第34話 残照

「い、一体、何が、起きて……中枢が、蒼穹の雷に撃ち抜かれた? そんな、馬鹿な。あれの情報は、どこにも――」


 ドラビヤは呆然と呟きながら、力を失ったように床に膝をついた。


『間に合った、みたいだね。中枢は私が破壊したよ、穹路』

「君、が?」

『うん。本当はもっと早く、被害が出る前に何とかできるはずだったんだけど、地上に落下した時の衝撃で私のティアの一部が破損して、修復するのに今まで時間がかかっちゃったの。……穹路、巻き込んで、ごめんね』


 穹路は僅かに動く首を横に振った。気にする必要はない、と伝わるように。

 その気持ちは彼女に通じたようで、ありがとう、と小さな声が聞こえてきた。


『穹路は自分の意思でここまで来た。螺希や真弥のため、そして、皆のために。それが私はとても嬉しい。やっぱり私の命を預けたのが貴方でよかった』


 そんな彼女の言葉に喜びを抱きながら、ドラビヤに視線を向ける。


「誰と、貴方は一体誰と話しているのですか!」

「俺に、命を与えてくれた人だ」


 穹路がそう言うと、彼女の息を呑む気配が伝わってきた。


『穹路は、私を人だと言って、くれるの?』


 心の奥にいるだろう彼女に頷く。

 夢で見た彼女は自分の行為に心を悩ませていた。

 それこそが確かな証拠だと思う。

 何より彼女が人のようにありたいと思うなら、それがきっと人の証だ。


「中枢は彼女が蒼穹の雷で破壊した。もう、終わりだ」

「そう、ですね。ですが、貴方も終わりです。軌道エレベーターの緊急自壊プログラムが作動しています。間もなく、ここも塵と化すでしょう」

「緊急自壊プログラム、だと?」

「軌道エレベーターを保てない程のダメージを受け、倒壊する恐れがある場合、地上への被害を抑えるためにティアの分解機能を利用して全て分解する機能です。貴方は宇宙空間に放り出され、その再生能力で生き残れたとしても、デブリの一つとして静止軌道を漂うことになるでしょう。つまり、貴方の言う彼女とやらは貴方を犠牲にした訳です」


