていった。

「レイ、袋を下ろすのを手伝ってください」

 頷いて、荷馬車から飛び降りてマントを脱いだ。ちょっと考えて、壁の空いた棚に置く。

 それから、タキスに言われて上の袋を下ろすのを手伝った。



「うわっ軽っ!」

 一番上の大きな袋を引きずり下ろした時、絶対重いと思って覚悟して受け止めたのに、あまりの軽さに声が出るほど驚いた。

「そっか、あれだけふわふわだから軽いんだね」

 綿兎も軽かった事を思い出し、袋を片手で持って壁の横の空いた場所に置いた。

「場所はここで良いの?」

「ええ、とりあえずそこに積みます。これはシルフに頼んで、袋の中からゴミや汚れを取り除いてもらわないと使えませんからね」

「へえ、そんな事するんだ」

 軽々と渡される袋を積み上げながら、思わず呟いた。

「シルフは色んな事が出来るんだね」

 すると、肩に一人のシルフが現れて座ると、胸を張って踏ん反り返った。

「あはは、皆すごいね。これからもよろしくね」

 そう言って撫でてやると、嬉しそうに笑って指先にキスしてくれた。




 急いで作ったとは思えない、いつもと変わらない豪華な夕食を皆で頂き、食べ終わった時の事だった。

 皆のお茶を入れていたニコスが、不意に顔を上げた。

「そうか分かった。引き続き調べてくれ」

 何事も無かったかのように、手を止めずにお茶を注ぎ終わり、全員に配ってから大きなため息を一つ吐いた。

「難しいな。この近辺の森には、そもそもケットシーはいない。唯一、竜の背山脈の北側の森にはいるんだが、そこは、今年は雛が生まれていないらしい」

「なら、もっと北のほうか?」

「恐らくな、そうなると……正直、かなり難しいぞ」

 二人は、揃って顔をしかめた。

 話しを聞きながら、レイは、自分には何も出来ない事が悔しかった。



「こちらも成果なしですね」

 いつの間にか、タキスの腕にシルフが座っていた。

「今聞きましたが、竜の背山脈に近い東側の森にも、ケットシーのつがいがいるそうですが、外れですね……ええ、それは良い知らせですね。いざとなったらお願いしましょう」

「何だ、良い知らせとは?」

 小さな声で、タキスに一気に喋ったシルフの声は、他の三人には聞こえなかった。

「竜の背山脈の東側の森にいる、ケットシーの番ですが、秋の雛は弱くて育たなかったそうです。それで、もしあの子の親が見つからなければ、引き取ると言ってくれているそうですよ」

「おお、それは良い知らせだ。最悪でも、あの子は死なずに済む」

「今のシルフに、蒼竜様にも伝えるようにお願いしました。ともかく、最悪の事態は避けられそうですよ。よかったですね、レイ」

「うん。でも、その番のケットシーの子は育たなかったって……」

「幻獣の雛は、最初の数年は普通の動物の子供と同じくらいに弱いんです。なので、他の野生動物や猛禽類にも狙われます。今回保護した子で一歳くらい。まだ本当なら、巣穴で母親の乳を飲んでいる時期です」

「あの子のお母さんは、どうしたんだろう……」

 手にしたカップの持ち手を思わず握りしめる。

「狩人に捕まったのなら、最悪の可能性もある。うっかり、巣穴から好奇心で這い出して、迷子になったところを捕らえられたのなら……母親は死ぬ程心配しとるだろうな。幻獣の母の雛への愛情は、それはすごいからな」

