第35話_零番街を貫く流星
イルムガルドは部屋の沈黙に首を傾けなかった。口を開けたままで静止しているデイヴィッドを感情無く見つめ、しばらく動かないと知ると視線をテーブルの上に落として退屈そうにしながら、大人しく反応を待っている。驚かせることは予想していたのだろうが、そうさせたことに申し訳ない気持ちなどは無いらしい。
「結婚……と言ったのか?」
「うん」
それでもほんの十数秒で口を開いたデイヴィッドは、流石、曲者ぞろいの
「あ、そう、相手は女性なんだけど。できる?」
結婚したいという願望だけではなく間違いなく特定の相手が居るのだと告げるイルムガルド。ぽんぽんと飛び出す情報全てに一同は唖然としている。部屋に居る全ての人間から驚愕と動揺を最大限まで詰め込んだ視線が注がれていることは流石に気付いているのだろうに、イルムガルドは全く気にしていない。デイヴィッドは頻りに瞬きを繰り返した後、ようやく、繋がりを見付けた。
「会いに、行っていたのか」
その言葉に、そして頷いたイルムガルドに、全員の疑問が解けた。どうしてこの子が逃げるようにタワーから居なくなってしまったのか。戻る時間を少し引き延ばしたのか。イルムガルドはただその相手に会いたかったのだ。そして、少しでも長く居たかったのだ。奇跡の子の中でも特に重要視されているイルムガルドが倒れてしまったことで、
事実を知り、色んな感情がない交ぜになって呆けてしまいそうだったデイヴィッドは、一拍を置いて、再び何かに気付いた様子で顔を上げる。一度イルムガルドから視線を外し、職員と医療班を振り返った。
「……ホルモンバランスがなんだって?」
「え、……あっ!」
声を掛けられた職員らも同じ思考に至った様子で大きく目を見開き、顔を見合わせている。
「イルムガルド、事情が変わった。勿論その話は後でちゃんと聞くが、まずちょっと検査をしよう、結果によっては、今日も明日も会いに行っていい」
彼の言葉に、今日初めてイルムガルドが不思議そうに首を傾けた。
イルムガルドやデイヴィッド、そして関係の職員らが悉く立ち去った司令室で、奇跡の子らと少数の職員だけが、消化しきれぬ衝撃を静かに受け止めようとしていた。
「ちょっとアタシ今、展開に頭が付いていってないな……」
項垂れているレベッカの横で、ウーシンは何も言わずに後頭部を撫でている。彼もまだ心の整理が出来ていないのだろう。
「大丈夫、多分誰も付いてってないよ」
「本当に驚いたわね、そういえば下町によく出掛けているって、言っていたものね」
それでも今一番落ち着いているように見えるのはモカだ。ただ無垢な仔猫であるようにイルムガルドを見ていたレベッカらとは違い、モカはほんの少し、彼女の性質に疑問を抱いていた為かもしれない。
「とりあえずは、イルムガルドの顔色が良いことを安心しましょう。あと、あの子は
「……うん、そうだ、そうだね」
当初、最も懸念していたことは、この驚愕と引き換えに霧散している。それは確かに、レベッカ達にとっても、
その後、十五分程度でイルムガルドとデイヴィッドは先に戻ってきた。医療班らはまだ戻ってくる様子は無い。今まさに、採取した血液などの検査をしているのだろう。改めてテーブルを挟んで向かい合うように座ると、デイヴィッドは「さて」と言った。
「結論から言えば、結婚は可能だ。ただ、……法的にそういう制度が無いことは知っているか?」
「うん」
「なら話は早いな、まあイルムガルドら奇跡の子にはいくつも特例が通せる。お前と相手が望むなら、特に障害はない、ただ」
一度そこで言葉を区切ると、デイヴィッドは腕を組んで首を捻る。
「いや、そうだな、詳しい話は一緒に聞いてもらった方がいいかもしれない。お相手の年齢は分かるか?」
「二十二歳って言ってた」
「そうか、大人の方なら、やはり一緒に聞いてもらおう。イルムガルド一人で手続きを全て覚えるのは大変だろう」
「あー、うん、そうだね」
彼女に学が無いこともあるが、何よりイルムガルドはまだ子供だ。手続きの為に必要な書類などを扱うにしても、伝言役まで担うには負担が大きいと思ったのだろう。分からなければ何度でも聞いてくれていいと言いつつも、手間が少ないに越したことは無い。
「できるだけ早い方がいい、相手に都合を付けてもらってほしい、タワーに連れて来てくれ」
また、デイヴィッドには他の目的がいくつかあった。一つは今回の検査結果によって変わってくるが、何にせよイルムガルドの『相手』とは早く会わなければならない。
「んー、分かった、聞いとく」
