シャワーがお湯に変わるまで

かさかささん

第1話 とある夏の日

 外では毎日の様に暑い日差しが照り続ける、とある夏の日。


 午後も早い時間に大学の講義を終え、学校近くのアパートへと戻る男。


 何だか良く分からない英語の書いてあるTシャツは既に汗だくで、同じくズボンもつゆだくになっている。


 一刻も早くシャワーを浴びたい。アパートの風呂場には残念ながら浴槽が無いのでシャワーを浴びたい。


 そんな思いを巡らせつつ、大学から徒歩十分はかかる距離を五分で駆け抜け、一目散に部屋の鍵を開ける。


「ハァ……ハァ……」


 全力で走ってきたので、当たり前の事だが余計に暑くなった。


 だが、そんな代償を払ってでも早急にシャワーを浴びたいという欲望が勝っていた。


 熱を帯びたサングラスを小物入れに突っ込み、汗でずぶ濡れの衣服を脱衣カゴに放り投げてから風呂場へと直行した。


 シャアアアアアア。


 冷水が体を駆け巡る。


意図的に水を出したわけではない。赤い栓をひねってこれだ。


「冷てっ……」


 三十秒。


 この風呂場において、シャワーがお湯に変わるまでの時間だ。


 今の様な非常に暑い夏場は別として、寒い季節にこの仕様を忘れてしまうと、うっかり冷たい水を浴びてしまう危険なシャワーである。


 大学に入学するのと同時に上京し、このシャワーを使い続けて早一年。今年で大学二年生になった男の名は佐藤翔。翔と書いて『なつる』と読む。初対面の人間には絶対に間違えられるのでいちいち訂正するのも面倒な名前だ。


「……ふぅっ」


 徐々に湯の温度が上がっていく。案外この時間が結構好きだったりする。


 三十秒という長くも短くも感じるこの時間の最中に、水が段々とお湯に近づいていく。


 時間をかけてようやく出てきた温かいお湯を堪能し、頭と体を軽く洗ってから風呂場を後にする。


 タオルを首から提げたまま部屋着に着替え、エアコンのスイッチを入れて小さな冷蔵庫から缶チューハイを取り出した時、玄関口から声が聞こえてきた。


「なっくん、遊びに来ました」


 チャイムやノックの過程をすっ飛ばし、いつの間にか扉を開けてひょっこりと入り込んでいたのは、年端もいかない少女であった。


「彩加か……悪いが俺は今からキンッキンに冷えたコイツでカーっと一杯やっから、今日は一人で遊んどけ」


 プシュッ!


 景気の良い音を立て、渇いた身体に潤いを与えるべくしてゴクリと一口。


 旨い。


 五臓六腑に染み渡るとはまさにこの事だと言わんばかりに、程よい刺激と共に不足していた水分が全身を駆け巡る。


 こんな風呂上りの充実した時間を、小学校にも上がっていない園児に邪魔されるわけにはいかない。適当にあしらうのが得策だろう。


 どれもう一口と、缶に再び口を付ける翔。


 それを見た彩加はトコトコと居間まで歩き出し、家に唯一ある大きなクッションにボフンと座り込んだ。


「なっくんにも事情というものがあるのでしょうから仕方がありません、今日は一人で遊ぶ事にします」


 ヴィーン。


 ゲーム機を起動させ、同時にTVのスイッチを入れる。まるで自分の家であるかのような振る舞いだ。


「……今日は詩織さん居ねーの?」


 ピコピコとゲームを始めている彩加に対し、母親である詩織について聞いてみる。


「ママはお仕事で今日は帰れないと言っていました」


 ふーん。


 クピクピと酒をやりつつ、近くに置いてある漫画雑誌に目を通す。


 今日のような大学の講義が早く終わる日はアパートの大家であり翔の兄の嫁さんの姉、つまり義理の姉のそのまた姉である詩織さんの娘。かいつまんで話せば親戚の子供。彩加が度々遊びに来る。


 共働きで家を空ける事が多く、アパートの裏手にある大きな家に一人で留守番させるのは何かと心配らしいので、こうして適当ながらも面倒を見てやっているのだ。


「そういえばなっくん、この前遊びに来ていたお姉ちゃんは今日来ないのですか?」


 TV画面から目を逸らし、期待の眼差しでこちらを振り返る。


「チッ……アイツならもう来ねーよ」


 舌打ち付きで言い返すと、彩加は少し残念そうな顔をしてから再び画面を見つめた。


 彩加が言っているお姉ちゃんとは、先日まで付き合っていた彼女の事だ。


 三ヶ月。


 短い付き合いだったし、心に残る思い出もほとんど無い。割とすぐに別れてしまった。


「そうですか、なっくんは口が悪いから女の人に嫌われてしまうとママがよく言っていましたが、どうやらその通りでしたね」


 うんうんと頷きながら納得する、生意気な口調で喋る園児。


 その言葉を聞いて、ヒクヒクと眉を動かす二十歳の大学生。


 こんな小さな子供にダメ出しされる心境は、なかなかに屈辱的だった。


「いや俺そんな口悪くねーしよ、てか詩織さんだって似た様な喋り方してんじゃねーか。お前が変に言葉遣い良すぎなんだっての」


 父親の影響なのだろうか、彩加は無駄に丁寧な喋り方をする。


「あっ、そんなことより今日はなっくんのお家でご飯を食べる日なので、晩ご飯はカレーが食べたいです」


 唐突に食べたいものをリクエストする彩加。人の口調にケチをつけているのに夕飯をリクエストする彩加。こういう所は母親似なんだと思わせられる。


「えぇー、確か昨日で米無くなっちまったからなー」


 ガサゴソとキッチンの下の方を漁って見たが、米らしき物体は見当たらない。


 従ってカレーは無理だと彩加に告げる。


「そうですか、ならチャーハンでも良いですよ」


「だから米ねぇっつってんだろ!」


 小さな子供を相手に、思わず大きな声を出す翔。


 ついつい大声で怒鳴ってしまうのが癖で、それが原因で彼女と別れてしまう事が何度かある。この間まで付き合っていた女性ともそうだった。


「むぅ、じゃあスーパーまで買い物に行きましょう」


 アパートから歩いて十分程度、駅前のスーパーまでの距離である。


 外はまだ日が高い。即ち暑い。そんな状況で表を歩きたくない。


 面倒だと却下するのは簡単だが、米という日常的に使う消耗品はいずれ買いに行かなければならない代物だ。


 仮に今日行かずとも、明日も明後日も涼しい日が訪れる可能性は期待できないので、やれやれと重たい腰を上げる。


「あと、暑いのでアイスも一緒に買うべきです」


 ハイハイと手を上げ、いそいそと白い大きな帽子を被りつつアイスを要求する彩加。


 買い物に行きたがる時は、大抵こういう嗜好品が目的だったりする。


「へいへい」


 彩加の家ではお菓子の類はあまり食べさせてもらえないらしく、こちらに来る度にそういった物をねだる。


 家にゲームや漫画などの娯楽も無いので、翔のアパートは居心地の良い場所なのだろう。


「んじゃ行くか」


 小物入れに置いてあるサングラスを装着してから家を出る。

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