第51話_廊下に零した小さな嘘

 アランが腕を失くしたのは二年前。その日、タワーは騒然としていた。アランが腕を落として緊急搬送されてきたことだけが理由ではなく、担架の上で彼が取り乱して暴れていたのが原因だった。今すぐに治療をしなければならない状況下で、彼は暴れていた。職員らはそんな彼を必死に押さえ付けていた。

「どうしてタワーに居るんだ! 俺はまだ戦える!」

「ばかを言うな! 戦えるわけがないだろう! アラン、頼むから大人しくしてくれ!」

「俺を戦場へ戻せよ!」

 居合わせた人間は一様に言葉を失くしていた。アランは当時も今と変わらず、いつも陽気に笑い、軽口を叩いて、女性を口説き回っているお調子者だった。腕を落としても尚、戦わせろと叫ぶ彼はその印象とはかけ離れる。誰の声も、彼には届いていなかった。

「俺は、負けていない、まだ、戦える……」

 何とか鎮静剤を打ち込んだお陰で、彼の声は段々と小さくなる。身体から力が抜け、再び意識を手放した。だが魘されるようにして時折零す言葉は同じものばかり。戦場に戻る、負けていない、戦わせろ、そう彼は繰り返していた。それを聞く職員や医療班は言い知れぬ恐怖を彼に覚えながらも、集中治療室へと運んだ。

「――アランは元より戦場に対する執着を垣間見せていた。錯乱しているのではなく、あれがあの子の本心なんだろう。あそこまでとは思わなかったが……とにかく絶対安静だ。術後も暴れるようなら拘束具が必要になる、準備を進めてくれ」

 駆け付けたデイヴィッドは、職員らにそう話す。剽軽ひょうきんに振舞う一方で彼が隠していた心をデイヴィッドはきちんと見付けていた。ただ、その度合いを見誤っていた。

 その後、一時は危ない状態にも陥ったものの、アランは持ち直し、一命を取り留める。麻酔から覚めた後もまだ暴れる可能性があるとのことで鎮静剤が投与され、眠ったままで病室へと運ばれた。覚醒まで医療班または職員が付き添っているのが通例であったが、その日はそうはいかなかった。アランが腕を落とした戦場の状況も芳しくない為に対応が必要で、同時に別の戦場から怪我をした奇跡の子も運び込まれ、医療班や職員は混乱していた。

「……また何かございましたか?」

「ああ、モカ、良いところに!」

「はい?」

 別の治療室から出たモカは、職員らが慌ただしく動き、まるで言い争うように話し合っているのを見付けて声を掛ける。彼女も当時から目のことで頻繁に治療室へは出入りしていた。アランが暴れていた件は、同じく治療室付近に居たので認識していたが、集中治療室に入った辺りで騒ぎが収まったので別件だと思っていたのだろう。

「すまない、ほんの少しだけ、アランを見ていてくれないか?」

 職員らは唐突にそう告げると、手が足りていないことを話した。アランは既に拘束具を付けられているが、能力を使用されてしまえば一人や二人の職員では足りないのだ。当然、戦う能力を持たないモカではその点を一人で補えるはずが無いけれど、職員らが期待をしたのは、モカと言えば必ず傍に居る彼女も含めてのことだった。

「レベッカが居れば、もしアランが能力を使用しても対抗できるだろうから、彼女と一緒に。一時間ほどで良いんだ」

「……そうですね、分かりました。特に急ぎの予定はありませんから、構いませんよ」

「ありがとう! 何かあれば病室のブザーを押してくれ、すぐに駆け付けるから!」

 早口でそう告げて、職員らは急ぎ、その場を立ち去っていく。その背を見送ると、モカは足元へ一つの息を落としてアランの病室へと入る。モカが通信端末に触れることは無かった。モカには最初から、レベッカを呼び出すつもりは無かったのだ。アランが眠るベッドの傍へと椅子を寄せ、治療室での待ち時間用に持ち合わせた文庫本を開く。部屋に戻ってもこうして本を読んで過ごしただろうと思えば、特別なことは何も無い。敢えて不満を上げるならば此処にコーヒーが無いことくらいだろう。

