第37話_引力に揺らぐ司令室

「ボス、連れてきた」

 入り込んだ第一声がそれで、「失礼します」などの挨拶でないことにアシュリーは一瞬目を見張ってから、遅れて「失礼致します」と小さく付け足した。イルムガルドはこれが通常運転であるらしいが、アシュリーからすれば恐ろしいことこの上ない。

 そんなアシュリーの胸中も知らず、ふとイルムガルドは部屋の端へ目を向け、軽く眉を上げる。そこには、何故かレベッカ、フラヴィ、ウーシン、そしてモカが並んでいたのだ。

「……何で居るの?」

 流石にこれにはイルムガルドも予想外だったのか疑問を口にする。デイヴィッドが困ったように笑った。

「いや、すまんな、どうしてもイルムガルドの奥さんが見たいと言って聞かない。廊下で騒いでも困るだろうから、中に入れたんだ。大人しくしていろとは言い含めているから、気にしないでやってくれ」

「ふうん」

 何とも緩い限りだ。いつものことだけれど。目が合ったレベッカとモカは笑みを浮かべている。フラヴィはもうすっかりアシュリーを見つめていてイルムガルドを見ようともしていないが、ウーシンは無理やり付き合わされたのか別の意図があるのか、何故かそっぽを向いて居心地悪そうに眉を顰めている。

 一方、アシュリーはモニターで何度も見た有名な奇跡の子らが並んでいる衝撃に呆けてしまい、数拍固まってからはっとしてデイヴィッドへと向き直った。

「あ、あの、ごめんなさい、有名な子達に、驚いてしまって」

 軽く混乱したアシュリーが、その動揺の行き場をイルムガルドにした。隣に立つ彼女に徐に手を伸ばし、その頭を意味も無くわしわしと撫でる。

「あははっ、なになに、アシュリー、これなに?」

 髪を乱されたイルムガルドは、心底楽しそうに。その反応に、当然、部屋の中で再び時が止まる。イルムガルドは、一切隠そうという様子無く、いつもアシュリーの前で見せている『イル』のままで、笑ったのだ。

「ああ、ごめんねイル、つい」

 勿論そのことにアシュリーは驚かない。これは彼女がいつも見ている慣れたイルムガルドの姿であるのだから。咄嗟に周りの動揺を気付くこともなく、自ら乱してしまったイルムガルドの髪を丁寧に直していく。イルムガルドは口元に笑みを残したままで、それを大人しく受け入れていた。

「わたしに触ると落ち着くの? やっぱり手、繋いでようか」

「そ、それはいいわ、もう、大丈夫」

 身体の前で手を揃え、しゃんと背筋を伸ばすアシュリー。イルムガルドはそんな彼女に柔らかく微笑むと、同じくデイヴィッドの方へと向き直る。ただ、その表情はアシュリーに向けたものとは全く違い、この部屋の者がいつも見ているNo.103としての無表情へと戻っていた。イルムガルドを見つめている周りの目にアシュリーが気付いたのはその時だ。彼らの驚きを見止め、横目でイルムガルドを確認して確信する。やはり、タワーの中でのイルムガルドは、笑わないのだと。そうかもしれないという予想はあったが、その差を目の当たりにして、彼女を取り囲む人々が驚愕する様子に、アシュリーは傷付いたように眉を下げた。彼女自身にも、どうして胸が痛むのかは、きっと分かっていない。イルムガルドにはどれだけ、みんなの驚きや、アシュリーが悲しく思う気持ちが伝わっているのだろう。

 部屋の空気を断ち切るように、デイヴィッドは一つ咳払いをして、アシュリーを見つめた。

「失礼、挨拶が遅れてしまいました。特務機関WILLウィルで総司令官を務めさせて頂いている、デイヴィッド・T・クラークです」

 アシュリーはその大きな体躯に怯えるようなこともなく、彼を見上げながら、少し眉を垂らして微笑んだ。

「お声に覚えがございます、司令官様がいつもアナウンスされていたのですね」

 モニターやテレビでの放送時に付けられる解説や、奇跡の子らの紹介の声は必ずデイヴィッドが自ら担当していた。ただ、デイヴィッドは普段、公に顔を出すことが全く無く、アシュリーはどんなニュースの中でもその顔を見たことが無かった。この街で、WILLウィルの総司令官の顔を知っている一般市民は居ないのだ。

