第43話_珈琲を並べた司令室

 コーヒーカップから立つ湯気を小さな吐息で掻き消して、モカは一度その香りを大きく吸い込んでから、ゆっくりと口を付ける。

「豆、変えましたか?」

「ああ、珍しいものが手に入ったから、少しブレンドしている」

 問われたデイヴィッドは頷き、向かいのソファで同じようにコーヒーを味わう。モカは何かを確かめるようにもう一口を飲み、首を傾けた。

「この豆、国内で手に入るものですか?」

「鋭いな。いや、これは友好国からの輸入品だ。レアだぞ」

 この国はほぼ孤立状態の工業大国であり、周囲は敵国ばかりだ。友好国自体が稀で、輸入品はほとんど存在しない。彼のような要人ならば手に入る機会は多少なりとあるのかもしれないが、一般人はそうはいかない。何かの祝いに数少ない友好国が贈り物をしてくれた場合にのみ、運が良ければ手に出来る程度だった。つまりモカでは自由に手に入れられない類の豆だ。「ずるいですね」と小さく零せばデイヴィッドが楽しそうに笑った。

「香りは少し独特ですが、すっきりしていて好きです」

「ああ。気に入ってくれたなら良かった」

 再び二人がカップをゆっくりと傾ける間、少しの沈黙が部屋に落ちる。ちらりと窺うようにモカを見た後、デイヴィッドは持っていたカップを静かにソーサーへと戻した。そしてもう一度モカを見つめ、右の眉だけを器用に上げる。

「それで、本題は何だ、モカ」

「あら、せっかちですね。私とお茶をする時間は退屈でしょうか」

「いやいや、そういう意味ではない」

 デイヴィッドは居心地悪そうに項垂れ、後頭部を撫でている。そんなに乱暴にしていればいつかその辺りから毛が減ってしまいそうだ。眺めながらモカは目を細めるが、当然、口にはしなかった。

「お前はレベッカとは全く違う怖さがあるよ。一体何を咎められるのかと、身構えてしまう」

 彼の言葉に、モカは口元に笑みを浮かべるだけで何も返さない。またのんびりとコーヒーを傾け、その香りを堪能してから、ようやくカップをソーサーへ置いた。その仕草は先程のデイヴィッドよりもずっと静かだった。

「そうですね、……イルムガルドの調子は如何いかがでしょう?」

 本題の開示はデイヴィッドの望むところだったのだろうに、彼はモカの言葉に目を丸め、数秒間、静止する。

「お前まであの子にそこまで入れ込むのか、意外だな」

 以前レベッカも、イルムガルドに興味を示したモカを『珍しい』と言っていた。周りへの接し方という点において、モカはレベッカとは真逆に近い。レベッカはとにかく世話を焼く。誰とでも多くを話し、仲良くなる努力を怠らない。広く仲間を愛して、奇跡の子らを守ることを常に考えている。一方モカは誰に対しても友好的には振舞うが、踏み込むような真似はしない。彼女が積極的に動く理由はただ一人、レベッカが関わる場合だけ。誰もがその認識である中、今、彼女はイルムガルドの件で単身、デイヴィッドを訪ねてきている。それを意外と思われることもモカは理解しているのだろうに、デイヴィッドの言葉にはやはり笑みを浮かべるだけで何も答えなかった。

「まあいい。そうだな、ミズ・アシュリーの効果は確かだった。遠征から戻ったあの子は四日で体重を戻したよ。各数値も安定しているそうだ」

「そうですか、それは良かった」

 殊更にっこりとモカが浮かべた笑みに、デイヴィッドは無意識に背筋を伸ばす。その予感は正しかった。モカの声は歌うように楽しげであるのに、デイヴィッド、そして傍に控えていた職員達を凍り付かせる。

「けれどそれはイルムガルドが『幸せ』を感じることがのですよね?」

 沈黙するデイヴィッドを気遣うことはなく、モカはゴーグルの中で目を細め、笑みを深めた。

「だって、そんなわけが無いじゃないですか」

 デイヴィッドはもうモカから視線を逸らせない。それを動かし、職員らへと向けてしまえば彼女が読み取る何かの『答え』になる。しかし、彼女の目の前で揺れてしまう瞳も雄弁で、モカは機嫌を良くしていくばかりだ。