 ただ問われたから答えただけのような、人格の冷たさとはまた違う無機的な冷たさを湛えた口調でドラビヤは言った。


『犠牲になんか、絶対にしない。穹路、大丈夫だよ。私を信じて』


 それとは対照的な、心に響き渡る彼女の温かく優しい声に頷いて答える。


「俺は、ドラビヤ、お前よりも彼女を信じる」

『穹路、全ての仕上げを。憐れな私の姉に、引導を渡してあげて。中枢なき今、目の前のドラビヤを消し去れば、全てが終わるから』

「……分かった。力を、貸してくれ。ウーシア」


 穹路はあの姿を思い描き、強く願った。

 瞬間、視界に映る自分自身の体が空色の装甲に覆われていく。

 と同時に、蒼穹の雷の攻撃による衝撃がさらに二度、三度と連続し、その振動に伴って穹路を束縛していた真白い壁にひびが入る。

 それによって拘束が緩み、穹路は力任せにそれを破壊した。

 そのままドラビヤへと近づくために壁を砕く程に強く蹴る。擬似重力はもはや発生していないため、低重力の中で空間を直線的に進むことができる。

 ドラビヤはもはや完全に戦意を喪失したように、徐々に崩壊の振動が大きくなる中、その場に膝をついたままでいた。

 その己を見失ったような虚ろな表情と力をなくした姿はもはや害がなさそうにも見える。しかし、穹路は躊躇わなかった。


 人類のためという名目で、どれだけの人間が犠牲になったのか分からないのだ。

 何より人間に作られた自由意志なきAIである以上、たとえリンク機能を失っても、いずれは己の使命に従う選択をするだろう。


「たとえ人類を優れた方向とやらに導けたとしても、そのために目の前の人間の幸福を奪い去る権利はない。そもそも、お前の言う進歩の形は人類の総意じゃない!」


 穹路はそう告げてドラビヤの首を左手で掴み、その胸の中に隠されているだろうティアを目がけて右手を突き刺した。

 夢に見た彼女と同じ構造なら、そこにあるはずだ。


「う、ぐ、あ、ああ」


 ようやく自失した状態から脱したのか、ドラビヤは呻き声をあげ、自分の胸を貫く穹路の腕を見下ろした。その瞳はノイズが走ったように揺れている。


「その、姿は……まさか、想永様が言っていた、いずれ至る人の――しかし……」


 ドラビヤを貫いた右手の握り締めた掌にティアを感じる。チェックメイトだ。


「生命、は、進化を求める、存在。それを、否定する者は、もはや命、では……」

「進化は、その種の意思で決まるものじゃない。求め、望んで、それで何か優れた存在へと進化できるのなら、この世に不幸なんてものは存在してないだろう」


 人がいくら空を飛びたいと思っても、現実にはそうはならない。別の技術によって空を飛べるようになったとして、それは自然の進化とは違うはずだ。

 人間が今のような生物となったのは人間自身の意思ではなく、単なる進化の流れの中での偶然、あるいは多少宗教的に考えれば、もっと大きな何かの意思によって、とでもしか考えられない。


「それ、でも……全ては、人類を縛る、人類という壁を……破壊する、ため、に」

「馬鹿、だな。人類という壁が失われたら、人類は一体何で定義されるって言うんだよ」


 穹路は進化に執着するドラビヤを憐れに思いながら呟き、その右手に力を込めた。

 瞬間、ガラス玉が砕け散るような音が微かに部屋に染み渡り、ドラビヤの瞳から完全に光が失われる。

 その体は力が抜け、穹路の右手に貫かれたまま空間に力なく浮かび上がり始める。

 穹路はドラビヤの肩を掴んで丁寧に右手を抜き、その体を静かに床へと横たえた。


「これで、終わり、なのか?」

『うん。後は、ドラビヤに操られていない、ただ本能のままに暴れるグリーフをどうにかするだけ。それは難しいことじゃないはずだから』

「そう……か」


 ドラビヤの指揮とリンク機能がなければ、たとえ今は一時的にシェルターに押しやられていたとしても、きっと大丈夫だろう。

 穹路は螺希達の顔を思い浮かべながら頷いた。

 軌道エレベーターの崩壊を告げる振動はますます大きくなってきていた。

 いよいよ、その形状を保つ限界が近づいてきているようだ。


「俺はこれからどうすればいいんだ?」

『どうもしなくていいよ。大丈夫だから。私を信じて』


 周囲の壁が少しずつ塵と化していく。それは元が白い壁だったためか、まるで光の粒子が舞うような幻想的な光景だった。

 が、すぐさま宇宙の真空状態へと向かう空気の奔流に巻き込まれ、それを楽しむ余裕は穹路には全くなかった。

 目を閉じて空気の流れに身を任せ、それが収まるのを待つ。

 宇宙。気圧もなく、絶対零度に近く、人体に有害な宇宙線に満ちた世界にありながら、それでも再構成された穹路の肉体はその苛酷な環境に耐えていた。

 身体の境界も、意識の境界も失われるような感覚の中、無音としか言いようのない絶対の静寂に包まれながら、静かに目を開く。

 と、穹路の目に飛び込んできたのは、目の錯覚による幻想などではない正真正銘現実の、奇跡の結晶だった。

 地球。青く輝く、命溢れる星。

 それはどんな写真よりも、どんな映像よりも、どんな想像よりも、遥かに神秘的で、思わず泣きたくなる程に美しい姿だった。


「綺麗、だ」


 そう呟いたつもりで、しかし、音にはならなかった。

 宇宙空間は音を伝える媒体である空気がない以上、無音の世界なのだから。


『そうだね。本当に……』


 それでもそう思ったことは届いたのか、音のない世界の中で穹路の脳裏にそんな彼女の切ない声が響いた。


「ああ。でも、それに比べて――」


 眼下には緩やかに崩壊してゆく軌道エレベーター。

 超巨大建造物であるそれの倒壊は一歩間違えれば地上に甚大な被害を与える。最悪核の冬のような状態に陥りかねない。

 しかし、それすらもティアは分解という方法で容易く解決する。だが、こうなった原因もまたティアにあるのは皮肉だろう。

 一部分解されないまま大気圏へと突入した破片も紅に染まり、消え去っていった。宇宙空間から見る擬似的な流星の美しい光景は、かつての人々の罪が浄化されてゆく様子のように見えた。


