011「ゼロカロリーメイト」

 天海御言あまみみことの作品集の大量購入に端を発した家計の圧迫、通称「アマミ・ショック」は江戸の四大飢饉ききんを彷彿とさせる深刻なものだった。僕のなけなしの食費は完全になくなり、もともと地を這うようだったQOLクオリティ・オブ・ライフは地面に突き刺さり、僕は半端な僧侶なら裸足で逃げ出すような禁欲生活を余儀なくされていた。


 本日の昼休みも当然ながら、昼食など食べる余裕はなく、僕はできるだけカロリーを消費しないように机に突っ伏して時間を過ごしていた。


 そんな僕の状態の僕の席に、大槻が近づいてきた。その手には弁当箱がぶら下がっている。


「ねえねえ、赤坂君、何にも食べなくてお腹減らないの?」

「……大槻か。ちょっと衝動買いしてしまって金がないんだ。我慢するよ」

「あー。私もたまにしちゃうなー。衝動買い。いくら使ったの?」

「二万円弱だな……」

「うわぁ。結構いったね……それでお昼抜き?」

「ああ……しばらくは時々ある店長のまかないだけが僕の生命線だ」

「そう言えば赤坂君って一人暮らしだよね? そんなに余裕ないの?」

「ああ……しばらく強制ファスティングだ」

「大変だねぇ……」


 大槻は他人事のようにそう言って、僕の前の席に座り、目の前で弁当をひろげ始めた。

 手作りの弁当ようだ。手作り特有のごちゃごちゃした、しかしおいしそうなにおいが広がる。僕の胃袋が、忘れかけていた空腹を激しく訴え始めた。


「おい、今の話聞いたのにここで食うのかよ……」

「うん。赤坂君の羨ましそうな表情をおかずに食べたらおいしそうだなって」

「悪魔か……」


 想像以上にえぐいことを、大槻は屈託のない笑顔で言い放つ。いい性格してやがる。

 

「でもさー。なんか口に入れないと本当に倒れちゃうよ?」


 プラスチックの箸で野菜炒めを小さな口に運びながら、大槻は言った。

 空腹を刺激しておいてその言い草は横暴と言っても過言ではない。


 が……。僕の準備に抜かりはない。耐え切れない空腹が襲ってくることも想定の範囲内だ。


「……心配には及ばない。僕にはこれがある!!」


 そう言って、僕は水筒代わりのペットボトルをカバンから取り出した。中身は茶色く透き通った液体が満たされている。


 大槻はその液体を見て怪訝そうな顔をした。


「何それ」

「麦茶だ。セールで大安売りしてる時に買い込んだものをペットボトルに詰めてきた」

「ああ、ティーパックタイプのやつね。うちでもたまにやかんとかで作るよ。で?」


 大槻は小首をかしげる。「それがどうした?」とでも言いたげだ。

 血のめぐりの悪い奴だ。しかたない。ちゃんと説明してやろう。


「え、なにその『分かってないなー』みたいな顔。ちょっと腹立つんだけど」

「ふふん。聞いて驚け。……大槻、麦茶の原料はなんだ?」

「え? 麦でしょ」

「そうだ。麦茶は麦からできている。だから実質パンと同じだ」

「そんなわけない!!」


 大槻は驚愕の表情で叫び、箸でつまんでいた野菜炒めを机に落とした。もったいない。


「ダメじゃん! 全然ダメじゃん! 脳に栄養行ってなくて、めちゃくちゃなこと言ってるじゃん! 中間と期末学年一位の人の発言とは思えないよ!!」

「おまえ! 麦茶を馬鹿にすんなよ! 実際栄養価高いんだぞ!」

「違う! 麦茶じゃなくて赤坂君を馬鹿にしてる! ていうか、哀れんでる!!」

「いやでも……」

「おだまり!!」


 そう言って大槻は野菜炒めを箸でつまんで僕の口に放り込んだ。思わず飲み込んでしまう。久しぶりの栄養が飛び込んできたことで、僕の胃は歓喜し、さらなる栄養を求めてさらに激しく空腹を訴えた。


「おい! ふざけんな! ちょっと食べたらさらに食べたくなるだろうが!!」

「え、おいしかった?」

「おいしかったせいでより腹減ったわ!! どうしてくれる!」

「……ふーん」


 僕の抗議を完全に無視して、大槻はにやけをかみ殺すような、口角が上がるのを必死で抑えつけるような微妙な表情をした。


「……なんだよ」

「べっつにー。もうちょっと食べる?」

「いいのか?!」

「しょうがないな~ あ、これとかどう?」


 そんな感じで、結局大槻は弁当箱の半分くらいを僕にくれた。

 大槻の弁当のおかげで少しずつ僕の脳は活力を取り戻し、まともな思考力も少しずつ戻っていった。


「ありがとう、大槻。お前は命の恩人だ」

「うん。文字通りに受け取っておくよ……」


 やや呆れ顔でそう言った後、大槻は少しだけ頬を赤らめて、躊躇いながら声を出した。


「ね、赤坂君、このお弁当気に入ったらなら……明日も……」




「あ、赤坂君! 明日の話なんだけどさ!!」




 大槻の声をかき消すように、僕の背後からハスキーボイスが響いた。

 声の主は、言うまでもなく蓮見飛鳥だろう。


「あ、あすみん! どうし……」


 大槻は僕の後ろに立っている蓮見を直視し、そして硬直した。


 異変を感じて僕も急いで振り返る。大槻の態度の理由はすぐ分かった。



「えへへへへ……私、かわいい。かわいいよぉ……」



 そこに立っていたのは自分の写真を舐めるように見ながら、トランス状態になっている蓮見だった。


 表情は半にやけで、目は爛々としている。何というか「キマっている」とか、「ラリっている」という形容が適切だろう。ちょっと近寄りがたいというか、電車内にいたら車両を替えたくなるタイプのやばい奴になっていた。



「蓮見、お前、どうした?」

「明日、ササキさんに会うじゃん? だから、今がファスティングの佳境なんだよ!」

「ああ、そう言えば明日が約束の日だったな……ていうか何日食ってないんだ?」

「ササキさんと会った日からだね」


 と、いう事は……もう二週間は何も食べていないのか?


「待て待て、それはさすがにまずいだろ!」

「あすみん! いくらなんでもちょっとは食べないと死んじゃうって!」


 僕と大槻の心配の声を上げる。が、蓮見はどこ吹く風といった様子だ。


「大丈夫だよ! 私にはこれがあるから!!」


 そう言って蓮見が取り出したのは透明な液体が入ったペットボトルだった。


「これは……水か?」

「そうだよ! コンビニで売ってる天然水!」

「それがどうしたんだ?」


 僕がそう返すと、蓮見は「分かってないなー」とでも言いたげに首を横に振った。ちょっと腹立つ。


「赤坂君、知らない? お肉とかお魚って70%くらい水分なんだよ」

「いや、知ってるけど」

「だから、四捨五入すれば肉も魚も水なんだよ!!」

「そんなわけないだろ!!」


 そんな大胆な切り捨て、四捨五入には荷が重すぎる。


 こいつ、写真の見過ぎオーバードーズでおかしくなってしまったんだろうか。「かわいい」の過剰摂取で脳みそまでかわいいサイズ感になってしまったのだろうか。「かわいい」とはこうも人を狂わせてしまうものなのだろうか……。



「嘆かわしいな。人間、こんな風になりたくないもんだ」

「赤坂君は人のこと言えないからね……」



 そう呆れたようにつぶやいた大槻の言葉は、昼休みがあと十分で終わることを告げる予鈴によってかき消されたのだった。

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