「それなら、あの子は十六年どうやって生きていたのですか? 能力に気付いていなかった間には過度な使用が無かったとしても、訓練所では今以上の使用頻度だったはず。説明など、何も付いていませんよ」

 訓練所では能力を正しく測定し、制御を習得させるべく毎日のように使用させている。イルムガルドは他の子と比べて訓練期間が短かったことは事実だが、それでも十日間ほど、彼女は他の子ら同様に訓練をした。そしてWILLウィル所属後、倒れる直前の遠征を除けば不調が表れるまでにそこまでの使用頻度は一度も無かったはずだ。しかしアシュリーと出会っていたにもかかわらず彼女は所属後からじわじわと弱り、倒れてしまった。イルムガルドのあれがもし生まれ持った『体質』であったなら、その事実に、全く説明が付かない。

 モカは最初からその矛盾に気付いていた。レベッカ達があの場で気付かなかった為、指摘を控えただけだ。

「生まれ持ったものではなく、あれは『ストレス』なのでしょう、司令」

 そう告げる瞬間にだけ、モカは微かに眉を寄せた。十数秒の沈黙を挟み、デイヴィッドは片手で額を覆って長い溜息を吐く。

「……ああ、そうだ。少なくとも、医療班が今その見解を示している」

 アシュリーとの日々が吸収率が上がっているというのは、間違いではないが、厳密には違った。

 原因はイルムガルドが抱えている『ストレス』であり、アシュリーの傍でそれが、本来あるべき吸収率に戻ることがあるだけ。医療班は当初、アシュリーの傍に居る間や手料理を取っている間に分泌されるホルモンが問題のホルモンに影響しているという見解を持っていた。だが実際は逆で、アシュリーの傍に間のイルムガルドが過度なストレスを抱えており、それによって変化する何かが切っ掛けでホルモン異常が出ているのだ。後半はまだ仮説の状態で、医療班が特定を急いでいる。

「何にせよ、どうやらあれは生まれ持った体質ではない。イルムガルドは本来、吸収率に異常など持っていなかったんだろう」

「そうでしょうね。だから、情報をお控えになったんですね」

 重なる指摘に、デイヴィッドは半ば諦めた様子で腕を組んで天井を仰ぐ。その姿勢が落ち着くのを見守ってからモカが言葉を続けることを、気遣いであると評するべきか、今この場に居る誰にも分からない。

「……訓練所で、何かありましたよね? 勿論あれだけ複雑に傷付いていれば、故郷でも何かあったのでしょうけれど」

 イルムガルドは訓練所では倒れなかった。訓練を終えて、WILLウィルに所属してから表れた症状。彼女がストレスを受ける『原因』となる出来事があるのであれば、タイミングはそこにしかない。一度コーヒーで喉を潤したモカは視線をデイヴィッドに戻したけれど、デイヴィッドは天井を仰いだままで動かない。それは彼からの肯定だった。

「故郷から離れる時に傷付いて、更に訓練所で何かあって傷付いたとなれば、原因はWILLウィルにしかない。……秘密にしたいはずです。明るみになれば、内からも外からも間違いなく責められるでしょう」

「だから、俺はお前が怖いんだ……」

 ようやく口を開いたデイヴィッドは低い声でそう言った。モカが微かに声を漏らして笑う。

「心外ですね。私はレベッカさえ傷付かなければ、基本はWILLウィルの運営には賛同しています。咎めるつもりで申し上げているわけではありませんよ」

 実際、モカはこれらの矛盾に気付きながらも皆の前でそれを指摘しようとはしなかった。こうして物事が落ち着いてから一人でやってきて、他の奇跡の子らに聞かせることなく指摘している。気付いたのがレベッカやフラヴィであれば、こうはならない。

「ですが、私も事情を知らないままではフォローが行き届かない場合があります」

 モカは時折、デイヴィッドやWILLウィルにとって都合の悪い話に転がりそうだと感じればレベッカ達の会話や意識を意図的に誘導して逸らしている。だが、都合が悪いかどうかは、あくまでもモカの予想の範囲だ。全く予想外の場所に突かれて痛い場所があれば逸らすことは出来ない。むしろ誘導先が痛い場所となってしまう可能性もある。

「私に話しておくべきとお考えのことはありますか?」

 意地悪な問い方であることをモカは正しく理解している。首を傾け、浮かべる笑みは優しさに似せているが彼女はそれを徹底しない。彼女なりの意図と、目的があることをデイヴィッドらはきちんと察していた。だからこれは助け合いとはまた違う。協定だ。緩くデイヴィッドは頷いた。