「あれは、まるで砂上の楼閣、だな」


 旧時代の象徴たる軌道エレベーターが崩れ去る様を見て、穹路はそう口を動かした。文明など儚く消え去る一時の夢であるかのように思われてしまう。

 しかし、きっとあれもこの時代には相応しくない道具だっただけなのだろう。

 いつの日か人間が真の意味でそれを扱うに足る存在になった時、黙っていてもそれは再び地上に生み出されるはずだ。

 穹路は静かにそれを見詰め続けた。この光景を記憶に刻むために。

 やがて紅の中に多くの破片は消え去り、しかし、まだ周囲に残骸を漂わせながらも、旧時代から残る最後の軌道エレベーター天橋立はこの世から失われた。


『本当に、ごめんね。穹路』

「どうして、謝るんだ?」

『私の我侭のせいでこんなことに巻き込んで。その体だって、私がティアに、私のことをずっと覚えていて欲しいなんて願ったせいで……』

「それは、いいよ。どうせ、俺はあのまま死ぬはずだった存在なんだから。螺希や真弥ちゃん、皆と出会えてよかったと思ってる」


 穹路はその言葉が彼女に伝わるように腹部に手を置いた。


「それより、本当に中枢は破壊できたんだよな? また別の場所に移動されてたりは、しないよな?」

『それは、大丈夫。中枢はあれ一つだけ。確実に破壊したから。……私が機能修復に手間取ってタイミングを逃したせいで中枢が完全稼動状態になっていて危うかったけど、ドラビヤの意識が穹路に向いていたおかげで上手く隙をつけたよ』


 穹路はその言葉に安堵した。

 とにかく自分のやるべきことは果たせたようだ。


『ドラビヤはリンク機能の管理者であると同時に、それ自体が小規模のネットワーク、イントラネットのようなものを構成できる存在だったの。つまり小規模の中枢ね。自分が触れたティアのみだけど、自分を介してデータの送受信を行うことができる。中枢を移動させるのに中枢自体を利用することはできないからね』

「でも、それでどうやって中枢をあんな場所に?」

『ドラビヤ自身の内部ネットワークに組み込んだティアに移動機能を付加して、遠隔操作であの場所へ。そこで中枢のデータを送信、再構成したんだと思う。誤って破壊されたりしないように地上じゃなく、空の彼方で、ね』


 彼女の説明に小さな疑問は解消され、穹路は顔を地球へと向けた。

 穏やかに漂い、静寂の中で輝いている姿は、どこかティアを思わせる。


『ね、穹路。一つお礼を言わせて』

「何に?」

『螺希と真弥のことを守ってくれたでしょ? 特に螺希の時は本当に命がけの思いで。ありがとう』

「それは……螺希は俺にとても優しくしてくれたし、真弥ちゃんは本当にたくさん元気をくれたから。そのお返しだよ。……けど、何で二人のことを?」

『うん。私、ね。このティアにされてしまった人の記憶を持っていたの』

「ああ、確か、真希さん、だったっけ?」


 夢の中で見たウーシアの記憶を思い出す。真希という人のおかげで、彼女にこの人格が生まれたのだ。


『そう。彼女は想永の実験の犠牲にされた、彼の奥さん、だったの。だから……』

「そっ、か」


 彼女の言葉に驚きつつ、どこかで穹路は納得していた。

 それが自分を螺希達に託した理由なのだろう、と。

 それを肯定するように、首元に浮かぶ螺希のティアは地球の青い光を僅かに反射して輝いていた。


『かつての落涙の日は、その全てが想永の仕組んだことだった。破壊と再生の狭間で技術は進歩し、生命は進化する。そう考えて。そして、今回の事件もその延長』


 ならば、落涙の日を彼が命を賭して止めたという話は嘘だった訳だ。

 則行はどのようにして想永が天の御座へ至ったかを疑問に思っていたが、成程そもそも黒幕だったのであればその程度のことは容易かっただろう。


「もう一つ、疑問があるんだけど」

『何?』

「何故、クライオニクスの施設は旧時代から破壊されずに残ってたんだ?」


 思えば、今回の事件は穹路とウーシアが出会わなければ、発生の時期こそ遅れていただろうが、想永の目論見通りにことが進んでいたはずだ。

 これは結果論かもしれないが、それを考慮に入れずとも、極めて合理的な考え方をしそうな想永が旧時代の遺物を残しておくことをよしとするとは思えない。


『……それは、人々に人体実験をさせるため』


 その言葉に穹路は驚愕し、しかし、同時に彼女の記憶にあった光景を思い出して得心がいってしまった。


『穹路も知る通り、進化型ティアは人間を材料にして生み出される訳だけど、クライオニクスを受けた人なら隠蔽もし易いし感情も騙し易いからね。同時にその中で人体実験をも促して、ティアを基盤にした技術の浸透と進歩を導くことが目的だったの。全てはその先にある人類の進歩のために、ね』

