第90話_焦燥を腕の中へ閉じ込めて

 まだモカは、レベッカから抱き締められることにすら慣れない。恋人になる前であれば少しの高鳴りで済んでいたものが、二人きりの部屋で恋人として引き寄せられるとまるで違った。心臓ばかりがうるさくて、それなのにレベッカの手が音を楽しむみたいに背中の中央に留まる。それがまた、モカを居た堪れない気持ちにさせるのだ。

 そんな状態であるのに、ベッドの中、モカを引き寄せたレベッカの手が徐に腰の位置まで下がり、そして再び背に向かって上がった時に、直接肌に触れた。状況に気付いたモカはびくりと身体を震わせて、慌ててその手を押さえる。手が、明らかに服の中にある。

「なに?」

「な、何じゃなくて、レベッカ、あのね、服の中は、触らないで」

「なんで」

「何でって……」

 少しも悪びれないこの言葉が、うっかり入ってしまったという事故ではないと物語る。触れている部分が、モカには今更、やけに熱く感じられた。

「アタシに触られるのは嫌?」

「どうしていつも、そういう言い方をするのよ……」

 嫌かと問われた時にモカは決して、嫌だとは答えられないのに。何度も繰り返されてしまうと、いよいよレベッカは分かった上で聞いている気がしてならない。

「嫌なわけじゃないの、ただ……」

 モカはまだ言葉を続けようとしていたのに、レベッカが顔を寄せてきたので思わず飲み込む。そのまま何も言わせないとでも言うように唇はキスで塞がれ、レベッカの手は尚も服の中で奥に進もうと動く。焦ったモカが更に強くその手を握れば、そちらの動きは止めてくれたものの、次はモカの唇をなぞるように彼女の舌が触れた。

「レベッカ、ちょっと待って、お願いだから」

 必死に彼女の身体を押し返して唇から逃れるけれど、押さえていたレベッカの手を離してしまった為、その隙にレベッカが更に深く手を差し込んだ。何処をどう押さえて止めればいいのか完全に分からなくなって、モカは混乱した。懸命にレベッカの肩を押しながら、身体を捩って腕から逃れようと動く。

「モカ」

 ぎしりとベッドが軋んだ。肩を押し返す力を封じ込めるようにレベッカはモカへと体重を掛け、距離を詰める。

「何がそんなに嫌?」

「嫌、なんじゃなくって」

 心臓が暴れ過ぎて眩暈を感じ、モカは何度か目を瞬く。その間黙ってしまったモカをどう思ったのだろう。レベッカは更に距離を詰め、モカと額を合わせた。

「アタシ、モカとしたい」

「は、はぁ……?」

 いつだって、恋人としてレベッカが距離を詰める度にモカは戸惑っていた。それでも、何とか半分以上を受け流してレベッカの行動を受け止めてきたのに。モカはこの瞬間、完全に崩れた。

 心臓の音は今まで以上に騒々しく、顔は暗がりでなければ誰が見ても驚くほど赤く染まっていることだろう。モカは彼女の腕から逃れるようにベッドボード側に身体をずらし、素早く起き上がる。しかし逃げ場があるわけではない。壁とベッドボードに追い詰められる形でレベッカに囲い込まれ、腕を握られた。

「嫌なら何もしない、だから逃げるのはやめて」

「に、逃げ、て、いるというか、その、待ってほしくて」

 モカの声はいつになく弱々しく震えて、泣き出してしまうのではないかと思わせる。レベッカはそんな反応に微かに眉を顰めたが、モカは彼女の表情の変化にも気付く余裕が無い。

「待つから。それ以上は離れないでよ」

「わ、分かったわ、だから、お願いレベッカ、服から手を」

 まだ背中に直に触れたままの手を出してくれと訴え、腕をぐっと押せば、僅かに抵抗があったものの、レベッカはゆっくりとその手を取り出した。

「レベッカ、どうして急に、そんなこと」

「モカ」

 問い掛けようとしたモカの頬を手の平で優しく撫でたレベッカは、また彼女の言葉を待たずにキスをする。ただ今度は、モカが強く肩を押せば容易く唇を離した。

「お願い、ちゃんと話をして、キスで誤魔化さないで」

 モカの言葉を聞くと、レベッカは一瞬固まる。そして何処か元気を失くした様子で肩を落とした。

「……ごめん、誤魔化そうとしたつもりじゃない、キスしたかった」

 そんな言葉一つすらモカは心が揺さぶられて、感情を持て余す。堪らずレベッカから顔を逸らして、小さく唸った。モカがそのように反応する理由もどれだけレベッカには伝わっているのだろう。もっと早く問い掛けるべきだった疑問を、ようやくモカはレベッカに向けた。

「分からないの。あなたは私のこと、ずっとそんな対象として見ていなかったでしょう? なのに、急にこんな風にされたら、どうしたって混乱するのよ」

「それは」

 レベッカは何かを言おうとして、一度言葉を止める。沈黙は、少し長かった。モカから視線を落としてシーツと壁の境をじっと見つめたレベッカが、何処か、悔しそうに表情を歪めたようにも見えた。

