【二本立て】SFPエッセイ084

 

   1 二本立ての密かな愉しみ

 

 最近はとんと映画館にも足を運ばなくなってしまったし、観に行くのも商業大作映画ばかりになってしまった。だから最近の映画館事情はさっぱりわからない。いまでも二本立て、三本立てというような上映形態は残っているのだろうか。ぼくが学生の頃はそういう映画館があちこちにあって、封切りをするロードショー館ではなく二番館、三番館などと呼ばれていた。

 

 年寄りの昔話である。

 

 当時はレンタルビデオ屋もまだ普及しておらず、ビデオデッキを持っていなかったぼくにとって映画を観るためには映画館に行くしかなく、中でも低料金で二本、三本と映画を見られる映画館はとてもありがたく重宝していた。オールナイトという上映形態はその最たるもので、だいたい夜の11時くらいに上映を開始して、朝始発が出るころまで四本立てくらいで映画を上映し続けていた。

 

 オールナイトについては、いまでも忘れられない体験がある。『スケアクロウ』『タクシー・ドライバー』と来て、『新・明日に向かって撃て!』でひといきいれて『ミッドナイト・エクスプレス』で締めというオールナイト四本立てを観た日のことだ。次から次へとあまりにも重たいパンチ(『新・明日に向かって撃て!』を除く)を食らい過ぎて、すでにしらじらと明るくなった池袋の街によろよろとさまよい出たことを思い出す。あれはきつかった。

 

 その夜観た映画はどれも名画といえば名画ばかりなのだが(『新・明日に向かって撃て!』を除く)、続けざまに見るものではない。もしも『新・明日に向かって撃て!』の代わりに『ダンサー・イン・ザ・ダーク』みたいな映画が入っていたら(幸いなことに当時はまだ制作されていない)自殺者が出たんじゃないかってくらいのラインナップだった。

 

 え? それぞれがどんな映画か知りたいって? そんなことは自分で調べてくれ。試しに続けざまに観てみるといい。精神状態のよくないときはオススメしないが。あと、映画としては特にオススメしないが、『新・明日に向かって撃て!』ははさんだほうがいい。精神衛生のバランスのために。もしもあなたに時間があるならば、だが。

 

 そう。

 

 時間があったのだ。当時、お金はなかったが、時間はあった。誰に文句を言われることもなく、4時間でも6時間でも映画館にこもっても幸せな時間を過ごすことができた。ぼくは次から次へと二番館、三番館を渡り歩いたものだった。『転校生』と『家族ゲーム』の二本立ては贅沢な体験だった。三軒茶屋で何かほかの映画を観に行ったのに全く期待していなかった『ランボー』が思いがけず良くて、肝心の映画が何だったのか忘れてしまった。きっと『ポーキーズ』的な下ネタ満載のコメディ映画だったんだと思う。

 

 中野の二番館で『炎のランナー』と『ブレードランナー』の二本立てをやっているのを見つけた時には狂喜した。「なんだそれ。ランナーつながりかよ! この映画館のオーナー、映画の中身をわかってんのか?」と内心大笑いしながら観に行ったら、音楽が両方ともヴァンゲリスで、ひょっとしたら館主の方が一枚上手だったかもと反省したのもいい思い出だ。

 

 高田馬場でフェデリコ・フェリーニの二本立て(確か『8 1/2』と『アマルコルド』だったと思う)を観終わって外に出たら一面の雪景色で、東京のすべての鉄道が運行停止していた日のことは、映画そのものとはまた別な思い出だが、とても印象的な体験だった。映画の中でもちらちらと雪が降るシーンがあったことと重なっているのだ。あれは『アマルコルド』だったろうか。よく思い出せないのだけれども。映画館の中で物語にのみこまれて非日常を味わうだけでなく、映画館を出る時に外の世界が一変しているという体験は、二本立てを観ることに特別な意味をつけてくれた気がする。

 

 

   2 二本立て映画における中入り効果について

 

 一本目の映画が終わって一息ついて、トイレに立ったり、ジュースを買ったり、今観た映画がよっぽど気に入った場合にはなけなしのお金をはたいてパンフレットを買ったりして次に備える。観終わったばかりの映画が良いものであればあるほど、映画の余韻に浸る間もなく次に向かおうとしているのが作品に対する冒瀆のようにも思え、そう思いながらも次の映画への期待にワクワクすることに、ある種背徳的な快感すら覚える。

 

 これは、二本立ての映画を観たことがない人にはわからない感覚かもしれない。次の上映までの10分、15分ばかりの時間。前の映画の印象がまだあとを引いている。前の映画が個人的に全く引っかからなかったのなら問題ない。気持ちをリセットしてまっさらな気分で次に臨めばいい。問題は一本目がとても良かった場合だ。心の中にはまだ余韻が残っている。それはカタルシスの場合もあるし、深い悲しみの場合もあるし、ふつふつとした憤りの場合もあるし、ある種の高揚感の場合もある。でももうあと数分で次の映画が始まる。全く別な世界に連れて行かれる。

 

 世の中の道徳に反するほどのものではない。でもこの引き裂かれる感覚を知る者と知らない者では、目に付きにくいところで決定的に価値観に差が生まれるに違いない。喩えるなら、ついさっきまで一人の男とめくるめく昼夜を過ごしていたのだが、彼を家から送り出すともう1時間後には新しい男が迎えにやってくるその時間のようなものか。心と身体の火照りはまだ残っている。でも次の男への期待と不安が芽生えている。

 

 あまりいい喩えじゃないな。

 

 いずれにせよ、近年、心理学では、この「二本立て映画における中入り効果」と呼ぶべきものが新しい研究領域として注目を浴びている。いみじくも「中入り」と書いたが、古来日本において寄席、相撲などで途中休憩を挟む形式は存在した。全く別な演目に挟まれるという点で歌舞伎の幕間も近いが、歌舞伎の場合、演目そのものは周知のものが多く、また幕間の過ごし方も含めて様式化している点で「二本立て映画における中入り効果」とは異なることが指摘されている。

 

 二本立て映画の経験者の多くは、両立しないはずの過去と未来への思い(過去への愛着と未来への期待)を危うい平衡で保持することができる。一方で二本立て映画を知らない者の多くはそのような心理状態そのものが想像できない。その結果、両者の議論はかみ合わないことがしばしば出てくる。未経験者は「両立し得ないものを抱えるなどナンセンスだ」と断じることになる。経験者は「そんなことを言ったってあるものはあるんだ」となる。どちらの言っていることも間違ってはいないが、そこで言い争うのは不毛でしかない。

 

 当協会専務理事の小鳥遊朱紘(たかなしあかひろ)の研究によると、現代社会において決着のつかない論争の実に87%は、この二本立て映画経験者と未経験者の決定的な価値観のズレに基づいていることが判明している。論争どころか、論争の入り口にすらたどり着けていないというのが実態なのである。

 

 そこで当協会では、「二本立て映画における中入り効果」を短時間で身につけることができるプログラムを開発した。効果をなくすことは極めて困難であるが、身につけることは比較的容易であり、しかも心身ともに健康的に負担もない。不毛な論争に終止符を打ち、建設的な未来に進むために、ぜひ政界・財界・学会での導入をご検討いただければさいわいである。第一期のプログラムは『東京物語』と『時計仕掛けのオレンジ』でご提供する。ご期待いただきたい。

(「【二本立て】」ordered by 阿藤 智恵-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・名画座などとは一切関係ありません。

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