第69話_治療室前によくある偶然

 治療室の中、検査結果に目を通している医療班が難しい顔で溜息を零すのを横目に、モカはゴーグルを着け直していた。

「……この視力から、戻らないな」

「そうそう変わられても困りますよ、ゴーグル変えないといけませんし」

「いや、それは、そうかもしれないが」

 敗戦の際に大きく落ちてから戻らないことを落胆している職員らに比べ、モカの反応は淡々としていた。急な変化に対し、職員らは「一時的なものである可能性もある」と一生懸命に励ましてくれていたものの、モカは何となく、このまま戻らないだろうと予想していた為に、大きな落胆は無かった。

「とにかく、目の検査は以上だ。今日もお疲れ様。あとは肩の方を診てもらってくれ」

「はい、ありがとうございます」

 その後、肩の診察も大事なく終えたモカが治療室を出ると、廊下にはレベッカが立っていた。予想していなかったその姿にモカは目を丸める。

「モカ、お疲れ」

「レベッカ? どうしたの?」

 疑問を素直に口にしたモカだったが、レベッカはその問いに何処か白々しく視線を彷徨わせた。

「ん、どうしたって、うーん、心配だったからさ」

「ただの診察よ? 何も変わったことは無いわ。前と同じ薬を貰っただけ」

 そう言って、手に持っていた袋をそのままレベッカに手渡した。袋の表面には、中に入っている痛み止めと湿布の名前が記載されている。レベッカは興味の無いような顔をしながらもしっかりその表記を確認し、それをモカへ返した。

「一体どういう風の吹き回しなの? 前回まで付いてきたりしなかったのに。誰かに虐められて逃げてきたのかしら」

「そんなわけないでしょ」

 笑いながらそう揶揄からかうモカに対し、レベッカは肩を落として項垂れる。しかし実際のところ、こうして肩の怪我で治療室に通うのは何度もあることなのに、わざわざ治療室にまで迎えに来たのは最初の数日だけだった。今やもうモカの肩に痛みはほとんど無い。やせ我慢ではなく本当に、患部を直接ぶつけてしまったりしない限り痛むことは無くなっていた。周りが笑うほど過保護に世話をしてくれていたレベッカがその回復を知らないわけがない、と思うけれど、こんな場所で問い質すこともないだろう。モカは一先ず自室の方へと足を向けるが、レベッカの方は動かなかった。立ち止まったままの彼女を振り返り、モカも足を止める。

「どうしたの、レベッカ」

「だって二日前、走ったでしょ、だから、響いたりしてないかなって」

 彼女が指しているのは、アランの見送りに行った日のことだ。打撲がそんなことでどうにかなるわけがないことを、レベッカだって分かっているだろう。下手な言い訳にばつが悪いのか、レベッカはモカを直視していない。よく分からない彼女の様子に、モカは困ったように眉を下げた。

「お茶会中に出ちゃったから、怒っているのかしら。昨日埋め合わせをしたつもりだったのに、寂しがり屋のレベッカには全然足りないの?」

 あの時、モカはレベッカと二人、自室でコーヒーを飲んでいた。アランの遠征があることなど何も知らなかったが、それを知らせてきたのはイルムガルドからのメッセージ。彼女からメッセージが届くこと自体が珍しく、他の誰かであれば確認すら怠ったかもしれないが、モカは迷わずそれを開いた。しかし、内容を見てからの行動には幾らも迷いがあった。結局は、全力で走って見送りに出てしまったのだけれど、当然、レベッカに事情を話す余裕も暇も無く、ただ「すぐに戻るから」と短く告げて飛び出していた。

 だからモカは、レベッカが自分に付いてきてくれていたことを知らなかった。アランを見送った後に振り返り、ロビーに彼女の姿を見付けてモカは目を丸めた。けれど自分の行動を思い返し、急な態度で心配を掛けてしまったのだと思ったモカは、その場でレベッカに謝罪し、埋め合わせの為、翌日にはフラヴィも誘って改めて一緒にお茶をした。お菓子もいつもより奮発して、モカはそれで、非礼を詫び、レベッカの機嫌を取ったつもりでいたのだが、……今のレベッカは、あの日と同じ顔をしている。不満そうで、けれどその訳を何も言わず、口を引き締めていた。

「怒ってないし、アタシは別に寂しがり屋じゃない」

「そう?」

 後半の可愛らしい否定に、モカは思わず笑った。それが気に障ったのだろうか。レベッカは微かに口を尖らせる。

「モカは、やっぱり今でもアランが特別なの?」

 二人の間に、少しの沈黙が落ちた。モカがすぐに言葉を返さなかったからだ。レベッカは逸らしていた視線をモカに向けたが、目は合わなかった。今度はモカが、彼女から視線を外し、少し下にそれを落としていた。