「私は六番街で暮らしているアシュリーと言います。ラストネームを持たない身分をお許しください」

 アシュリーの挨拶に、イルムガルドが振り返って少し首を傾けるのを見て、アシュリーが何も言わず微笑みを返す。イルムガルドにはどうして謝罪となるのかが分からないのだろうけれど、アシュリーはそれを説明したくはなかったのだ。

「いや、気にしないで頂きたい、奇跡の子らもほとんどがラストネームを持ちません」

 大袈裟なほどに眉を下げてそう言うと、デイヴィッドはアシュリーとイルムガルドを大きなソファに座らせ、正面に座る。程なくして、職員が三人分のコーヒーをテーブルに並べた。

「ミズ・アシュリーにはご足労頂き、大変申し訳なく思っています、我々が下町に赴くことにも色々制限があるもので」

「いいえ、私へのお気遣いだったことは承知しております」

 もしもデイヴィッドやその側近が、下町の一角へとアシュリーを訪ねて来るようなことがあれば、いくらデイヴィッドの顔を知る者が居なくとも、物々しいことこの上ない。そもそも全員の立ち居振る舞いが下町とは違いすぎて、明らかに要人であると分かってしまう。騒ぎとなり、最も迷惑を被るのがアシュリーとなるのは想像に難くなかった。こうしてタワー内へ招待されることも恐ろしくはあったものの、直接訪ねられることと比べれば雲泥の差だった。

「正直、イルムガルドから話を聞いて、驚きました」

 デイヴィッドの苦笑に、アシュリーも控えめな苦笑を返す。イルムガルドの唐突さは、イルムガルド以外の全員が等しく振り回されるものだ。

「こんな綺麗なお嬢さんを一体どこで見つけてきたんだ、イルムガルド」

「あー、五番街の公衆ト」

「イル、それだめ」

 慌てて隣の袖を引くが、一瞬驚きに固まってしまった隙間があり、間に合わなかった。アシュリーが口止めをしたという行為も相まって、部屋に居る全員に、『五番街の公衆トイレ』であることが伝わる。イルムガルドが知らなかっただけで、あの場所はあまりに有名なのだ。子供ならばともかく、大人であればゼロ番街の者も全員知っているだろう。わざわざその目的で、ゼロ番街や一番街から赴く者も少なくはないのだから。取り繕うことを諦め、アシュリーは内心、項垂れていた。

「あの……申し訳ございません、元々、そのような副業をしておりまして、今はしていないのですけれど」

 アシュリーは、この事実それ自体を隠すつもりは毛頭無かった。相手は政府の要人で、イルムガルドは奇跡の子だ。己の身辺調査くらいはされるだろうと、隠すことの無意味さをよく分かっていた。ただ、アシュリーが今を避けたかったのは、部屋の端に子供が居るせいだ。一瞬、彼らが待機する近くへと視線を泳がせても、直視する勇気は無かった。

「あー、でも、アシュリーには何もされてない、わたしがした」

「イル、せめて子供の居ないところにして、お願いだから」

 強く袖を引くけれど、尚もイルムガルドは首を傾けるだけで、伝わらない。しかしイルムガルドがこれを告げたことによって、『問題』の形は確かに変わる。イルムガルドは多少なりとその理解があったのかもしれないけれど、今、アシュリーには恥ずかしいだけの話だ。何にせよ、全員に、『イルムガルドの方から彼女に対してお盛んに手を出した』という状況が伝わってしまった。

「ワォ」

 部屋の端から、短く呟いたレベッカの声が零れる。傍らではモカが耐え切れぬ様子で笑っており、フラヴィとウーシンは無言を貫いていた。微かに二人の眉間の皺が深くなっているようにも見える。少しだけの沈黙が司令室に落ちた。

