019「クルルギ・クライシス」

 さちさんの葬儀が終わってから一週間ほど経った。


 あの会場で劇的な形で「友達」になったはずの僕と枢木くるるぎだったが、それから一度も会話が交わされることはなかった。


 枢木は依頼の前と変わらず、学校内では全く話さない。僕から話しかけようにもその隙すら与えない鉄壁の防御。本当にもとにもどった感じだ。


 僕のバイト先、「喫茶クロワッサン」に足を運んでくれるわけでもなかった。あの家族を相手に立ちまわることが難しいのは分かっているが、それでもあれっきり音沙汰がないのは、一抹の寂しさがあった。


「友達って……なんなんだろう」


 閑古鳥かんこどりが鳴き、そろそろぺんぺん草が生えそうな勢いの店内で、思わず僕がそうこぼすと、今日も暇そうなササキが本をぱたんと閉じた。


「シュン君……。そんな『the思春期』みたいな悩み、中学生で卒業しておいてくれないかな……」

「え、あ、ごめん」


 聞こえてたのか……ちょっと恥ずかしい。


「『友達ってなんだろう』なんて、今時J-popの歌詞にも出て来ないよ。自分は思春期拗らせ系男子だって宣言して歩くようなもんだよ。恥ずかしくはないのかな? ボクだったら首をくくるね」

「そんなに?!」


 ひどいいいようだ。そこまで言われることだろうか。

 腹が立ったので、言い返してやることにした。


「じゃあササキ、恥のかきついでに聞かせてくれ。『友達』ってなんだ?」

「指先一つでミュートとかブロックとかできるやつだよ」

「お前、よく僕のこと笑えたな!」


 お前の方がよっぽど拗らせてるじゃないか! 中年なのに思春期終わってないじゃないか!!


 謝れ! ちゃんと思春期の僕に謝れ!!


 しかし、意外だ。ササキは携帯を人並みに使うらしい。

 僕はSNSの類をやらない、というかスマートフォンを持っていないため、そういうネット上の「友だち」は一人もいない。


「『ネット上の』って……。現実でもほとんどいないじゃない」


 ササキが呆れたように言ってくる。ええい、思考を読むな。拗らせ中年め……。



 そんなこんなで、一週間が過ぎていった。僕ももう、だんだんと枢木と会話をすることをあきらめかけ、いつも通りの学校生活に戻りつつあった。


 しかし、そんな時にあの事件が起こった。あまりの事件だったので、以後、ややドラマチックに記述してみたい。



 時刻は正午。四限も峠をこえ、あと数分乗り越えれば昼休みだ。あと数分我慢すれば休み時間なのだから集中せねばと思う一方、あと数分なのだからもう寝てしまってもいいだろうという、程度の低い天使と悪魔が多くの生徒の頭上を飛び交っていた。


 板書を終え、正面を向いた数学教師はそんな気だるげな空気を感じとったのだろうか。ちらりと日付を確認した。睡魔に打ち勝ち、かろうじてでも授業の戦局を歴戦の生徒たちは、この所作だけでこの後の展開を予測することができただろう。


 これは……来る!!


「じゃー、出席番号15番の人。この問題、答えて―」


 出席番号。マイナンバー制度が導入されるはるか以前から存在する、数字で人間を縛る校舎内の囚人番号だ。一度決められたら決して変わることが無く、教師は無作為に生徒を選ぶ際に、この番号を用いる。安直に今日の日付と結びつける者もいれば、奇々怪々な数列を展開する者もいる。今回の数学教師は前者のようだった。


 ひとまず、僕の番号は避けられた。他の生徒も自分の番号でなかったことに安堵している。しかし、勘のいいものはすぐに、鈍いものでも数秒すれば気が付いた。


 このクラスの出席番号15……それは「枢木雪枝くるるぎゆきえ」である。


 これはまずい。なぜなら、枢木は決して声を発さない。教室には謎に張り詰めた空気「クルルギ・サイレント」が流れ、結局は別の人間が指名されることになる。


 心に訪れた安穏は一瞬だ。すぐさま出席番号5番、25番、35番は問題を確認し、当てられることに対応し始めたはずだ。もしかすると10の倍数の連中も臨戦態勢に入ったかもしれない。