「……頃があるだけ、と思っていたけれど」

 嘘ではない。アランと別れた後、もう彼とは『何の関係もない』と考えていた。別れてからのアランは、他の女性らと同じ態度でモカに接してくれていた為、付き合う以前の二人、つまりアランがモカにとっては『何でもなかった人』になるのだと思っていた。けれど改めて会ってみれば、『以前と同じ』態度というのがモカに対する『特別な優しさ』であるのは分かってしまう。少なくとも彼にとってモカは『何でもなかった人』になど到底戻っていない。そしてそれはモカにとっても同じことだ。レベッカの前であることを一瞬忘れ、小さく嘆息する。結局、今でもモカの心を最もよく知るのはアランだ。目のことも、レベッカに対する想いも、フラヴィに対する複雑な気持ちも、彼は全て知っているのだから。

「一度は距離を詰めた人だもの。他の人と比べれば、確かに、少し違うわね」

 あんな風に走って見送りにまで出ておいて、こんな返しは嘘に聞こえてしまうだろうか。レベッカの反応を待ちながらそんな風に思ったモカだったが、何かを言いたそうにした彼女は結局、何も言わずに視線を落とした。見兼ね、モカは言葉を続ける。

「だけど、レベッカほどじゃないわよ?」

「すぐそう言うんだから……」

「あら、本当のことなのに」

 むしろこれほど嘘偽りのない言葉も無いのに、モカの言い方も問題なのだろうが、レベッカはそれを本心と捉えた様子無く、大袈裟に肩を落として溜息を零した。

「この間はアタシ放ってアランのところ走ったくせにー」

「やっぱり怒っているんじゃない」

 レベッカが子供のような声を出すと、どうしてもモカは思わず笑ってしまう。指摘されていることについては本当に申し訳ないと思っているのだろうけれど、ただ彼女の反応が可愛くて仕方が無いのだ。それがどう働いたかは分からないけれど、不満そうなレベッカの表情は良くも悪くも変わらなかった。

「アランは居ないけど、モカは一人にしたらまた誰かに掠め取られそうだし」

「……そういう理由なの?」

 この場所まで迎えに来た理由をレベッカがようやく口にして、モカは少し驚いた顔で振り返る。つまり、慰労会でアランに言われたことを気にしているのだろうか。モカにとっては嬉しくも聞こえる言葉だったが、彼女が本当に求めている意味が込められていることは無い。そうと知った上では何と応えればいいものかと考えて少し黙ると、モカの後方へと視線を向けたレベッカが、不意に嬉しそうに笑みを浮かべた。見れば、イルムガルドが歩いてきていた。どうやら治療室に来たらしい。

「偶然だねイル、今から治療室?」

「うん」

 治療室前で、こうして彼女と思いがけず遭遇することは何度目になるのだろうか。彼女がタワーに来るほとんどの理由が治療室の定期健診である為、この場所以外での『偶然』は可能性が低いとは言え、そんなに多くの者が治療室に通っているわけでもないのに、妙にスケジュールが詰められている気がした。医療班として、『診察』は一度にまとめてしまいたい事情があるのかもしれないけれど。

「イル、此処で会うのなんかちょっと久しぶりな感じー」

 レベッカはイルムガルドに歩み寄ると、嬉しそうにその小さな頭をわしわしと撫でる。イルムガルドは無抵抗に、そしてほぼ無反応に、その過剰な愛情表現を受け入れていた。モカは軽く苦笑しつつ、ほんの少し面白くない。今の今まで愛らしく拗ねてくれていたレベッカがすっかり居なくなってしまった。小さな溜息は、わざとらしく、二人に聞かせる為に吐いた。

「あらあら、数日前の慰労会でも話す機会はあったのに、レベッカは相変わらずイルムガルドにご執心ね、妬けちゃうわ。私、先に行くわね」

 当然そんなことに本気で怒ったわけではないのだろうが、そう言ってモカがきびすを返して歩いて行くと、レベッカは目を大きく見開く。

「えっ、ちょ、待ってよモカ、冗談でしょ」

 動揺してひっくり返ったレベッカの声を背に受けつつも、モカはそのまま立ち去ってしまう。レベッカは慌てて後を追うが、角を曲がる寸前、一歩戻ってイルムガルドに笑顔で手を振った。静かになった廊下。彼女らの離れて行く足音、小さくなっていく話し声を聞きながら、取り残されたイルムガルドが治療室に向かって歩く。二人から、もうイルムガルドが見えることは無い。それでも彼女はジャケットのファスナーを一番上まで引き上げて、念入りに口元を隠した。これでもう、その布の下で彼女が微かに笑みを浮かべていることなど、誰からも分からない。

「……簡単そう」

 唯一、外に出したそんな呟きも、拾った者は誰も居なかった。

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