 三十分ほどが経過すると、鎮静剤が抜けてきたのか、アランは再び譫言うわごとを小さく漏らし始める。運ばれた時と同じ言葉だ。「戦える」「負けていない」という意味の言葉を呼吸の合間に紛れさせている。モカは一瞬だけ視線をアランに落としたものの、すぐにそれを文庫本へ戻して読み進める。一連の動作は、この病室に入った時から変わらず無感動なものであった。けれど、彼が一度だけ呟いた違う言葉に対しては、そうではなかった。

「……兄ちゃんは、……負けたり、しない、から、な」

 モカは彼を見ることなく、目を閉じて俯いた。アランには故郷に残した一人の弟が居た。それを知る者は職員以外には少ない。モカも今の言葉を聞くまで知らなかった。今の言葉だけでは、それが弟であることは彼女には分からなかったけれど。数分間そうして目を閉じた後、モカは何事も無かったかのように再び本へ目を向けたが、そのページは遅々として捲られることが無かった。

 それから更に四十分ほどが経過してから、アランは目を覚ました。一時間ほどで戻ると言っていた職員らが帰ってくる様子はまだ無い。

「……モカ?」

「あら、起きたの」

 傍に座るモカに、アランが不思議そうに目を細めている。視線は病室内をぐるりと巡って、またモカへと戻った。彼女だけがこの部屋でアランを見ているという状況が、彼には理解が出来なかったのだろう。本を閉じたモカは視線に対して柔らかく微笑みながら、立ち上がった。

「暴れないでね、私じゃ抑えられないから」

「ああ、暴れないよ。どうやら格好悪いところを見られたらしい、参ったね」

 そう言って、アランは口元に少し不格好な笑みを浮かべる。薬で左腕の痛みは和らげられているとは言え、全く感じないことはないだろうし、酷い汗をかいている様子を見れば熱も出ているかもしれない。それでも笑みを浮かべるアランの姿は、十分に強いひとだとモカに感じさせた。モカは眉を下げながら微笑みを返すと、手の平で彼の額をするりと撫でた。そして何か言いたげにしているアランは見ぬふりをして、ベッド脇に設置されているコールを押す。

「アラン君が起きました。……いいえ、落ち着いています」

「そりゃ落ち着かざるを得ないだろ、WILLウィルで一番の美人が傍に居るんだぞ」

 彼の声も届いたらしく、通信の向こうで笑い声が聞こえた。すぐに此方こちらへと向かうという言葉の後、通信が切れる。モカは椅子に座り直しながら、苦笑を浮かべた。

「どうかしら、レベッカの方がずっと美人よ」

「レベッカも特級だね、まあその辺りは好みの問題だ、俺は君が一番だと思うよ」

 額に浮かぶ汗は引く様子も無いのに、彼はいつもの調子でそう言って笑う。

「それ、レベッカにも言うんでしょう?」

「勘弁してくれ、俺はそんな陳腐な真似はしないよ」

 他愛のないそんな会話を続けていれば、一分足らずで職員が医療班を連れて入ってくる。先程、モカにアランを任せた職員も一緒だった。

「長く任せてしまってすまなかった。……あれ、レベッカは?」

「呼んでいません。確か今日は、出掛けているので」

「そうだったのか、重ねて申し訳なかった」

「いいえ」

 モカは立ち上がると、その場所を彼らに明け渡すようにして後ろに下がる。椅子を丁寧に部屋の端に寄せ、振り返ればアランも視線に気付いてモカを見つめた。

「――また来るわね、お大事に、アラン君」

 この日以来、言葉通りにモカは頻繁にアランの病室を訪れるようになる。初日以外、モカは職員からそれを頼まれたことは無い。つまり彼女は、彼女の意志でこの病室を訪れた。退屈そうなアランの話し相手をしたり、戦場に戻りたいと職員に訴える彼を宥めたりした。そしてアランが幻肢痛げんしつう、もう失ってしまった片腕が痛んでいるように錯覚する症状で悩まされた夜には、一晩中、眠れるまで彼の肩を擦ってやるようなこともあった。