「いや、そうですか、ええと、イルムガルドが申し訳ない……」

「いえ……」

 よく分からない言葉を交わす羽目にはなったものの、デイヴィッドがそれを問題として取り上げようとしないことに、アシュリーは半分安堵していた。ただもう半分、違和感を抱いた。奇跡の子に対して、そんな緩い対応でいいのだろうかという疑問だ。流していいと判断される問題であるとは思えないけれど、彼もまた、傍に控える子供達を慮ったのだろうか。

「えー、雑談が過ぎました。では早速、手続きの話をしましょう」

 仕切り直すようにデイヴィッドはそう言い、職員にいくつか書類を用意させる。

「話はシンプルです。まずイルムガルドにラストネームを持たせ、結婚を理由にミズ・アシュリーにもそのラストネームを付与します」

 彼はあまりにもあっさりと、アシュリーからすれば有り得ないとも思えることを口にした。驚くアシュリーの顔を見て、デイヴィッドは理解を示すように一つ頷く。

「イルムガルドは奇跡の子ですから、色々と特例が通せます。ミズ・アシュリーについては、ラストネームを持つ方へ嫁ぐのと変わらない手続きですね」

 ラストネームを新たに付けるという届けは受理されないが、皆無ではない。唯一の手段は、既にラストネームを持つ者と結婚する、またはその者の養子となることだった。ただ、街の区画が厳密に区切られていることから、そんな出会いは都市伝説と言えるほどに稀有であり、ない。

「お前なら望めば好きなものを付けられるぞ、何がいい、イルムガルド」

「えー、アシュリー何か付けたいのある?」

「急に言われても……イルは無いの?」

「うーん」

 唐突な話に、二人からは何の案も出ない。ラストネームを持つなど、下町に生きる者は考えたことなど無い。まして、自分の望み通りに付けられるなんて話が、降って湧いてくるだなんて。どうあれイルムガルドに付く名をアシュリーが分け持つものなのだから、アシュリーではなくイルムガルドの望みに沿うべきだと考え、そのまま問い返したものの、十秒後にそれを後悔した。

「あ、じゃあグラヴィタ」

「重力、いや引力か? なるほどロマンチックだな」

 一瞬の空白を挟み、アシュリーは慌ててイルムガルドの袖を再び引く。

「――待って、それ」

「伝わった?」

 目を見開くアシュリーを見つめて、イルムガルドが楽しそうな笑みを浮かべている。『外では言わないで』と言い含めたことがまさか働く日が来るとは。イルムガルドが星を知った夜に、アシュリーの瞳が地球の色で、イルムガルドの瞳を月の色だと例え合ったことが、イルムガルドにとっては大切な思い出だったのだろう。二つの星が離れることなく傍にある繋がりとしての『引力』を、二人を繋ぐ名前にしたいらしい。……アシュリーには、恥ずかしすぎる内容だった。

「ちょっと、それ、後で話しましょう。あの、少し待って頂くことは」

「勿論、問題ありません。これは書類上のことで、急ぎませんので」

 デイヴィッドの言葉に小さく息を吐くアシュリーを、尚もイルムガルドは楽しそうに見つめるばかりだ。

「では次の話になりますが、結婚にあたってもう一つ必要なのが、二人が住む、ゼロ番街の住居です」

 イルムガルドとアシュリーが切り替えるのを待たず、すぐにデイヴィッドは話を進めた。それは、気遣いよりも、デイヴィッドのほんの少しの焦りだった。

「申し訳ないことですが、ミズ・アシュリーにはゼロ番街に住んで頂くことになります。イルムガルドが外に住むことだけは、許可できない為、その点はご理解を頂きたく」

 彼の言葉は、アシュリーには納得のできるものだ。イルムガルドを外に住まわせるか、アシュリーを中に入れるかの二択になるとすれば、前者しかない。けれど、イルムガルドは、少しだけ心配そうに眉を下げてアシュリーを見つめる。

