【本日のらかれこ】SFPエッセイ078

 今日は1日中、研究室の開け放したドアの陰に、つまりドアと壁の隙間に、らかれこはいた。おとなしくじっとしていた。目付きが不快だとか、不穏な気配があるというようなこともなく、ただ静かにそこにいた。こういう日はわたしの方もらかれこのことがあまり気にならない。後ろにいるな、とは思うけれど、別にそれを気にするでもなく、やっぱり静かに穏やかな気持ちで実験に専念できる。むしろ心静かに集中できた。

 

 わたしはペットを飼ったことはないけれど、たとえば猫を飼うとこんな感じなのかなと思ったりもする。こっちに寄ってくるわけでなく、部屋の隅にじっとおとなしくしている猫。そこにいるのはわかっているけれど、こちらから構わなくてもいいし、いることに気づいている振りをする必要すらなく、ただ同じ空間にいるという事実だけで互いに安心していられる。ずっと意識し続けているわけではないけれど、なんとなくお互いの存在を確認しあっている。そんな感じ。

 

 いつもこんな風ならいいのにな。

 

 2日前はひどかった。もっと不穏な、あえて言うなら邪悪な感じだった。ああいうのは苦手だ。常にわたしにまとわりついていて、ひっきりなしに場所を移動する。そしてあのいやな目付きでわたしを見る。責めるような? 怨むような? 妬むような? なんと形容したらいいかわからないけれど、わたしの気持ちがどんどん落ち込んでいくようなあの目付きで。わたしは頭が痛くなり、手足の先がしびれ、つまづいたり、実験器具を壊したりする。プロジェクトのスタッフには不必要に厳しいことを言ってしまう。何もうまくいかなくなる。

 

 かつては、おだやかな飼い猫のようならかれこと、荒々しく険悪ならかれこは、別々な存在なのかと思ったこともあるけれど、いまではそれが同じものだということがわかっている。小さい頃はおばけや幽霊の仲間だと思っておびえたこともあるけれど、むしろわたし自身の一部だということもわかっている。らかれこについて科学的な解釈を試みれば、精神疾患を思わせる幻視と見なされることは知っている。けれど、もしそれが正しいとして、それがわかったところで何の解決にもならない。薬や精神分析で、もし、らかれこが見えなくなったとしても、たぶん代わりに別な何かがとって代わるだけだ。なぜなら、らかれこはわたしの心象そのものだからだ。

 

 らかれこという言葉を使うようになったのはいつの頃からだったろうか。少なくとも、おばけとか幽霊とか言わなくなったのは、たぶん、自分が周囲から「変な子ども」だと見られていることがわかった時からだと思う。

 

 忘れもしない。わたしがまだ幼稚園に通っていた頃、ある雨の日曜日、母に向かって「あのひとだれ?」と聞いた時の母の表情の恐ろしかったこと。その時わたしは、小さなキッチンで、母と二人、テーブルに向かって座っていた。そのキッチンの隅に冷蔵庫があって、わたしはその傍らに立つ温和な顔つきの男性を指差して言ったのだった。母はほとんど恐怖に近い表情を浮かべた。そして早口で叫ぶように「何を言ってるの? 誰もいないでしょ! 変なこと言わないの!」と言った。以来、母にはらかれこのことは言っていない。

 

 学校でも何度かそういうことがあった。当時、まだわたしには実在の人間とらかれこの差がよくわからなかったからだ。「あのひとだれ?」と言っては友達に気味悪がられ、低学年の間はみんなに敬遠され、孤立していた。そうこうするうち、怪談や怖い話を読むようになり、その怖がらせるパターンを知るようになり、うまい回避法を見つけた。高学年の頃には、らかれこのことを言ってしまった後すかさず「なんてね! 驚いた?」とフォローすることにしたのだ。この技に磨きをかけ、高校の頃までには、「気味の悪い子」から「ブラックなジョークを言う子」くらいに社会的ヒエラルヒーの階層をあげることに成功した。

 

 でも当時は、わたし自身が、らかれこのことを幽霊のようなものだと思っていたし、自分は「見える人」「霊感の強い人」だと思い込んでいた。目つきの悪い中年女や、温和そうな初老の男、同世代の少年少女、奇怪な風貌の老人、やたら食べ物を渡そうとする老婆。さまざまな幽霊が出現しているのだと信じていた。それがある時、彼らの出現がそれからのわたしの生活を暗示していることに気づき、考えが変わった。幼稚園の時に見た温和な顔つきの男性は、まもなく離婚で失うことになる父親のイメージだったし、やたら食べ物をくれようとする老婆は、浪人生時代、頭もからだもこわばっていた時期のわたし自身への「手放せ」というメッセージだった。

 

 姿かたちこそ多種多様だが、全部わたし自身の中から出てきて、その時期のわたしになんらかのメッセージを発する存在だった。よいアドバイスの時もあれば、わるい誘惑の時もあった。でも全てはわたし自身が生んだものであり、わたしを構成する一部だった。いわば、わたしという大規模な集合住宅に住むたくさんの住人が、折々の必要なメッセージをぶら下げて集合住宅の行く末を提言し、アピールしているのだった。そう気づいてから、わたしは彼らに「らかれこ」と名前をつけた。わたしのこれからを暗示してくれる存在だから、「これから」をひっくり返して「らかれこ」。そしてらかれこが出てくるたびに「本日のらかれこ日記」をつけることにした。

 

 今日の、猫のようならかれこは何を伝えてくれたのだろう? まさか「猫を飼え」ではあるまいが(笑)。穏やかな気持ちで一緒に居られるパートナーを探せということだろうか。余計なお世話だ。でもまあ、考えておこう。あの人のことかなと思う人がいないわけではないのだから。

 

 いまふと気づいたけれど「本日のらかれこ」をひっくり返すと「これからの日本」になる。らかれこたちがそんなに大きなことを示してくれるとも思えないけれど、今日こうしてこのことに気づいたのも何か関係があるかもしれない。一般に「へんでろ毒」として知られるシアノバクター・ヘンデリの無毒化について、今日ささやかなヒントが見つかった。いままで考えてきたようにヘンデリを選択的に死滅させたり変性させたりするのではなく、「掃除する」とでもいうべき方法が見つかったのだ。たまたまその役割を果たす細菌の形状がミニ箒に似ているのはご愛嬌だ。広域汚染によって日本を東西に分断してしまったへんでろ毒をまんまと「掃除」することができれば、それはまさに「これからの日本」を、それどころか、パンデミックで混乱に陥っている「これからの世界」を救うことになる。

 

 いやいや。そんな風に気負ってしまうのはよくないだろう。本日のらかれこのように、穏やかに、心静かに研究に取り組むのが吉だと考えよう。

 

(「【本日のらかれこ】」ordered by 阿藤 智恵-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・放射性降下物による大規模汚染などとは一切関係ありません。

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