二 血戦

第10話

 翌日の早朝。徹は佳撫と並んで家の庭にいた。

 服装は昨日と変わらず、徹は高校の夏服スタイルで、佳撫は相変わらずの袴姿だ。

 レオンは一度も里佳に顔を合わせることもないまま既に腕輪と化し、徹の右腕で日の光を反射してメタルブルーの輝きを放っている。


「学校には風邪だって連絡しておくから。きっちり鍛えて貰ってきなさい」


 庭に面した部屋の窓を開けて、静かに里佳はそう言った。

 完全に仮病を使ったサボりだが、看護師である里佳が風邪だと言うのなら誰も嘘とは考えないだろう。

 そもそも親がサボりに加担するとは学校も考えないに違いない。


「では、行きましょう。兄様」


 柔らかく手を握ってきた佳撫に顔を向けると、彼女の瞳が緑色に輝いていた。

 もう世界を繋ぐ準備は整っているようだ。


「……行ってらっしゃい。約束、ちゃんと守りなさいよ?」


 その真剣な、どこまでも真剣な里佳の口調に神妙な気持ちで深く頷いて、それから二人同時に言葉を返す。


「行ってきます、母さん」

「行ってきます、母様」


 それに対して里佳は優しく、どこか儚く微笑んで頷き返した。

 これが下手をすると母親と交わす最後の言葉になるかもしれない。

 頭では理解しつつも未だ現実味は乏しかったが、それでもその可能性を思うと今更ながらに胸の奥に重い何かが沈み込んでくる気がする。

 そんな徹の感情に気づいてか、佳撫が手を握る力を強めてきた。

 それだけで、その重荷を半分肩代わりしてくれたような、不思議な安心感を抱く。

 そして、それとほぼ同時に彼女の力が発動し、視界全てが光に包まれた。


 場所は再び日本庭園風味満載の庭のど真ん中。

 早朝の澄んだ空気によって厳かな雰囲気が増しているような気がする。

 そこは昨日訪れた姫子の家の庭だった。


「随分早かったわね」


 到着を予測するように、いや、実際予兆のようなものがあったのだろうが、姫子の姿が少し離れたところにあった。

 服装はやはり佳撫と同じような袴姿。しかし、改めてよく見ると佳撫のものよりも微妙に高級感があるような気がする。

 別段派手な刺繍があったりする訳ではないのだが、恐らく生地がいいのだろう。


「枝葉の世界はもういいの?」

「……枝葉の世界?」

「あちらの世界のことです。醒者の言葉で、この世界こそは数多ある並行世界の幹となる世界である、というものがあって、それで並行世界を枝葉の世界と呼んでいるんです」

「枝葉、ね」


 醒者とはこの世界に符号呪法をもたらした者のことだったか。

 明らかに強い影響力を持つ人物の言葉なら仕方がないのかもしれないが、どうにも下位の世界というニュアンスが含まれている気がして徹は好ましく思えなかった。


「あれ以上いても、仕方がない。逃げ出せない以上は」


 そういった部分に対するものも含め、声色を不満で染めて素っ気なく姫子に言う。

 あの世界に住まう何も知らない人々を人質に取られているのだから、逃げられる訳もない。それができる程の逆の意味での強さ、非情さは持ち合わせていない。


「そ。……まあ、とにかくついて来て」


 案内するように歩き出す姫子に従って、玄関の方へと向かう。

 しかし、彼女はその引き戸を躊躇いなく通り過ぎると、道場のような建物の脇にぽつんと建っていた離れ座敷の前で立ち止まった。


「貴方にはここで血戦の日まで過ごして貰うわ」

「ここで?」

「そう。彼を倒すための訓練を受けながら、ね。生活に必要なものは全てこっちで用意してあるから、その心配はしなくていいわよ」


