第6話 君の声

「――でよー、彩加の奴がいっつも床ビチャビチャにしちまうんだよなー」


 くすくす。


 講義の時間が近づいてきたので、購買を出て教室までの道のりを歩く途中。


 少し重かった空気も、鎮目の無邪気さと愛嬌でいくらか和んでいた。


「――んで俺のアイスまで食われちまってよー」


 ええっ!?


 翔が話題を振り、それに対して鎮目が笑い、頷き、驚く。


 他愛も無い事だが、二人は楽しい『会話』を交わしていた。


「おっと、じゃあ俺こっちだから」


 あっ……。


 翔が別れを告げようとした時、鎮目は僅かに表情を曇らせた。


「あ~……え~っとさ、時間によるけど帰る前に飯行かね?」


 えっ?


「次ゼミだから何時に終わるかわかんねーし、遅くなる事多いし待たせるのも悪いからよ、もし時間合えば飯食ってから帰ろうぜ」


 うんっ!


 親指と人差し指で輪を作り、満面の笑みを浮かべる。


「いやマジで暑いし無理に待たなくて良いからなー」


 それだけ言って、翔はゼミ室のある棟に入って行った。


「ん?」


 足が止まる。あたかも翔を待ち構えていたであろう男を発見したためストップする。


「オイッス佐藤君、フヒィなんすかなんすか~? さっきの子ってもしや彼女さんですか~?」


 ニヤニヤフヒフヒとキモイ笑みを浮かべる男は、翔と同じゼミの吉田ことダーヨシである。


「んだよキメェな、別にそんなんじゃねーし」


 キメェ男を振り切り、翔はゼミ室へと向かっていく。


 連れない態度を取る翔に、キモ男はしつこく食い下がる。


「ちょおっと待って下さいって、佐藤君の唯一無二の親友である吉田ことダーヨシがキモイ男みたいな説明書きになってますから、佐藤君からも訂正入れてくださいよ~」


 必死にキモさをアピールするダーヨシことキモ男。


 だがそんなダーヨシの言葉に、翔は不覚にも自分の気持ちを考えさせられた。


 鎮目の事をどう思っているのだろう?


 単に同じ授業を取っているだけの話し相手か? 一緒にアイスを食べる友達なのか? それとも恋人にしたい程に愛おしい存在だろうか?


 もし友達や恋人になりないと思っていたのなら、鎮目が携帯電話を取り出した時にどうして番号を交換しなかった?


 怯えている?


 何に? 友達や恋人になる事に?


 何故? 嫌われる事が怖かったから?


 嫌われても仕方が無いじゃないか、言葉遣いが悪いし気配りも出来ないしすぐ怒鳴る。今までの彼女もそうやって嫌われた結果別れた。自分に非があったから、相手が自分よりも出来た人間、優れた人間だったのだから。


 なら鎮目はどうだ?


 背は低く、子供の様な嗜好で全体的に幼い印象。まるで彩加みたいだ。


 髪は長く、今日は眼鏡を掛けていた。真面目そうな雰囲気が出てよく似合う。


 少し内気な面もあるが、性格は優しく穏やか。実に女の子らしい良い娘じゃないか。


 表情豊かで、見ていて飽きない。彼女との会話は楽しい。


 気まずい空気になっても、明るく振舞う寛大さ。尊敬に値する。


 自分なんかよりとても……とても素晴らしい人間だと節に思う。


「あっ、それより佐藤君。ゼミ終わったら学食行きましょうよ~、最近やってる韓国料理フェアがマジパネェッスから」


「っ!」


 だが、声が出せない障害者。


 学食で注文することも、英語の和訳も満足に伝えられない。


 翔は障害者に対しての偏見は持ち合わせていないと自分では思っていたが、そんな事は全く無かった。人を天秤にかけて測り、優劣を比べていたのだ。


 いくら尊敬する部分や凄いと感心することはあっても、心のどこかで鎮目が障害者である事を馬鹿にしていた。自分よりも下の存在だと見下していた。


「うっせ、それとキメェから一人で行けよ……」


 ぼそりと力無く呟き、翔はゼミ室へと入っていった。





 ――昼休み。


 ゼミの授業はやはり終わるのが遅かった。もうすでに終了のチャイムが鳴ってから三十分近く経っている。


「毎度の事ながらあの先公パネェすわぁ~、チャイム鳴ってんの聞こえないんすかね~?」


 今日も外は暑い。そして昼時の今が一日で最も暑い時間だ。


「こんな時間じゃ学食は満席っすね~、購買行きましょうか?」


 そんな炎天下の空の下で、いつ来るかも分からない人間を健気に待ち続ける事が出来るのは渋谷に銅像のある忠犬くらいなものだろう。


「ちょっと佐藤君~、どっちにするか決めてくださいよぉ~」


「ったくキメェ声出すな……よっ!?」


 ゼミ室のある校舎棟を出た通路。学食と購買の間辺りに位置する通路。この時間には多くの人々が行き交うその場所で、キョロキョロと誰かを探しているであろう女の子の姿を見つけてしまった。


 鎮目だ。


 こんなにも暑い屋外。こんなにも長い時間そんな場所で、汗だって一杯かいているじゃないか。どうして待っていられるんだ。


 約束だから。


 鎮目ならそう言いそうだ。付き合いは浅いが、なんとなくそう思った。


 だって、もうその魅力を知っているから。鎮目と言う人間が好きになったから。声が出せないのに一生懸命な彼女を尊敬しているから。


 そして、そんな人に嫌われたくはないと思ってしまった。


「…………」


 翔は無言で真っ黒なサングラスを装着する。


 それは格好つける為でも、強い日差しに対抗する為でも無い。ただ、弱い自分の身を守る為だけに着けたのだ。


「ヒュ~、マジイカス~……って、どうして急にグラサンかけてるんすか?」


 ダーヨシのキモイ茶々入れに耳を向けず、翔は学食と購買との間にある通路へと歩き出す。


 多くの人。早足で歩いていたらロクに顔も分からない程たくさんの人。それでも翔は急いで足を動かした。


 あっ!


 そんな人ごみの中、小さな女の子が何かに気付いた。


 お~い!


 翔の姿が見えると、女の子は手招きして呼びかける。しかし大勢の人が居る中で、小さな女の子の手など見えるはずも無かった。


 こっちだよ~!


 鎮目が呼ぶ。翔の居る位置から見えやすい場所に顔を出し、呼びかける。


 ねぇってば!


 聞こえてくる。そんな声が。


 あっ……。


 気付かぬ振りをして、視線を合わせる事無く通り過ぎる。


 待って!


 その声は確かに届いていた。それでも翔は足の動きを止めないどころか、むしろ急いで足を動かし続ける。


 ここだよ! ここに居るよ!


 知っている分かっている完璧に把握している。でも、振り向けない。


 ねぇ……。


 背中から聞こえる。寂しそうな声が、翔を呼ぶ鎮目の声が。


「チッ!」


 歩きながら、翔は両手で耳を塞いだ。


 何度も何度も呼びかけてくる声が未だに聞こえてくる。


「ウォオオオオオオァアアアアアアアアアアアッ!」


 ガムシャラに、バカでかい声を上げて叫んでみた。


 何人もの人が注目するだけで、その声が止む事は無かった。


 ダダダッ!


 翔は走り出した。いや、正確には逃げ出したのだ。


 鎮目から、自分の気持ちから。

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