 教師側も、当ててから「しまった」と思ったようだ。しかし、すぐさま理由もなく別の生徒を指名することはできない。しばらく、教室は予想通り、たっぷり10秒ほどの沈黙に包まれた……。


 事件は、ここで起きた。


「……わからないか? じゃあ番号25の……」

「θ=π/6と5π/6です」

「そうそう、答え二つあるのが……え?」

「ですから、sinθ=1/2なので、0<θ<πの範囲なら、θ=π/6と5π/6です」

「……え?」


 教師が面食らうのも無理はない。答えた声の主は誰あろう、枢木雪枝であった。


 教室が静かにどよめく。ひそひそという言葉が波のように広がる。

 もはや授業どころではない。

 枢木がしゃべった。

 その事実に皆驚嘆し、その奇跡に立ち会ったことに興奮していた。


「あの……、間違ってますか?」


 そんな中、枢木がまた不安げに声を上げた。

 茫然としていた数学教師もこの声で我に返ったのだろうか。


「……あ、いや、すまんすまん。正解だ。えーっとだから答えは……」


 動揺を隠しきれないまま、チョークを二回も取り落としながら枢木が発した答えを黒板に書きつけていく数学教師だったが、文字はどこか震えていた。


 ちょうど答えを書ききったところで終業のチャイムが鳴った。


 荷物をまとめて教師が立ち去った後、教室は一瞬、奇妙な静寂に包まれた。

 

 が、次の瞬間。誰かがつぶやいた。


「枢木さん、しゃべったね……」


 その一言を皮切りに、一気に教室中の人間が枢木のもとに集まり始めた。

 その姿はさながら年末セールのお母さんバーサーカーである。


「枢木さん、とうとう喋ったね!! 妹さんのトラウマは克服できたんだね!!」

「え? あの、何のことかしら?」

「違うでしょ! 枢木さんは手術が成功して声が出せるようになったんだよね!!」

「いや、その、全く心当たりがないんだけど……」

「違う違う! 枢木さんは最新技術が詰まったAIで!!」

「それは普通に失礼じゃないかしら……」


 ものすごい質問攻めにあっている。転校初日さながらだ。中心の枢木は目を白黒させており、いつもの無表情は見る影もない。漫画で見るような渦巻き状の目だ。


「肌、真っ白だね! どんな手入れしてるの!?」

「髪も綺麗!! 触っていい?!」

「ずっと話しかけたかったんだ!! 雪枝ちゃんって呼んでいい?!」


 ものすごい勢いである。枢木は混乱したのか、机の横にかかっていた鞄をひっつかみ、顔を赤らめて教室から走って出ていってしまった。クラスメイト達も、ちょっとやりすぎたのかと反省したようで、後を追うものはいなかった。


 こうして、枢木雪枝は「沈黙の令嬢」から「ただ無口な美少女」へとレベルアップ、というかスケールダウンした。枢木が初めて言葉を発した今日という日は、クラス内で「クルルギ・クライシス」と呼称されることとなったのである。



 僕は、変な勘繰りをされないように、少し時間をおいてから、興奮冷めやらぬ教室をそっと出た。枢木がいる場所は多分あそこだ。少し、話を聞いてみたかった。



 屋上につながる扉を開けると、枢木が屋上をかこっている手すりに寄りかかっていた。天気が良く、柔らかい風が彼女の黒くて長い髪を揺らしている。足元には教室から抱えて持ってきた学生カバンが置いてあった。何気なく遠くを見つめる彼女の姿は、なんだか絵になっていた。


 僕は、枢木に向かって手を振りながら話しかけた。


「よう。災難だったな」

「……」

「ちょっと心配したぞ、取り乱して防犯グッズとか取り出すんじゃないかって」

「……」

「でも、急に話し出したりして、どんな心境の変化だ?」

「……」


 話しかけても反応がない。枢木はぼんやりと虚空を見つめるばかりだ。


「おい……枢木?」

「…………誰?」

「ひでえ!!」


 開けた屋上で、僕の悲痛な叫びが四方に響き渡った。


「大きな声出さないでよ……煩わしい」

「あ、すまん。うるさかったな……」

「口が臭いわ」

「……音量じゃないのね」


 お前はどうしてそう的確に人を傷つけることができるんだ?