のんびりと頷くイルムガルドが、デイヴィッドの言葉を警戒し拒否する様子が無いことに、デイヴィッドはそっと安堵する。それをイルムガルドが気付かなかったのは、彼女は彼女なりに、他のことに気を取られて、俯いていたからだ。
「ねえ、ボス」
「なんだ?」
「わたしと結婚して、嫌なことされたり、言われたりする?」
奇跡の子、という特殊な立場にあるイルムガルドの伴侶となること。それによって、結婚相手の立場が悪くなる可能性について心配しているのだと察し、デイヴィッドは出来る限りの優しい笑みをイルムガルドに向けた。
「絶対にさせないよ。お前達と、お前達の家族を守るのが、俺達の仕事だからな。もしも何かあれば、俺達を頼ってくれ、全力で守ろう」
表情が変わらないながらも、デイヴィッドを見つめた瞳は安堵の色を微かに宿していた。
そこへ職員と医療班が検査の第一報を持ってやって来るが、彼らは一様に酷く困惑した顔を見せている。あくまでも第一報であり、結論を出すには数日を有すると前置きをしつつ、それを報告した。
「確かに、ホルモンバランスは変わっています。異常のあったホルモンのいくつかが正常に近い値に戻っておりました。まだ可能性の話ですが、今のイルムガルドであれば、吸収率が上がっているかもしれません」
「ホルモンには、精神状態に応じて分泌されたり分泌が抑えられたりするものがありますから、そういったホルモンの内どれかがトリガーとなって、問題のホルモンに影響を与えたのではないかと考えていますが、因果関係について結論を出すには、更に時間が必要です」
早口でそう告げた後、彼らはいくつかのホルモンについて名称を挙げ、数値の話や割合の話をしていたが、待機していた者の中に正しくそれらを理解できた者は、デイヴィッドも含め、誰も居なかった。おそらく報告している彼らも今自分達の中で懸命に理論を整理している最中で幾らか混乱しているのだろう。苦笑いを浮かべ、デイヴィッドがその説明を半ばで制した。
「つまり楽観的な仮説では、イルムガルドの吸収率は一定ではなく、上がっている場合もあるんだろう。それならば今まで倒れずにいられたことにも説明が付く。……相手と出会ったのはいつだ?」
「あー、来た初日」
イルムガルドは常に軽く言葉を投げ返してくるが、誰もがそれを一度は受け止め損ねて沈黙する。
「あの後……?」
顔合わせをした日、イルムガルドが街を見に行きたいと言っていたことをフラヴィは思い出していた。以来、彼女が毎日のように下町を歩いていると聞いたことも。それが全て、『結婚したい女性』と会う為であったなら、流れとしては納得のできるものだが、初日から今までのイルムガルドを見る限り、そんな相手が居たとはとても思えない。隣で、やはり展開に付いていけずにレベッカは頭を抱えて困惑しており、モカは二人を見てのんびりと笑っていた。
仮説とはいえ医療班らの一報に少し安堵したのか、デイヴィッドは改めて、イルムガルドに対して易しい言葉で現状を説明した。イルムガルドの体質と、音速移動という能力との相性の悪さ。それによって引き起こされた過労という症状。そしてそれがイルムガルドの精神状態によって変動し、『相手』と会うことでいくらか改善されている可能性があること。イルムガルドは理解しているのかどうかもよく分からない表情でゆっくりと瞬きをしていた。
「プロポーズはしたのか」
「んー、結婚したいとは言ったけど、できるか分からなかったし。あー、指輪がいる?」
「そうだな、必須ではないが、一般的には婚約指輪と結婚指輪がある」
首を傾けるイルムガルドに、デイヴィッドは二つの指輪の違いについて説明しつつ、指輪のショップに関する資料やパンフレットを職員に用意させていた。渡されたそれらを熱心に見つめるイルムガルドに、周りは少し頬を緩める。
「式はどうする?」
「あー、うーん、相手がしたいって言ったら」
生返事のような回答を口にしながら、イルムガルドは指輪の写真から目を逸らさなかった。
結局、イルムガルドが外出の制限を受けることはなく、夕方、いつもの時間にアシュリーの部屋を訪れる。
「いらっしゃい。体調はどう?」
「平気だよ」
「よく来られたわね、しばらくは会えないかと思ったけれど……」
昨日、アシュリーはイルムガルドを問い詰めることをしなかったが、訪れた時点でのイルムガルドの状態、そして彼女の端末にあれだけの通信が入っていたことを考えれば、イルムガルドは許可を取らずに抜け出してきたのだろうと予想できる。普段は自由を許されている流石のNo.103も、そのようなことをした後に戻ればいくらなんでもお咎めを受け、しばらく外出禁止となるのだろうと思っていた。その為アシュリーは、今朝、イルムガルドを見送る時に酷く寂しい気持ちになっていたのに。まさか同日に当たり前のように来てくれるとは思いもしなかった。