「……結局のところ、全て、想永博士の思惑通りになってたって訳か。ということは、想永博士は生きてるのか?」

『それは分からない。行方も生死も不明だから。でも、少なくとも落涙の日に死んだ、ということはないはず』


 あのドラビヤのように、その意思、目的を果たそうとする存在がある限りは、彼は生きていると考えた方がいいのかもしれない。

 いや、彼と言うよりも極端な進化主義そのもの、とでも言った方がいいか。

 科学も思想も、全ては人間のために人間が生み出したもの。扱い方は人間次第。

 しかし、それは決して個々の人間を不幸にするためにあってはならないはずだ。

 人類のため、という題目を掲げることを否定する必要はないし、それが崇高な考えだということも分からなくはない。

 だが、それだけに囚われてしまってはいけないのだ。

 宇宙から見た地球の空。地球を包む青いヴェールを見詰めながら、そこで待っている二人が教えてくれたことを心の中で繰り返す。


「螺希……真弥ちゃん」


 世界を包み込み、そこに生きる全ての命を守る優しさの青の中に二人の笑顔を思い出して、穹路は途端に不安に襲われた。

 この音のない世界は、彼女と共にあってさえ、寂し過ぎる。

 ふと、考える。二一世紀初頭。

 宇宙旅行などという半端な言葉に誤魔化され、真の意味での宇宙進出が遅々として進んでいないように感じられたのは、その空の彼方にあるのは浪漫ではなく、孤独だけだと無意識に気づいていたからではないか、と。


「……なあ、俺は二人のところへ、帰れるのか?」

『大丈夫だよ。安心して。穹路が二人のことを想うなら、必ず帰れるから』


 母親のように優しい声。そう感じてしまうのは無理もないことだろう。

 思えば、彼女はこの新しい時代での母も同然の存在なのだから。


『私は最後の役割として蒼穹の雷を破壊しないといけない。あれもまた、この時代には相応しくないものだから。そして、これで私も役目を終えることができる』

「それって――」

『私はウーシアのコピー。オリジナルの残照に過ぎないからね』


 その言葉に思い出す。

 今会話をしている相手は、ウーシアが生み出したAIに過ぎないことを。

 しかし、確かに彼女の温かさを感じたのだが。


『これまでの言葉は全て彼女が言うはずだった言葉。行動は彼女が取るはずだった行動。そこに温もりを感じたなら、それは正しく彼女のもの。残照の温かさ』


 胸の奥に宇宙に対して抱いた寂しさとはまた違った寂しさが募り始める。

 ウーシア自身は既になく、その気配を感じられる彼女もまた去っていく事実に。


『私には私の道があるように、貴方には貴方の道がある。あるべき場所がある。穹路は孤独じゃない。螺希や真弥が帰りを待っているよ』


 彼女の言葉に促されるように、穹路は螺希から借りたティアを握り締めた。


『貴方がそこにある限り、オリジナルや私がいた事実は消えない。だから、この時代の貴方の居場所で生きて欲しい。……なんて、やっぱり押しつけがましい、かな』

「そんなことは、ない。そんなことはないけど、俺はどうやって帰れば――」

『言ったでしょ。その想いがあれば大丈夫。……機械にはない生命の、人間の心が持つ宇宙の生ける鏡。世界の表象能力。それは進化型ティアによって増幅され、人間の願いを叶える助けとなる。穹路、そのティアに込められた想いを、願いを思い出して、ね?』


 そして、微笑む彼女のイメージを残して声は遠ざかっていき、そのまま聞こえなくなってしまった。


「想い、か」


 彼女の気配、残照の温もりも感じられなくなり、孤独感があらゆる感覚を侵食し始める中、穹路は螺希のティアを両手で祈るように包み込んで目を閉じた。


「螺希……真弥ちゃん……皆」


 この新しい時代で過ごした僅かな、しかし、大切な日々を思い出す。

 これまで孤独を感じずにいられたのは、全て螺希と真弥のおかげだった。

 得体の知れない自分を受け入れてくれた二人には、いくら感謝してもし切れないぐらい感謝している。

 そんな彼女達が涙を溜めながら言葉にした願い、必ず戻ってきて欲しいという願いは何があろうとも叶えなければならない。

 何よりも自分自身が二人にもう一度会いたいのだ。

 だから、穹路はただその一心で二人のことを想い続けた。

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