「精霊王のお話にもあったよね。子連れのケットシーが、巣穴に皆を匿うお話が」

「そうだな。雛を助けられた親が、精霊王の一行を闇の手から守る話だな」

「あのお話を聞くと、いつも、大きな猛獣のお腹に潜り込んでみたくて堪らなくなったもん」

 三人は、レイの話を聞いて皆頷いた。

「確かに、あのお腹に潜り込んで寝るのは魅力的だな。それならワシもやってみたいわい」

「俺なら、一度潜り込んだら、絶対離れられなくなる自信があるぞ」

「何を真剣に……ええ、認めますよ。確かに、とっても魅力的なお話ですよね」

 皆、揃って笑いながらもう一度頷いた。




 翌朝、いつものようにシルフに起こされて、着替えて居間へ行った。

「おはようございます。今日も良いお天気だね」

「おう、おはようさん。しばらく良いお天気みたいだぞ」

「おはようございます。ここ、寝癖が残ってますよ」

 ギードとタキスが挨拶してくれたが、タキスに言われて、思わず髪を触った。

「え? どこ? おかしい?」

 一緒に洗面所に戻って、後頭部の寝癖を直してもらった。

「柔らかいから、癖がついてもすぐに戻りますね」

 笑いながら頭を撫でられて、撫で返した。

「タキスはサラサラだから、癖がつくと取れなさそう」

「分かりますか? 毎朝、寝癖との戦いなので、寝癖を直すのは上手いんですよ」

 得意気なその様子に、鏡越しに顔を見合わせて二人同時に吹き出した。



 居間へ戻って朝ご飯の後、食後のお茶を飲みながら和やかに話している時、不意にニコスの前にあの色の濃い大きなシルフが現れた。

 ニコスが、立ち上がって皆に背を向ける。

 肩に座ったシルフと、無言のやり取りがされている間、皆も無言だった。

「ご苦労さん。戻ってくれ」

 ニコスの指輪に、シルフが消えていなくなった。

 振り返ったニコスの顔は険しい。

「最悪だ。母親のケットシーは殺されたらしい。どちらかというと、母親の毛皮目的の密猟者だったようだな。雛がいたもんだから、それも捕まえて王都の貴族に売り飛ばすつもりだったらしい。動物商人は、ケットシーだと知っていたようだ」

「なんて事を。幻獣を狩るなんて……」

 皆、声も無い。

「そもそも、幻獣を狩れるほどの腕の狩人が、なんで密猟者などやっとるんだ」

 ギードが、怒りのあまり、吐き捨てるように言う。

「どんな事情があるにせよ、幻獣に手を出した時点で、その者の末路は決まっています。ろくな死に方はしませんよ」

 皆、それぞれに目を閉じて、密猟者の手により犠牲になった母親に祈りを捧げた。

「それなら、早い方が良いですね。すぐにでも蒼竜様にお願いして、竜の背山脈の東側の森へあの子を連れて行ってもらいましょう。恐らく、何日もろくな食事を取れていないでしょうからね」

 タキスが、呼び出したシルフに蒼竜様への伝言を頼んだ。

 すぐに答えがあり、レイの肩に座ったシルフが、昨日のようにブルーの声で喋り始めた。

『シルフから事情は聞いた。昨夜から雛は鳴くばかりで何も食べぬ。泉の良き水をいくらか飲んだのでしばらくは大丈夫だろうが、確かに早い方が良い。今から竜の背山脈の東の森へ連れて行く事にする』

 結局、自分は何も出来ないままだ。

「僕も行っちゃ駄目……?」

 驚いたように三人が振り返る。

「だって、僕が見つけた子だし……」

 自分は何を我儘ばかり言っているんだろう。不意に我に返って、情けなくて泣きそうになった。

 今日は、綿兎の毛を洗うと言ってたのに。



「そうですね。確かに貴方が見つけた以上、責任があります」

 タキスが頷いてそう言うと、シルフがまた、ブルーの声で返事をしたり

『一緒に行くなら連れて行ってやるぞ。今からそちらに向かうので、寒くないようにな。我の翼でも、行って戻るなら夕方までかかる。レイの昼の用意を頼む』

 呆然としていると、ニコスが立ち上がって、台所に走った。釜からパンを取り出してハムを切り始める。

「レイ、寒くないようにセーターと厚手のズボンを履いて来なさい。竜の背山脈の辺りは、まだかなり寒いからな。冬の格好で丁度良い」

 ニコスが手を動かしながら、そう言った。

「良いの?だって、今日は忙しいんでしょ?」

 不安そうに言うレイに、タキスが苦笑いしながら言った。

「明日はしっかり働いてもらいますよ。どっちにしても、今日はシルフ達に働いてもらうだけなので、私達は、いつも通りですよ。気にせず行ってらっしゃい。自分で蒔いた種は、自分で刈り取らなくてはね」

 笑って言ってくれたタキスに抱きついてキスした。

「ありがとう。それから、我儘言ってごめんなさい。でも、どうしても見捨てられなかったの。ちゃんと見届けて来るよ」

「ええ、いってらっしゃい。ケットシーの成獣なんて、滅多に見る機会はありませんからね。しっかり見て、どんなだったか後で教えてくださいね」

 タキスが笑って頷いてくれた。

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