 当時、アランは間違いなく苦しんでいた。傷の痛み、そして、戦場に出られないことに対する鬱憤うっぷん。どれも確実に彼を蝕んでいたのだろうに、彼はタワーに運ばれた時以外に、職員やモカの前で笑みを絶やすことは無かった。苦痛によって、噴くように汗を流しても、アランは笑っていた。繰り返し彼の元を訪れる中、一度も崩れない表情に、モカは目を細める。

「あなたは強いわね」

「そりゃ、俺は女性達のアイドルだからね、弱くちゃいけないのさ」

 リハビリ室での休憩中、タオルを手渡せば返った軽口に、モカは笑った。アランは重い言葉をあまり言わない。冗句じょうくのような言葉ばかりを扱って、全ての会話をふわふわと軽いものに変えていく。そんな中で、続いた言葉は彼にしては僅かに真剣さを帯びていた。

「君が来てくれると、張りが出るな。頑張ろうって思えるよ、ありがとう」

 モカは何も応えずに、柔らかく目尻を下げただけだった。二人が交際するにあたってアプローチはアランからだったが、モカは彼からの言葉に拒むような様子は無く、いつも柔らかく微笑み、はっきりと交際を申し込まれた時も、彼女は二つ返事でそれを受け入れた。

 腕を失くしたのは十六歳。今のアランは十八歳。いずれにせよ大人から見ればまだまだ短い年数だろうが、人生で最も苦しい時期であったと彼は言い切れる。そしてそんな時期に献身的に傍で支えてくれたモカは救いであり、掛け替えのない存在だった。感謝という意味では、彼は今もその心を少しも損なわないままに持っている。

 それでも、交際したこと自体が良かったのかどうかの答えを、彼は出せないままでいた。『二年前』という偶然の一致が、二人を繋いだ。それが無ければ二人が付き合うことは無かったかもしれない。モカは、アランの病室へ通うこともしなかったかもしれない。それを知っているから、どれだけモカを心から大切に想っても、彼は答えを出せないのだ。もう別れてしまった今、答えを出すことに意味があるのかも分からないけれど。


「アラン、順調だね、また腕の時みたいに、無茶をするなよ」

「はは、そろそろ時効にしてくれないかな? あれから一度も、俺は医療班に逆らったことは無いつもりだぜ」

 再び負傷してしまったアランだったが、イルムガルドらに告げた通り、それは大きな怪我ではなかった。治療室には通っているものの、毎日来るように言われているわけでもない。つまり、そう神経質にならずとも問題の無いものだ。服を着て立ち上がると、診察の礼を言って治療室を出る。

 すると入り口の正面、廊下の端にモカが一人で立っていた。

「どうしたんだいモカ、君も治療かい?」

「いいえ、アラン君が今、診察中だと聞いて」

 だから何という言葉までモカは告げなかったけれど、アランはそれを指摘しない。少し眉を下げた後で、大袈裟に嬉しそうな笑みを浮かべた。

「それは光栄だ、WILLウィルで一番の美人が俺を訪ねてくれるなんてな」

 もはやアランにとっての枕詞だ。当然モカは慣れたもので、穏やかに目尻を下げるだけ。それは聞き流しているのとは少し違う。この後に続いて、ちゃんと彼が言葉を返すことを、モカは良く知っていた。