「最初はそう言われたんだけど、検査結果が良かったから、良いって」
「そうだったのね」
これで真実を正しく告げたかというと議論の余地があるが、間違ってはいない。あの後イルムガルドは更に詳しい検査を受けたが、明らかに治療室で寝かせていた期間よりも逃げ出して戻るまでの期間の方が効率的に回復していた為、許可した方がイルムガルドの身体に良いと判断されていた。勿論、毎日決まった時間に治療室を訪れること、そしてこのまま彼女が回復していくことが条件であって、状況が変わればタワーに閉じ込める措置が無いとは言い切れないけれど。
「それで、これは差し入れ?」
「うん」
訪れたイルムガルドは差し入れまで持ってきていた。初めて持ってきた時と変わらぬような大きさに、アシュリーは幾らか申し訳なさそうに眉を下げる。
「まだ体調、悪かったでしょう、無理してほしくてご飯を作ったわけじゃないのよ?」
「んー、ごめん、でも、どうしてもアシュリーのごはん食べたいから、今日も作ってほしくて。……あー、アシュリーがしんどかったら、無理にってつもりじゃないんだけど」
「そうじゃなくて」
アシュリーの心配がうまく伝わっていない。しかし、まだ不調が続いているだろうイルムガルドをこのまま留めて押し問答する気にもなれず、アシュリーは続きを飲み込んだ。
「早く座って、まだ身体が辛いでしょう」
「もう大丈夫だよ」
差し入れを受け取ると、アシュリーは早くイルムガルドを座らせようと促す。当の本人は呑気な返事をしているけれど、やはり普段から無頓着なところがあるので、アシュリーは安心できない。早く、と重ねて促せば、苦笑いをしながらもイルムガルドは従って椅子の方へと歩く。しかし、胸に手を当てると、何かを思い出した様子で、座る前に振り返る。
「あ、結婚の話してきたよ。良いって」
「い、良いって……?」
イルムガルドは多くを説明しない為、まるですんなり了承されたようにしか聞こえない。アシュリーは複雑な表情を浮かべているが、イルムガルドはそれを気遣うことなく、困惑したままの彼女を抱き寄せる。アシュリーを見つめる瞳が、柔らかな笑みの中で独特の甘さを宿す。
「だからアシュリー、わたしと結婚して、それで、わたしの初めての家族になってよ」
心の準備をする暇も与えられずに繰り返されたプロポーズに、アシュリーが息を呑む。驚いた顔を見せるアシュリーを見つめても、イルムガルドの甘さは彼女の中から消えていかない。
「……ずるいわ、それ」
「ええ?」
身体をイルムガルドに預け、アシュリーも彼女を抱き返す。イルムガルドの両親は、彼女の物心が付いた頃にはもう居なかった。両親からすればイルムガルドは間違いなく家族だったのだろうけれど、イルムガルドだけはそれを知らない。ずっと一人きりで生きてきたイルムガルドだけにしか言えないプロポーズの言葉を、やはりアシュリーも受け止め損ねてしまい、咄嗟にそんな言葉しか出てこなかった。けれど、イルムガルドは気分を害した様子も無く、嬉しそうにアシュリーを抱く力を強めながら、ゆるゆると身体を左右に動かした。
「アシュリー、返事は?」
焦れたようでもなく、不安であるようでもなく、弾んだ声でそう言うイルムガルド。思わず、アシュリーは笑ってしまう。大人であったり子供であったりと忙しない様子が、何処までもイルムガルドらしい。顔を上げ、イルムガルドと額を合わせて見つめ合った。
「イルがそれを望むなら、私は喜んで」
返答に、イルムガルドの目尻が下がる。『私は』と付いた言葉の意味に、イルムガルドはおそらく少しも気付いていない。アシュリーには、それで良かった。
「ところで、何か入れているの?」
少し身体を離すと、アシュリーはイルムガルドの胸辺りを手の平で撫でる。そこは普段抱き合う時の感触とは全く違い、イルムガルドの凹凸を無くして、平らで固かった。
「ああ、うん、ボスがくれた、相談しようと思って」
差し入れの箱を抱えていた為に、鞄を持たないイルムガルドには持ち運ぶ手段が他に無かったのだろう。ジャケットの中から、指輪ショップのパンフレットが二冊、取り出される。
「……本当なの?」
「なにが? ねえアシュリー、婚約指輪どれがいい?」
茫然としているアシュリーをそのままに、「アシュリーにはこういうのが似合うと思う」など意見を述べながら、イルムガルドは無邪気に写真を指差していた。
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