 姫子に促されるまま座敷に入ると、元の世界なら国の重要文化財にでも指定されるのではないか、という程の荘厳な空気に迎えられ、徹は気圧されてしまった。

 畳やかけ軸、焼き物などは年代を感じさせるが適切な手入れをされているようで妙に格調高い雰囲気が保たれている。

 そんな近年では中々触れられない高い濃度の和に、足を踏み入れることも躊躇してしまう。比較的普通のはずの徹の部屋が卑俗の極みに感じられる程だ。

 このような場所で生活をしたら、逆に精神が持たないのではないだろうか。


「とは言っても、ここでゆっくり過ごさせなんてしない、けどね」


 そうした心の動きを見透かしたように薄く笑う姫子に軽く背筋が凍る。

 そんな怖い笑顔のまま、彼女は部屋の隅に畳まれて置かれていた道着を指差す。


「とりあえず、あれに着替えて。着替え終わったら早速特訓を開始するから。厳しくいくから覚悟してよ? 貴方も、まだ死にたくはないでしょ?」


 それだけ言って座敷から出ていく姫子を見送ってから、徹は深く溜息をつきつつ指示された道着を手に取った。


「兄様、どうかしましたか?」

「いや、あっちの雪村さんとのイメージの乖離が激しくて、ちょっと、な」


 全く人のことを言えた義理ではないに違いないが、何となく、弱さ、のようなものが感じられる。精一杯取り繕って尚、見えてきてしまうような弱さが。

 いつも余裕があるように見えるあちらの姫子とは、どうにもその点で違う気がするのだ。

 彼女の言葉や態度の端々には冷たさが感じ取れるが、明らかにそれは天然の、生来の冷たさではなく、作為的なものだ。

 目的のために手段を選べなくて、どこか追い詰められた者が無理矢理冷酷になろうとしているような、そんな感じがする。


「お気づきだと思いますが、姫子さんは死んだこの世界の兄様のことが好きだったんです。直接聞いたことはありませんが、雰囲気からありありと分かりました。兄様の死に一番ショックを受けていたのは、実は姫子さんだったのかもしれません」

「そう、か」


 薄々感じてはいたが、やはりそうだったらしい。

 何となく気恥ずかしいが、それはあくまでもこの世界の徹との話であり、自分とは関係ないので不相応な感情だろう。

 状況が複雑なせいで変に意識してしまったようだ。

 しかし、それはともかく――。


「佳撫。今から着替えるから、ちょっと外に出ていてくれないか?」

「え? あ、はは、はい! すみませんでした!」


 佳撫は顔を激しく紅潮させて心底慌てたように、しかし、どこか残念そうに部屋から出ていった。何故残念なのかはよく分からなかったが。

 彼女の姿が見えなくなるのをしっかり確認してから制服を脱ぎ、そこでまた徹は自分の体の状態に気づいた。


「痣が、消えてる……」

『当然だ。それが俺の特性だからな。些細な怪我ならば一瞬で治すことも可能だ』


 レオンのどこか事務的な口調で発せられた言葉が座敷内に響く。


「と言うことは、あの筋断裂はかなりの重症だった、ってことか?」

『多少はな。だが、それだけではない。筋肉をより強く、同時にしなやかに鍛えながら治癒していたためでもある』


 彼の言葉に、昨日見た限りでは一番酷かった足を観察する。

 言われてみれば、何となく筋肉質になっているような気がする。

 所詮は気がする程度だが。


「そう大きな変化は見られないんだけど……」

『いくら何でもたった一日で、しかもあの短い戦いだけで完成させるのは無理な話だ。しかし、そうでなくてもスピードを殺すだけの見せかけの無駄な筋肉は必要ない。特に重さと力ではなく、速さと鋭さで切る俺の扱いにおいてはな』