「何か用だったのかな、メッセージをくれれば俺から訪ねたのに。レベッカ達と過ごしていなくていいのかい?」

 真っ当に応じてくれるのは予想していたのだろうけれど、最後に添えられた言葉はそうでは無かったのだろうか。モカは少し視線を落とすと、一瞬、言葉を選んで沈黙した。

「今日は、フラヴィと二人で出掛けているから」

「……それで俺のところに?」

「あ、いいえ、ごめんなさい。そうじゃなくて」

 はっとした様子で顔を上げた後、またモカは視線を彷徨わせた。彼女にしては珍しく、焦った様子で言葉を紡いでいる。アランは急かすことなく、次の言葉を静かに待った。

「レベッカが居ると、すぐにアラン君に噛み付いてしまうから」

「ははは、そうだな、いや、モカが居場所を探して彷徨っていたわけでないならいいよ」

 そう言ってモカへと歩み寄りながら、ふと、何かに気付いた様子でアランは足を止めて、芝居がかった仕草で腕を組む。

「んん? いや、それでも俺は構わないな、何にせよ特上の美人が俺に会いに来てくれるんだ、俺には得だな!」

「そういうことばかり言うんだから」

 思わず笑ってしまったモカに、悪戯が成功したような顔で微笑み返すと、再び歩みを進めて、アランはモカの隣に立つ。寄り添うようではない。外を眺めるアランに対して、モカは窓に背を向けている。二人の間には半歩分の隙間が空いた。

「怪我の具合はどう?」

「ああ、心配させたのかな? つまらない怪我さ、砕けた敵の装甲が運悪く脇腹を掠めたんだ」

 左脇腹を指差しながらアランはそう説明した。内臓や骨に異常はない。ただ傷が開いたりしないよう、しっかり塞がってしまうまで療養ということになっている。

「そう」

「何も心配ないさ、俺の能力は、腕が取れても、脚が取れても戦えるんだから。ん、しかし脇腹が取れるとどうだろうな。気を付けないといけないね」

「それって少しも冗談にならないわ」

「ははは」

 治療室前の廊下はほとんど人の行き来が無い。治療室以外のものが此処には無い為、用が無い者が通り掛かるということが無いのだ。静かな廊下で、二人はのんびりと言葉を交わす。

「モカも前回は、随分と長い遠征だったみたいだけれど、大事なかったんだな」

「ええ」

 モカが長い遠征に出ている間、アランは三度、戦場へ出ている。最後の遠征は彼にとっても少し長かったけれど、それまで一度も戻っていなかったモカは更に長かった。二人が別れたのはそれよりも前のことだった為に関係があったわけでは無いのだろうけれど、気に留めないで居られるほど、アランにとってモカはどうでもいい存在ではない。

「目は?」

 それを尋ねる時には、視線を真っ直ぐにモカへと向けたことも、それの表れなのだろう。横目で視線を受け止めて、モカはゴーグルの中で目尻を緩める。

「特に状況は変わらないわ。今も医療班の方々が賢明に治療法を探って下さっているところ」

「そうか」

 二人の間には短い沈黙が落ちる。それは互いが話題を失くしたことが理由ではなく、アランが言葉を止めたからだ。アランはモカの横顔を見つめて視線を待つ。気付いたモカが視線をアランに向けて小さく首を傾ければ、殊更ことさらにっこりとアランが微笑み返した。

「立ち話も何だ、部屋に来るかい? ああ、勿論これは紳士的な誘いだよ」

「ふふ、とても魅力的なお誘いだけれど、止めておくわ。あなたと話すと、すぐに時間を忘れてしまうから。またレベッカに見つかってしまう」

 以前レベッカからも指摘があったが、モカはアランと恋人となった際にそれをレベッカに積極的に告げなかった。告げることになったのは、モカの部屋から夜遅くにアランが出た瞬間をレベッカに見つかったせいだ。目を丸めている彼女に、苦笑いをしながらモカが関係を告げた。あの偶然が無ければ、今もモカはレベッカには告げていなかったのかもしれない。

「はは。振られてしまったのは残念だけど、その言葉は嬉しいから大人しく引き下がるとしようかな」

 そう返すアランは、断られてしまったことを少しも意外そうにしていない。残念と口では言うが、予想の範疇だったのだろう。一歩、モカから離れるようにしてアランは後ろに下がる。そして身体をモカへと真っ直ぐに向けた。モカはそれに応じ、同じく身体を彼の方へと向ける。一歩半の距離で、互いは顔を向き合わせていた。

「一緒に居たいなら、居て良いんだと思うけどね、俺は」

 誰の話であるのかを、二人の間で告げる必要はもう無い。モカは首を傾けるようなことはせずに、緩く笑った。

「ありがとう、前のように気を遣っているつもりはないのよ、あなたのお陰で」

「そうか、それならいい」

 別れる少し前から、アランは自分が何故選ばれたのかを理解していた。そして、彼女が本当に求めているものも。それでも彼はやはり、モカに対する感謝の念は失くせないのだ。理由が何だったとしても、当時傍に居てくれたことは、彼には大切な時間だった。だから『良かったのかどうか』と考えるのは、彼側の気持ちの話ではない。