 個人的に、同級生女子には「死ね」とか「キモい」とか言われるより、「臭い」って言われる方が深刻な心的ダメージを受ける気がする。


「冗談よ。いちいちへこまないでくれる?」

「へこませた当人がそれを言うか?」


 自分でぶん殴っておいて血を流すなとは、ワンランク上のサディストである。



 閑話休題。



「さっきはどうしたんだ? 急に声を出すなんて」


 僕の問いかけに対し、枢木は無表情に応える。


「……別に。いろんなことを少しずつ変えていこうと思っただけよ」

「……そうか」

「あんなことになるとは思わなかったけれどね……」

「それだけ興味持たれてたってことだろ。結構なことじゃないか」

「そうね……。でも」


 屋上から遠くを見つめ、珍しく不安げに枢木はつぶやいた。


「上手にやっていけるかしら……」


 ……その言葉の重みは、僕には計り知れない。


 一年間、誰とも口を利かなかった自分に、良い人間関係が作れるのか。

 これからも自分の素性を隠し続けるのだろうか。

 あの「父親」相手にうまく立ち回っていくことはできるのか……


 様々な悩みが混然一体となって、彼女の中で渦巻いていることだろう。

 ただでさえ自分を変えることは難しい。なのに、枢木は背負うものが多すぎる。



 僕は何も言えなかった。なんて言ってやればいいか、分からなかった。


 ふと、枢木の足元に目をやる。そこには彼女が教室から持ってきた学生カバンがあった。急に教室を飛び出したものだから、鞄は開きっぱなしで中身が少し見えた。


 あれは……写真用の額、だろうか?


「……枢木、その写真……」

「……ええ、持ち歩いているの。お守り代わりにね」


 枢木は腰をかがめ、カバンからササキが撮った幸さんの遺影を取り出した。やはりどこかみすぼらしさのある、哀しげな写真だ。幸さんの人生を、彼女の遺志を色濃く放つ写真だった。


「……その写真があれば、大丈夫じゃないか?」

「……そうね。こんなことで不安がってたら、おばあちゃんに笑われてしまうわ」



 枢木は額に入った写真の縁をひとなでした。枢木の瞳は、一生僕には向けられないであろう慈愛が見て取れた。表情から、不安が少しずつ消えていく。


 きっと、この写真は枢木雪枝の人生にずっと寄り添っていくのだろう。

 時に彼女を激励し、時に彼女を慰め、傍らで彼女を支えていくのだろう。


 僕はふと、こんな写真を撮ることが、写真家・ササキの存在意義なのかもしれないと思った。


「そろそろ、昼休みも終わるわね。教室に戻りましょう」


 枢木は写真をカバンにしまってチャックを閉じた。表情はほぼ無表情に戻っていたが、不安や焦りはある程度ぬぐえたようだ。


「そうだな、戻るか。……でも戻ったらまたクラスの連中につかまるかもな」

「ああ、ちょっとそれは……疲れそうね」

「気にしすぎんな。友達なんて所詮、指先一つでミュートしたりブロックしたりできるものなんだからな」

「……赤坂君、拗らせすぎて品性を疑うわ」

「……今度ササキにそう言ってくれ」


 そんなことを話しながら、僕らは屋上を後にした。


 天気は快晴。少しずつ気温は上昇し、今も少し湿った風が吹いている。もうすぐ夏がやってくる。校庭の雑草たちもこれからその背丈を伸ばしていくことだろう。


 その後の枢木雪枝がどうなったかは、ご想像におまかせすることとしよう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る