「――他言無用だ」

「ええ」


 二人が話を終える頃にはもう、コーヒーは冷めていた。それでもモカはそれを綺麗に飲み干してから、丁寧に礼を言って立ち上がる。

「長居をしてしまいましたね」

「いや、ああ、そうだ言い忘れていた」

「何でしょう」

 もう退室しようとソファから数歩離れてしまったモカだったが、何かを話そうとする気配を感じるときちんと立ち止まり、身体を彼へと向ける形で振り返った。

「三つのチームの帰還だが、その内の一つは、アランのチームだ」

 表情を動かさないままで、モカは静止した。言葉を返すでもなく、反応するでもなく、勿論、不躾ぶしつけに背を向けるでもなく、ただ止まった。デイヴィッドはその理由を察した様子も無く、怪訝な顔で首を傾ける。その反応にようやくモカが、少しだけ目を細めた。

「意趣返しのおつもりですか?」

「い、いやそうじゃない!」

 彼女の返しにぎょっとした顔をして、デイヴィッドは慌てて両手を顔の前で左右に振る。決してそんなつもりは無いのだと、表情と動作全てで伝えようと必死だ。彼には少しも悪気が無かったのだと知り、少し呆れた様子でモカは息を吐く。

「私にはもう関係の無いことですよ」

「そうか、すまない、気にしているかと思ったんだ。……しかしアランは、お前を心配していたよ」

「……そうですか」

 モカは視線を落として静かにそう言うと、それ以上は何も言わずに頭を下げて部屋を出て行った。その背中を見送ったデイヴィッドは、参った様子で再び後頭部を擦る。

「あれが意趣返しになるのか……なるほど確かに、『知らない』というのは危ういな」

 疲れ果てているデイヴィッドに、職員は淹れ直した熱いコーヒーを黙ってテーブルに置いた。


 その日、アシュリーは寝坊していた。今朝は帰りが遅く、眠ったのも朝十時をすっかり回っていたせいだ。十五時を少し過ぎてようやく目を覚ましたアシュリーの隣にはもう、一緒に眠っていたはずのイルムガルドの姿は無い。重い目蓋をこじ開けて時計を見る。もしも一人で暮らしていたのならまだ眠ったかもしれないが、寝室の外に感じる気配に、アシュリーは小さく「もう」と呟いて身体を起こした。

「あ、おはよう、アシュリー」

 寝室から顔を出せば、イルムガルドはその気配に振り返って柔らかな笑みを浮かべる。可愛らしい表情に思わず笑みで応えるけれど、アシュリーはゆっくりと眉を下げた。

「おはよう……もう、イル、私の仕事を取らないでったら」

「えー?」

 きらきらと陽の差し込むベランダを見やれば等間隔に干された洗濯物が揺れているし、今のイルムガルドは明らかにリビングの拭き掃除真っ最中だ。アシュリーは大袈裟に項垂れる。

 物心付いた頃から一人でずっと生活していただけあって、イルムガルドは基本的に家事全般が出来るし、少しもそれを嫌がらない。料理に関しては知らない料理や調理法が多いものの、掃除や洗濯は仕事にもあったとのことで手慣れている。その為、こうして二人で生活する中、気が付くともうイルムガルドに家事を片付けられていることが多かった。

 今朝、アシュリーは下町の仕事を退職した。挨拶や、軽い送別会があった為に今日は帰宅が遅かったのだ。今のところアシュリーは外へ新たに働きに出る予定が無く、つまり今日から専業主婦となる。大黒柱はイルムガルドであるので、アシュリーは家事一切を自分の仕事だと思っていた。だが、イルムガルドが何故か掃除や洗濯を片付けてしまう。アシュリーはそれを『私の仕事を取っている』と訴えていた。しかしどれだけ柔らかく丁寧にイルムガルドへとそれを伝えてみても、彼女は必ず首を傾ける。

「わたしも仕事無いよ?」

「あなたの今の仕事はゆっくり休んで体調を戻すことなの」

「うーん?」

 何度言い聞かせても伝わらない。イルムガルドは自分がもう元気である認識であるようで、周りの心配がよく分かっていないらしい。そして話している今も彼女は全く掃除の手を止めていない。丁寧に木目に沿って雑巾を滑らせている。