 確かに剣士のイメージで筋骨隆々としたものは少ないように感じられる。

 テレビでたまに見かける剣道の段位者同士の戦いでも、格闘技のチャンピオンのようながたいの大きさは感じられない。

 単に道着で隠れているだけかもしれないが。

 しかし、実際、己の体自体を武器にする訳ではないのだから、それを使用するスタイルに合わせた筋肉が必要なのだろう。

 剣を振るに足る力、的確に相手を切り裂く精密さ、滑らかな足捌き。これらを可能にする筋肉が剣術にはまず必要に違いない。要はバランスだ。


『今日からの訓練では徹底的に筋肉を傷めつけ、同時に強制的に治癒しつつ、無理矢理にでも剣を振れる体にしてやる。覚悟しておけ』


 淡々としたレオンの口調に寒気がする。

 何と言うか、そこまで不自然な形で体を鍛えても、逆に体に悪そうな気がしてならない。彼らも本気だろうから、それで確かに形にはなるのだろうが……。


『ともかく、さっさと着替えろ。時間は限られているんだ』


 徹は前途に不安を抱き、長く息を吐きながらも、今は言われた通りに道着を手早く着てしまうことにした。しかし――。


「……着方はこれでいいのか?」


 何となく着てはみたのだが、どうにもしっくりと来ない。

 特に下の紺色の袴がイメージとかけ離れていて、かなり不格好だ。

 しかし、レオンは呆れたように嘆息するばかりで教えてはくれなかった。

 時間がないとか言いながら、その説明をする気はなさそうだ。

 別に見てくれはどうでもいいのだが、そのせいで変に転んで怪我をしてしまうのはさすがに避けたい。

 ただでさえハードな訓練が待っていそうな雰囲気なのだから。

 そう思って徹は少し悩んでから、最後の手段を取ることにした。


「佳撫、ちょっといいか?」

「兄様? 何ですか?」

「あ、いや、ちょっと、その、な。着方が分からないんだ。手伝ってくれるか?」

「え? あ、は、はい。分かりました。……では、入ります!」


 何故か言葉に気合を入れて、しかし、どこか遠慮がちに部屋に入ってくる佳撫。

 どうやら、下着姿のままで困っているとでも思ったらしい。

 彼女は徹が適当ではあるが一応は道着を着ている姿を見て、決まりが悪そうにはにかみながら傍に寄ってきた。


「上は、まあ、何とかなったんだけど、下がどうも、な」

「分かりました。では、失礼します」


 佳撫は徹の正面で膝をつくと、変な結び方になってしまっている紐を手に取った。

 一旦それを全て解いてから、前と後ろにある二つの紐の内、まず前の方を徹の腰に抱き着くようにして後ろに回し、交差させて前に回し、また後ろに回して結ぶ。

 次に後ろの紐を、袴を整えながら前側でしっかりと結んだ。

 それでイメージ通りの綺麗な道着姿になり、徹はホッと一息ついた。


「苦しくはないですか?」


 しゃがんだまま軽く首を傾げて見上げてくる佳撫。


「大丈夫だ。ありがとう、佳撫」


 そんな彼女の丁度いい高さにある頭を撫でる。


「よかったです」


 佳撫はくすぐったそうにしながら微笑んで、それから静かに立ち上がった。


「とっても似合っていますよ。兄様」

「そ、そうか?」


 はい、と歯切れよく笑顔で答えてくれる佳撫に、実際のところは馬子にも衣装に過ぎないだろうが、それでも嬉しく思う。

 全くもって気のせいだろうが、こうやって形を整えるだけで強くなったような気さえするから不思議だ。

 精神的な面では、形から入る、という方法も間違いではないのかもしれない。

 あくまでも、精神的な面だけの話だが。


「さて、行こうか」

「あ……はい」


 佳撫は徹の言葉でこれからのことを思い出してしまったのか、折角見せてくれた愛らしい笑顔を微かに翳らせ、小さく頷いた。

 二人並んで外に出ると、待ちくたびれたように姫子は腕を組み、日の光に背を向けて七月初めの空を見上げていた。

 彼女に倣って空を見上げると、太陽はまだ東の空だが、高層建築が周りにないためか日差しが強く感じられる。

 街の周囲が自然な状態を保っていたことも含めて考えると、アニマという外敵がいることによって人口がそう多くはないのだろう。

 だからこそ、高層建築はまだ必要ないに違いない。勿論これから先はどうか分からないが、街で一番高い建物は街を囲う城壁という状態がしばらくは続きそうだ。

 徹が着替えている間に彼女も道着に着替えていたようで、姫子は白色の袴で身を包んでいた。

 それは几帳面に洗濯されているらしく輝くように美しい純白を保っている。

 彼女が普段着としているらしいあの袴とは違う趣があった。

 また、運動の邪魔にならないようにするためか、彼女の長い髪は一ヶ所で束ねられ、いわゆるポニーテールになっていた。

 いかにも少女剣士という感じだ。


「遅かったわね」


 光を反射して艶やかに煌めく黒髪を揺らしながら姫子が振り向く。

 その途中で陽光が目に入ったのか、手でひさしを作りながら。


「さて、と。早速だけど、軽く運動しましょうか」

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