「あー、……そっか、家族と遠くなる、ね、アシュリー」

 持たないイルムガルドだからこそ、ほんの少しでも引き離すことを悲しく思うのだろうか。気を遣わせないように、アシュリーはイルムガルドに柔らかな笑みを返した。

「会えなくなるわけじゃないでしょう、遠くなると言っても、あなたがいつも会いに来てくれたのとほとんど同じ距離なんだから」

 慰めるように、優しいイルムガルドの肩を手の平で撫でる。そしてまたデイヴィッドへと向き直った。

「引っ越しに対して、私に憂いはございません。それよりも、それが許される方に驚いていますけれど……」

 気になるのはそこだった。確かにアシュリーを引っ越しさせるべきだろうけれど、そんなにも容易く、下町の者がゼロ番街へと入り込めるものだろうか。しかしデイヴィッドは容易く頷く。

ゼロ番街には、奇跡の子の家族が何世帯も移り住んでいます。何の問題もありません。また、イルムガルドについては特に、事情が違いまして」

 首を傾けるアシュリーに対して、デイヴィッドは少し言い辛そうに眉を寄せた。

「これは相談になりますが、一日でも早く、移り住んで頂きたい。理由は、イルムガルドの体調です」

 デイヴィッドは、今回イルムガルドが倒れてしまったことの詳細をアシュリーに語った。そして、まだ推測の域を出ないものの、アシュリーの傍で過ごし、アシュリーの手料理を取っている間の回復が圧倒的に早いということを告げた。

「手料理は初めて聞いたけど」

「ああ、これは俺も今朝聞いたんだ。ミズ・アシュリーに会いに行く生活をしていても、やはり食堂で取った食事については吸収率が明らかに低いらしい」

 今のように日々アシュリーの部屋へ通う生活でも順調にイルムガルドは回復しており、すぐに倒れるような心配はないだろうと考えられている。ただ、再び遠征をし、能力を使用するようになればどうなるかは分からない。今は遠征をせず休ませることが出来ているが、イルムガルドの出撃が必須となるケースは今後必ず出てくる。特にイルムガルドの不調はまだ伏せられている為、軍の方からイルムガルドを指名されてしまうと、情報を伏せたままで断り続けることは不可能だ。そのような状況から、WILLウィルとしては、アシュリーに一刻も早く引っ越しを済ませてもらい、イルムガルドと暮らしてほしいという考えなのだ。

 アシュリーはその話に、眉を顰めていた。過労で倒れたという事実以外のことを、イルムガルドから何も聞いていなかったのだ。

「そういうお話であれば、むしろ私からお願いしたいほどです」

 答えながら、イルムガルドを振り返り、その頬を撫でる。頭を緩く傾けてその手を受け止め、まるで反射的に目尻を下げているイルムガルドは、アシュリーの心情をあまり理解していないらしい。

「……自分の身体の話、知っていたのね、ちゃんと話してほしかったわ?」

 イルムガルドが先程『手料理は』と言ったことで、それ以外の内容は全てイルムガルドも認識していたのだとアシュリーは察した。悲しそうに笑うアシュリーを見て、ようやく少し、イルムガルドが申し訳なさそうに眉を下げる。

「あー、……ごめん、アシュリーも仕事あるから、あんまり、気を遣ってほしくなくて」

 もしも告げていれば、確かにアシュリーはイルムガルドを心配し、己が休む時間を削ってでも長くイルムガルドと過ごす時間を確保しようとしただろう。だからこそイルムガルドは告げなかったと言う。彼女は自分自身がこんな状態であっても、アシュリーの体調と天秤に掛けてしまえば、己が優先されることを喜べないのだ。

「怒っていないわ」

 眉を下げたまま視線を落としているイルムガルドの頭をアシュリーが優しく撫でる。アシュリーに怒られることに、イルムガルドは少し敏感だ。普段よりも意識してアシュリーは優しい声を掛けた。

「だけど一緒に住むようになっても隠したら、怒るからね」

「……ん」

 神妙に頷いているイルムガルドは普段の様子と違って随分と愛らしい。デイヴィッドと職員はそんな二人の様子を見て微笑みながら、住居について候補の写真や間取り図などを机の上に並べた。

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