「寂しくなったらいつでも歓迎するよ。俺はいつだって君を愛する準備が出来ているからね」

「女性全てを、でしょう?」

「勿論! それが俺の使命だからな」

 軽口に全て変えてしまうのは、そしてモカを特別だと決して言わないのは、モカの罪悪感に触れないようにと思うからなのだろう。モカにもそれはよく伝わっていた。

「だから俺は、いつも君の幸せを願っているよ、……勿論、レベッカの幸せもね」

「だったらあまりレベッカを煽らないで。こうして話す時間も儘ならなくなってしまったじゃない」

「はは、おかしいなぁ、俺にそんなつもりはないよ? 彼女の愛を、俺の愛で受け止めているんだよ」

「ずるい人ね」

 その言葉にアランはただ微笑む。「どの口が言うのか」等と指摘しないのは、彼の甘さでもあり、彼の優しい厳しさでもある。モカはすぐにそれに気付いて、眉を下げて苦笑した。

「じゃあ、私は行くわね」

「ああ、また」

 先に廊下を立ち去っていく後ろ姿を、足を止めてアランは見つめた。治療室の廊下に人が少ないのは、治療室以外のものが無いから。つまりアランが立ち去るにも方向は同じであって、二人が此処で解散しなければならない理由など、そういう意味では何も無かった。しかし、モカは人目を避けたのだろうと思うから、アランは立ち止まっていた。廊下の角に差し掛かり、曲がれば彼女の姿はもう見えなくなるだろうと思った瞬間、モカは大きく肩をびくつかせ、立ち止まった。

「いっ……」

 モカの奇妙な声に、アランは眉を顰めて咄嗟に駆け寄ろうと大きく足を踏み出す。だが彼女が続けた言葉に、再び足を止めた。

「……イルムガルド、いつからそこに?」

 その言葉に応じてイルムガルドが廊下の角から顔を出す。彼女はモカを押し退けるようにして、治療室に向かって歩いた。

「わたしも治療室に行くから、そんなところで話し込まれると困る」

「それは、……ごめんなさい」

 どうやらアランの診察が終わった後、イルムガルドの診察が予定されていたらしい。彼女が素直にこの廊下に入り込んでさえくれれば廊下側に身体を向けていたモカがすぐに気付いて会話を止めたに違いないのに、何故そこで止まってしまったのか。そんな疑問はモカの中には浮かんでいたけれど、それをイルムガルドへぶつける気にはならない。こんな場所で会話をしたのはあくまでもモカ側の事情でしかなかったからだ。内心、項垂れていたけれど。イルムガルドはモカを一瞥した後、それ以上の言葉なく再び治療室の方へと歩く。モカは少し慌てて、その背に声を掛けた。

「イルムガルド、さっきの」

 足を止めて振り返ったイルムガルドは、眉を顰め、面倒くさそうな顔をした。

「言わないよ」

 モカはもう呼び止めなかった。イルムガルドももう振り返ろうとはせず、治療室の中へと姿を消す。アランはモカ同様にその姿をしばらく目で追って、小さく息を吐いた。

「大丈夫そうかい?」

「……多分ね」

 首を傾けてモカはそう答える。本心かどうかは分からないが、おそらくモカはイルムガルドがどう出たとしてもけむに巻く自信があるのだろう。モカを横目に、アランはそう思いながら、微かに目を細めていた。そして二度目の挨拶を交わしてモカを見送った後、もう一度、治療室を振り返る。そこにもう誰の姿も無いけれど。

「確かに引っ掻き回すつもりがあるようには見えないが、……何も考えていないのとは、違う気がするんだよな。魅力的だが、少し怖い子だな」

 それが彼のイルムガルドに対する所感らしい。見る人によって全く印象の異なるその様を、彼は『魔性』と呼んだのだろうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る