「全く無かったっていうのはちょっと違う」

「え?」

「だけど今、それは関係なくて」

 最初の言葉はあまりに小さく早口で、モカは聞き取れなかった。いや、聞き取ったが、正しく聞き取れたかどうかの確証が持てなかった。けれど頭の中で反芻することも許さないかのようにレベッカは言葉を続ける。今度はやけに、はっきりと、大きめの声だった。

「早くモカをアタシだけのものにしたいだけ、誰にも取られないように」

 余計に、彼女のことが分からないとモカは思った。声には何かに対する憤りのような、いや、不安に近いような色が混じっていた。

「取られるわけがないでしょう? 私はあなたのものだって、あなたが言ったのに」

「そうだけど、でも、分かんないじゃんそんなの。……少しでも目を離したら、また誰かに」

「レベッカ?」

 モカは両手を伸ばし、レベッカの頬を包み込む。彷徨さまよっていた視線は再びモカを捉えたが、先程までと違い、酷く頼りない。揺れて、揺れて、怯えるように震えているその奥にあるのは――。

「一体、何をそんなに焦っているの?」

 瞬間、レベッカはしゅんと眉を下げた。モカは彼女に距離を詰められる度に動揺してしまって気付くのに随分と時間が掛かってしまったけれど、レベッカ自身は、それが焦りであると元より理解していたのだろう。

 訳も分からず逃げていただけのモカは、先程引き離した距離を自ら詰めて、レベッカを抱き締める。

「いつも一緒でしょう、私はあなたの傍から離れないわ。今はチームも一緒なのに、目を離している時間なんてある?」

「無い、けどさ……」

 モカを抱き返すレベッカの腕は、声と同じで頼りなく弱々しい。今までのレベッカの行動を思い返し、彼女がただ不安で、焦りを感じ、慌てて距離を詰めようとしていたのだとしたら、ようやく納得できる気がした。

「好きよ、レベッカ。私が何か、あなたを不安にさせているのかしら」

「ううんアタシが勝手に……。ごめん、モカが困ってるのは、分かってたのに、アタシ」

 言葉尻が少し震える。泣いてしまうのかと思って、モカはレベッカの後頭部を撫でる。レベッカも、モカを抱く力を強めた。

「ずっと一緒だよね、モカ、他の人のとこ行ったりしないよね」

「勿論よ」

 しばらく抱き合っていると落ち着いた様子だったので顔を覗くと、レベッカは叱られた直後の子供のような表情をしていた。少し笑い、慰めるようにその頬を撫でる。

「ね、レベッカ。大丈夫だから、もう少し手加減してくれるかしら。私の心臓がいつもうるさいこと、知っているんでしょう?」

「あー、……うん」

 頷くレベッカは眉を下げて笑っていた。

「ごめん、それもちょっと嬉しくて、調子に乗った」

 薄々そんなことだろうと思っていたが、モカは幾らか呆れた様子で力無く笑う。正常な判断力をことごとく失ってしまうほど、モカにとっては戦場以上の窮地だったが、それを与えた本人は少なからず喜んでいたと言うのだから。

「でも、えっと、キスは、今までみたいに、してもいい?」

「……気に入ったの?」

「うーん、うん、そう」

 ふにゃりと表情を緩めるレベッカは愛らしいが、モカは容易く頷いてしまえない。今日は確かにそれ以上を踏み込まれて混乱したけれど、現状が問題無かったかと言うと、そうでもない。ぎりぎりのところで保っていただけだ。返事を迷っていれば、軽く唇を触れ合わせるだけのキスを落としたレベッカが目を細める。

「何か、こうしてるの、安心する」

「……そう」

 モカからすればやはりレベッカはずるい人だ。このように言われてしまえばもう、拒絶することは到底出来ない。応じるように一つモカから口付けると、嬉しそうに頬を緩めたレベッカが、またキスを返した。

「ねーモカ、背中の痕まだ残ってる?」

「え?」

 再び並んで身体を横たえた時、突然レベッカは服の上からモカの背に触れてそう言う。そして顔を上げたモカの額へと条件反射のようにキスが落とされた。これは先程のように「キスしたかった」だけなのか、今度こそ何かを誤魔化そうとしているのか、やはりモカには分からない。

「消えてたら、また付けたいんだけど」

「…………本当に、そういう意味で付けていたの?」

 他の誰かに取られる、という先程の発言や会話をぐるぐると思い返し、モカは目を丸めた。今度はレベッカが、呆れた顔を見せる番だった。

「どういう意味だと思ってたの」

「こ、好奇心というか、興味本位、とかで」

「モカって賢いのに時々変なこと言うよねー」

 まだ衝撃を受け止め切れていないモカがぼんやりとしている間に、身体はレベッカによってうつ伏せにされてしまう。服が捲り上げられたところでようやくはっとして、モカは身体を硬くした。

「レベッカ……」

 不安そうに名前を呼ぶモカの腕を優しく撫でてから、レベッカは素肌の背中に手の平で触れた。

「前と同じとこ、消えてたら付けるだけだから」

 まるで小さな子を諭すような優しい声で囁かれ、モカは抵抗を口にせずシーツを握った。肌を滑るレベッカの唇の感触は、前回と同じくらいモカの心臓を騒がせる。ただ前回と違い、コツを掴んだらしいレベッカは一度で望んだ痕を残したようで、その時間が長引いてしまうことは無かった。手際が良くなったことがモカにとって幸いかどうかは、ともかくとして。

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