「でも掃除好きだしなぁ」

 その返しに、アシュリーは困った様子で頬に手を当てて小さく息を吐く。事実、イルムガルドはいつも楽しそうに掃除をしている。一つの掃除が終わると次はどこを掃除しようかと探し始めるくらいだ。本当に彼女が楽しんでいるのであれば、無為に辞めさせるのも可哀想かもしれない。しばらくアシュリーは考える様子を見せてから、結局、強く言うことは諦めた。何処までもアシュリーは、イルムガルドに甘いのだ。

「根を詰めないようにだけ、ちゃんと注意してね」

「はぁい」

「それが終わったら休憩しましょ」

 イルムガルドが頷くのを見守ってから、アシュリーは身支度を整えてキッチンへと入る。彼女自身はあまり空腹ではないものの、イルムガルドには何か食べさせなければならないだろう。見ればイルムガルドは拭き掃除を終えたようで、道具を片付けていた。

「イル、起きてから何か食べた?」

「ううん、えーと、りんごジュース飲んだ」

「何もないよりは良いわね」

 選択が愛らしくて思わず笑みが零れる。アシュリーが不在でも何か食べられるように少しは作り置きもしてあるのだけれど、イルムガルドは簡単に摂れるものを優先しやすい。ジュースの減りが一番早く、次がパンと果物だった。これからはアシュリーが家に居るのだから心配は無いにしても、もう少し積極的に食事をしてくれるような工夫も考えた方がいいだろうか。

「アシュリー、何か手伝う?」

 そんなことを考えつつ、冷蔵庫から卵と牛乳を取り出していると、イルムガルドもキッチンへと入ってきた。次から次へと仕事を探したがるのは、生来のものなのだろうか。そう思う一方でアシュリーは一瞬、何でも手伝いたがっていた小さな頃の妹のことを思い出した。一緒にしてしまうと流石のイルムガルドも怒るかもしれない。

「イルは働き者ね。簡単だから今日はいいわ。パンケーキでいいかしら」

「うん、嬉しい」

「ゆっくりして待っていて」

「はーい」

 返事は良かったものの、キッチンを離れたイルムガルドを視線で追えば何故か次はベランダに出てごそごそと動いている。彼女は『ゆっくりする』という言葉の意味を知っているのだろうか。アシュリーはやれやれと苦笑を零す。けれどあまり行動を制限してしまってストレスを溜めさせても仕方が無い。手元へと視線を戻して、丁寧に卵を一つ割った。

 イルムガルドが戻ってテーブルに着いたのは十五分ほど経った頃だが、今度はテーブルの端の籠に入るパンを楽しそうに並べ直していた。ほとんどが、今朝持ち帰ったものだ。

「パンが沢山あって嬉しいなぁ」

「ふふ、喜んでくれて良かったわ」

 結局、パンは店主に頼んで買わせてもらえることになった。したがってアシュリーは今後も定期的に店へ客として通うことになる。お陰であまり離別の寂しさは無い。イルムガルドは「行ける時はわたしも一緒に行く」と嬉しそうにしていたが、さて、連れて行くのはどうなのだろう。パンを欲しがっているのが伴侶であることも告げてしまったことを思えば、それだけでも気恥ずかしい。また、ゴーグルを着けていても注視されればイルムガルドだと気付く人が出てきそうだから、その点も問題かもしれない。ただ、妙に嬉しそうなイルムガルドに水を差すことが出来ず、その時に改めて考えようとアシュリーは課題を横に避けた。

「イル、頬にクリーム」

「ん、む」

 甘いものを好むイルムガルドにとたっぷり乗せたホイップクリーム。喜ぶイルムガルドも愛らしかったが、食べることに夢中になって頬にまで付けている様は更に可愛らしい。一度は拭うのだけど、また大きく頬張って新しいものを付けている。食後にまた拭いてやればいいだろう。笑うだけで指摘を控え、アシュリーも自分用に切り分けた小さめのパンケーキを口に運ぶ。

「アシュリーと食べるようになって、好きなものが増えたなぁ」

「そう言ってくれると作り甲斐があるわね、嬉しい。パンケーキも好き?」

「うん、特に生クリームが好き」

「そう」

 機嫌よく話すイルムガルドの言葉に嬉しそうに目尻を下げた後で、食事に集中する彼女が気付かない程度に微かに、アシュリーは視線を落としていた。

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